メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

サミング・アップ(サマセット・モーム)

2007-05-09 21:56:21 | 本と雑誌

「サミング・アップ」(The Summing Up、サマセット・モーム、行方昭夫訳、岩波文庫)

サマセット・モーム(1874-1965)が1938年64歳のときに出版した、自伝的随想集である。

 
今頃になってこうして読みやすそうな新訳で出るというタイミングがなければ読まなかっただろう。なにしろこれの抄録は英語の副読本であったり入学試験の問題によくなったりで、高校時代に接したのだが、部分を読むとなんだか倫理の本を読んでいるようだったし、そうなると読解も手こずった記憶もあって、面白いとは思わなかった。
  
しかしながらこうして今読んでみると、これがすらすら読めるし、またよくある芸術家気取りの難しい文章でなく、小説・戯曲で名をなした人の現場に即した話、地に足がついた話は、よく理解できる。
 
天才的な詩人でもない限り、文章をかくということはどういうことなのか、ということだけでも、それがなにかを如実に示している。
 
そして、宗教、思想など、激しいものに翻弄されないバランスが取れた考え方、というか一方では人生に意味はないとしたうえでどう生きるか、それが格好をつけずに描かれている。
 
例えば、

我々は誰しも、一人の例外もなく、最初は自分の心の孤独の中で生きることから始め、それから与えられた材料と他者との交流を活用して、自分の必要に似合った外界を作る。(第22章、p94)
 

私は時々思うのだが、いわゆる理想主義とは、人が自惚れを満足させるために作り出したフィクションに真実の威光を与えようとする努力に過ぎないのではなかろうか。(第75章、p341)
 
ところで、モームはイギリス人だがドイツやフランスで過ごした時期もかなりある。フランス語、フランスの文化に親近感をもち、それらへの評価も高い。
考えてみると、この時代、厳密にはイギリス人ではないがイギリス音楽の作曲家とされるフレデリック・ディーリアスもフランスに住んでいてそこの影響も強いし、ディーリアスを得意とした指揮者トマス・ビーチャムもフランス志向が強い。
今になって戦前イギリスのこういう人たちの一面を見直してみると、何かわかってきそうな感じがする。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我等の生涯の最良の年

2007-05-06 13:00:37 | 映画
「我等の生涯の最良の年」(The Best Years Of Our Lives、1946年、米、170分)
監督:ウイリアム・ワイラー、原作:マッキンレー・カンター
フレデリック・マーチ、マーナ・ロイ、テレサ・ライト、ダナ・アンドリュース、ヴァージニア・メイヨ、ハロルド・ラッセル
 
第2次世界大戦が終り、米国中部の町に帰る三人が軍用機で知り合う。アル・ステファンソン(フレデリック・マーチ)は中年の銀行づとめで子供も大きくこの戦争で徴集にあったのだろう階級は軍曹、フレッド・デリー(ダナ・アンドリュース)は職業経験はほとんどないままに結婚早々で航空兵になったが軍功で大尉、ホーマー・パリッシュ(ハロルド・ラッセル)は空母の中で働いている時に撃沈され両手は義手になっている。
 
戦争前の経験と記憶、戦争の記憶とプライドなどから、周りの人たちが全般に暖かく迎えても、彼らはなかなかすぐには適応できない。フレッドの妻はナイトクラブに出ていて、これは最初から難しそう。
 
ここから後は、なにか戦後日本に入ってきたTVホームドラマを彷彿とさせる雰囲気で、ゆったりと時間をかけて丁寧に描いているとはいえ、インパクトは弱い。TVドラマに感心していたころ見ていたら、アメリカ映画の懐の深さに感心したかもしれないが、それも今となっては、やはり余力を持って戦争し、戦勝国となったところの物語、という感はぬぐえない。ここにはアプレ・ゲールという雰囲気はない。
 
中では、妻とうまくいかないフレッドに傾いていくアルの長女ペギー(テレサ・ライト)の描きかたが、映画としてこちらを引き込む要素になっている。
 
映像では、軍用機からの眺めが随分低高度を飛んでいるなと思わせるところ、フレッドがジャンクになった爆撃機のコクピットから外を眺めているのを機外正面から撮ったショット、特に4発のプロペラがもがれた機体などが、印象的だ。
 
