先日出かけた香月泰男展に再度行ってきた。展示には前期と後期があって、今回は後期である。
展示替えは確かにあったが、主要なものは今回もほぼ残っていた。
これだけの展示を一気に見ると疲労感もあり、もう一度見ないととは当初から考えていた。
さて、今回気持ちの上で少し余裕を持ってみると、シベリア抑留とはあまり関係なく絵画に対する方法論、姿勢を画家が持っていたことがわかる。
若いころからいわゆるキュビズムに近い手法があり、また準備段階で彫刻を作ってみることがよくあったということを考えると、画家は対象の生命感、主張を生々しく表出するというよりは、そこにあるものとして定着させるという方向に行っていたように思われる。
シベリアシリーズに多く見られる表情が見てとれない仮面とまではいわないが硬い顔の数々も、それがそこに在る、在ったということが最優先に描かれたと言える。そのために黒が選ばれ、手法として完成されたと、受け取った。
そうなると、この多くの黒い顔たちは、たいへんな記録であり、遺産であるともいえる。
展示替えは確かにあったが、主要なものは今回もほぼ残っていた。
これだけの展示を一気に見ると疲労感もあり、もう一度見ないととは当初から考えていた。
さて、今回気持ちの上で少し余裕を持ってみると、シベリア抑留とはあまり関係なく絵画に対する方法論、姿勢を画家が持っていたことがわかる。
若いころからいわゆるキュビズムに近い手法があり、また準備段階で彫刻を作ってみることがよくあったということを考えると、画家は対象の生命感、主張を生々しく表出するというよりは、そこにあるものとして定着させるという方向に行っていたように思われる。
シベリアシリーズに多く見られる表情が見てとれない仮面とまではいわないが硬い顔の数々も、それがそこに在る、在ったということが最優先に描かれたと言える。そのために黒が選ばれ、手法として完成されたと、受け取った。
そうなると、この多くの黒い顔たちは、たいへんな記録であり、遺産であるともいえる。