メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

悲しみよ こんにちは (サガン)(原作)

2009-08-18 21:55:52 | 本と雑誌
サガン「悲しみよ こんにちは」(河野万里子訳)(新潮文庫)
 
フランソワーズ・サガン(1935-2004)が1954年、18歳のときに発表した処女作。朝吹登水子訳で長く読まれていたが、今年になってこの新訳が出た。
 
サガンを描いた映画「サガン-悲しみよ こんにちは- 」が製作公開されたことが新訳のきっかけになったのかもしれない。また今回新訳を読んでみようと思ったことも同じ理由である。先日書いた映画「悲しみよこんにちは」はそれを前提に見たものだ。
朝吹訳は15年ほど前、引越しの際に処分してしまい、今回比較が出来ないのは残念。
 
さて読んでみて驚く。すばらしい、そしてこんなにいい文章とは。
1960年代前半、十代のときに朝吹訳で読んでいる。そのときにこれほどとは思わなかったのはなぜだろうか。
当時の社会状況、それもフランスはこうなのかという驚きに惑わされた、翻訳がこなれていなかった、同じ十代でもこちらはまだまだ未熟だった、多分三つ目が大きいのだろう。
 
そう、これはラディゲ「肉体の悪魔」、コクトー「恐るべき子供たち」とならべても遜色ない作品である。この二つは一時の衝撃の大きさで際立つけれども、サガンの方は、もしある程度大人の受け止め方が出来れば、長く尾を引くものだろう。ただの怒れる若者とアンニュイでなく、それが冷静、明確に描写され、そのことによってモラリストの側面をも作者が見せているということにおいて、若いということの弱さ、悲しさが見えてしまうから。
 
解説で小池真理子氏は、「真に彼女が書こうとしていたのは、恋愛ではなく、恋愛を通して描く、「現代の虚無」ではなかったか」と書いている。
それはそうだが、加えてそういう虚無の深遠を見る登場人物を冷静に書き、その後生き続けて行くこと、むしろその厳しさがこの作品の持つ意味ではないか。
 
いくつも読み返したい描写はある。例えば、セシルがシリルの部屋に行き、初めて抱かれ、帰ってきて、父が再婚しそうなアンヌと出くわしたときの、タバコに火がつかない、三本目のマッチも、というところ、絶妙。タバコを吸っていた人間だからよくわかるというのも変だが。
 
最後の最後のところ、小説のタイトルが出てくるのは覚えていたけれども、惜しむように、次の行を隠しながら読んでいた。めずらしいこと。

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