原題で「The Best Years」とあるのを「最良の年」としたのはどうか。年となるとこの帰ってきた年しか想像されないが、原題どおり複数として最良の歳月、日々とでもすれば、なかなか適応できない三人にとっては、戦前であったり、戦中であったり、たとえそれがノスタルジーであったとしても、いろいろと考えることが出来る。それともこの予定調和的な脚本にふさわしく結末の年でいいとしたのだろうか。
 
中で復員兵にからむ男が、ナチや日本をたたかなければ彼らが共産主義をつぶしてくれたのに、という場面がある。もうこの時期には別の敵がいたということだ。
 
三人がよく集まるクラブではオーナー自らピアノを弾き、これがうまい。どうも普通の俳優ではないなと思ったら、「スターダスト」などの作曲家ホーギー・カーマイケルだった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたのために

2007-05-03 21:44:54 | 映画
「あなたのために」(Where The Heart Is、2000年、米、120分)
監督:マット・ウィリアムズ、脚本:ローウェル・ガンツ、ババルー・マンデル、原作:ビリー・レッツ、音楽:メイソン・ダーリング
ナタリー・ポートマン、アシュレイ・ジャッド、ストッカード・チャニング、ジョーン・キューザック、ジェームズ・フレイン、ディラン・ブルーノ、キース・デヴィッド
 
まだ17歳の貧しい女の子がボーイフレンドとボロ車で町を出る。彼女は妊娠しているのだが、途中立ち寄ったウォル・マートで置き去りにされ、ホームレスのようにそこで隠れて生活しているうちに子供を産んでしまい、ウォル・マート・ベイビーがニュースになったせいで、篤志家の女性に助けれ、また何故か次々と男を変え子沢山になっている女性と友達になる。
 
アメリカのそれも田舎でないとこういう話にはならないだろうが、何かいい加減ですむものだから、悪い人はそれが出来、一方善意からの行いもストレートにうまくいくこともある。そんな中で大事な課題を見つけどう解決していくのか、そしてそのほろ苦さなどが、どう出てくるか、それが映画の見どころである。どこか「ガープの世界」をもうすこし軽くした感じだが、それだけ気楽に見られる。悪人は出てくるが、悪行そのものは見せないのもこの映画の特徴。
 
それだけならどうということはないかもしれないが、そこはこの少女をまだ十代のナタリー・ポートマン、そして子沢山の女性をアシュレイ・ジャッドという、誰が考えついたかという配役だから、見てみようという気になる。
 
ポートマンは日本の女優と同じくらい小柄で、このときが最も溌剌としていたのではないだろうか。アシュレイ・ジャッドはかなり長身だけれど、この「五線譜のラブレター」(2004)で魅力的なリンダ・ポーターを演じた女優が、なかなかしたたかな人であることもわかって面白い。ロックのマネージャー役は何故かこのタイプで好まれているジョーン・キューザックで、これはぴったり。
そこへいくと男の方は、彼、元彼、写真家など、まずまずというところだ。
  
少女とカメラ、5が不吉な数字であること、竜巻、図書館、司書、スーパーなど、細かいところも、あまり真面目な話ではなくても、いろいろと考えさせる要素となっている。
 
ビリー・レッツによるこの原作は、米国ではかなり有名なものらしい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラッド・ダイヤモンド

2007-05-02 17:55:58 | 映画
「ブラッド・ダイヤモンド」(Blood Diamond、2006年、米、143分)
監督:エドワード・ズウィック、脚本:チャールズ・リーヴィット
音楽:ジェームス・ニュートン・ハワード
レオナルド・ディカプリオ、ジェイモン・フンスー、ジェニファー・コネリー

1990年代、森と山そして太陽が美しい西アフリカのシェラレオネ、ここはダイヤモンドの産地であり、それは政府軍と反政府軍(RUF)の争いの中で、特に後者が闇の流通で武器購入費をかせいでおり、それを収奪した集落から労働力を調達し、また少年を洗脳して兵士にしている。
 
