全身詩人、吉増剛造展 声ノマ
東京国立近代美術館 2016年6月7日(火)~8月7日(日)
美術館で詩人吉増剛造(1939~)の展覧会というのは、思いも及ばなかった。朗読などパフォーマンスの場としてミュージアムをということはありうるだろうが。米国などではこういうものあるんだろうか。
今春に「我が詩的自伝」が刊行され、その中でこの催しのことは予告されていたから、自伝の次は?ということで先ずは行ってみることにした。
この人はとにかく事前に想像していたこととはまるでちがう、という人で、この展示もなにか激烈な熱というかやかましさがあるかというとそうではない。
自伝の中で語られていた多くの音声それもオーラルのカセットが並べられ、その中身を聴けるかというより、並んだケースの背表紙・メモを一覧し、この人の世界の一部を想像するということになる。
また若いころからの原稿、多くが大学ノートに書きつけられたものだが、詩のイメージとは関係なくまめである。
そして「怪物君」という吉本隆明の文章など長期にわたりひたすら筆写したもの、これは先の本でも語られていたが、なんともすごいもので、「声に出ていく」ような試作のスタイルに対して、これはエクリテュール? 精神的にバランスを取っているのかという野暮な詮索はやめておく。
また詩人が収集したのか、中上健次と吉本隆明の自筆原稿が展示されていたが、この密で細かいものには驚かされた。特に中上のもの、編集者はどう扱ったのだろうか。
こうしてこのたぐいまれな現代詩人の世界を一通り垣間見ればいいか、と思って最後のコラボレーションというエリアに入ったら、そこで舞踏家大野一雄(1906-2010)との創作映像が上映されていた。釧路湿原で二人が短い打ち合わせみたいなものをやった後、詩人が最初は書いたものを少し読んでいたが、そのあとは何も見ず、二人のインプロヴィゼーションが延々と続き、思わず長時間見入ってしまった。
東京国立近代美術館 2016年6月7日(火)~8月7日(日)
美術館で詩人吉増剛造(1939~)の展覧会というのは、思いも及ばなかった。朗読などパフォーマンスの場としてミュージアムをということはありうるだろうが。米国などではこういうものあるんだろうか。
今春に「我が詩的自伝」が刊行され、その中でこの催しのことは予告されていたから、自伝の次は?ということで先ずは行ってみることにした。
この人はとにかく事前に想像していたこととはまるでちがう、という人で、この展示もなにか激烈な熱というかやかましさがあるかというとそうではない。
自伝の中で語られていた多くの音声それもオーラルのカセットが並べられ、その中身を聴けるかというより、並んだケースの背表紙・メモを一覧し、この人の世界の一部を想像するということになる。
また若いころからの原稿、多くが大学ノートに書きつけられたものだが、詩のイメージとは関係なくまめである。
そして「怪物君」という吉本隆明の文章など長期にわたりひたすら筆写したもの、これは先の本でも語られていたが、なんともすごいもので、「声に出ていく」ような試作のスタイルに対して、これはエクリテュール? 精神的にバランスを取っているのかという野暮な詮索はやめておく。
また詩人が収集したのか、中上健次と吉本隆明の自筆原稿が展示されていたが、この密で細かいものには驚かされた。特に中上のもの、編集者はどう扱ったのだろうか。
こうしてこのたぐいまれな現代詩人の世界を一通り垣間見ればいいか、と思って最後のコラボレーションというエリアに入ったら、そこで舞踏家大野一雄(1906-2010)との創作映像が上映されていた。釧路湿原で二人が短い打ち合わせみたいなものをやった後、詩人が最初は書いたものを少し読んでいたが、そのあとは何も見ず、二人のインプロヴィゼーションが延々と続き、思わず長時間見入ってしまった。