「シテール島への船出」(Voyage to Cytherea、1983、ギリシャ・イタリア、140分)
監督・脚本:テオ・アンゲロプロス
ジュリオ・ブロージ、ヨルゴス・ネゾス、マノス・カトラキス、ドーラ・バラナキ
同じテオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」はまだ見ていないし、これも長い映画なのでちょっと見るのをためらっていたけれど、見だしたら案外最後まで見続けることができた。
主人公の映画監督とその愛人(?)役以外はおそらくほとんど素人を使っているのではないかと思うし、セリフは極端に少なく、一つ一つの場面は、できる限り途絶えないよう時間を使って映像が示される。次第にそれが自然になりそのテンポに慣れてくる。
人が歩く場面のゆっくりとしたところ、ウクライナ船籍のタラップが「きわめてゆっくり」と降りてくるところ。
32年間ロシアに亡命していた父が今帰ってくるのだ、映画が急いでどうする?とでもいった感じ。
主人公の映画監督、おそらく冒頭の兵士にちょっかいを出して逃げていく男の子が長じて彼になったということだろう。ギリシャの戦時、軍事政権を経てということか。
主人公はシテール島にロケ・ハンする映画を作っているらしい。その映画の主人公で、抵抗運動をやりロシアに亡命した彼の父親役をオーディションしていて、いかにもの素人がたくさん応募している。今一つ気に入らないでその場を離れたところにラヴェンダー売りの老人が出てきて、この人にしようかと思ったのだろうが、後を追いかけていくと見失う。がそこからなぜかもう映画の中の映画になって、その老人が彼の父親で、32年ぶりに帰ってくるところになる。
このしかけが必然だったのかは、よくわからない。
そのあとは老人が元の妻、家族がいる家に帰るのだが、彼の持っている土地が再開発計画の一部であり、昔からの隣人たちは皆はそれを認め彼にもサインしてほしいのだが、彼はそうしない。
彼の妻も、夫がロシアで3人も子供を作ったというし、あきれるのだが、最後はいうことをきかない亡命帰国者を公海に出してしまうという当局が夫をブイに乗せて出してしまうのに同乗して行ってしまう。おそらくこれがシテール島への船出(!)なのだろう。
さて、この映画の主役は「不在」であり「空白」ある。話が続きそうなところで途絶えるのはこれだ。
不在も空白も人の業ではどうしようもない。これを独特のテンポで後半理解させていく、それは見事というより、唖然とする。
妻にそうさせたのも、やはりよみがえった夫への愛情などというものではなく、夫が一度帰ってきてわかってしまった不在、空白を受け入れるということなのだろうか。
この映画からあまり政治的な主張は受け取れない。
老人はロシアに32年間いたからというのではないけれど、イメージとしてはロシア人の風貌に近い。そして妻もロシアの母親に見える。二人ともギリシャ人のはずだが。