そういう中で、アフリカ生まれの闇取引屋でそろそろ外に出ようと思っているアーチャー(レオナルド・ディカプリオ)が巨大なピンクダイヤを見つけたらしいバンディー(ジェイモン・フンスー)に目をつける。息子をさらわれて少年兵にされ、家族とも引き離され、再会を一途に求め続けるバンディー、そこにアメリカのジャーナリストで闇ダイヤ取引を追い続けるボウエン(ジェニファー・コネリー)が入ってくる。後の二人にとってはバンディーが某所に隠したダイヤそのものはどうでもいいのだが、アーチャーのうまい駆け引きで、そこへ行くことに協力することになってしまう。
 
このあたりの、いかにもそういう連中にありそうな雰囲気をディカプリオがうまく出しているし、この過程での内戦シーンの中をバンディーと一緒に駆け抜けていくところは、映画として見せる。
 
実はこの映画、この社会性、問題の摘発という性格がもっと強いものだと思い込んでいた。おそらく出すべきところは出しているのだろう。しかし見ているうちに、三人と反政府軍、そして外国人傭兵部隊のドラマとしてのうまい絡ませ方、そっちの方に頭がいってしまった。個々の描き方は常識的、類型的ではあるにしても。
それは、製作側の意図であったようだ。
 
ジェイモン・フンスーはこのところよく見る俳優で、姿もいいし(最初はモデルとか)、抑えるところは抑える演技もいい。ジェニファー・コネリーはいかにもこの役にはピタリでディカプリオが女として魅力を感じるというタイプかどうかを別とすれば違和感はない。ただこの二人だと、ドラマの先が想像できそうな感じがしてしまう。
 
そうならなかったのはアーチャーがディカプリオだったからだろう。この人は主役でも、善悪の両面がなかなか見通せない演技がこのところ多い。これは今回も期待どおり。
 
音響と音楽が、場面展開とともに見事で、こういうところから見る方もアフリカの音のイメージなじんでいくようだ。パーティでのダンス集団の中でアーチャーとボウエンが互いの立場をもとにやり取りをするのが、ラップのような感じにきこえるのも面白い。
 
この映画でもアフリカ人の描き方は類型的で、特に悪の複雑性が描かれていない。西欧社会の利益の犠牲という視点はあっても、それに乗る人、反抗する人という単純な図式からあまり出ていない。そういう意味でも「ホテル・ルワンダ」は意義ある作品だった。
 
三人が突破に使う車がパジェロ、続くマイクロバスがローザで、いずれも三菱。この国はパリ・ダカール・ラリーのコースからそう遠くもないからだろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カプリッチョ(リヒャルト・シュトラウス)

2007-05-01 22:13:33 | 音楽一般
歌劇「カプリッチョ」(作曲:リヒャルト・シュトラウス)
指揮:ウルフ・シルマー、演出:ロバート・カーセン
ルネ・フレミング(伯爵令嬢マドレーヌ)、  ディートリッヒ・ヘンシェル(マドレーヌの兄・伯爵)、ジェラルド・フィンリー(詩人オリヴィエ)、ライナー・フロスト(作曲家フラマン)、フランツ・ハヴラタ(劇場支配人)、アンネ・ソフィー・フォン・オッター(女優)
パリ・オペラ座(2004年6月)
 
カプリッチョというオペラは、接する機会が少なく、映像でも1990年夏のザルツブルク音楽祭のものが翌年NHK-BSで放映されたのが初で、その他に記憶がない。こっちは、ホルスト・シュタイン指揮ウィーン・フィル、演出はヨハネス・シャーフ。
 
弦楽六重奏のかなり長い前奏は、室内楽として単独に演奏されることもあるくらい何時聴いても魅力的で、それから音楽は切れめなくよどみなく絶えることがないかのように続いていく。スコアの通りにやれば1幕12景約2時間半を休みなくだから、やるほうも聴くほうも大変で、そういうことも上演機会が少ないということと関係があるのかもしれない。
 
だからこのように録画映像で味わうのには非常に適していて、このR.シュトラウスが得意とする常動というか無窮動というか、つぎつぎと違和感なくしかも表現力たっぷりと流れていく音楽、そしてアリアでも無愛想な語りでもない言葉の流れ、そうなるとむしろ字幕つきで見るのに最も違和感のない作品だ。
 
話は、マドレーヌの愛情を勝ち取ろうと、詩人と作曲家が、言葉と音の優位について論争する、とそこへオペラが嫌いな兄の伯爵、と劇場支配人が加わり、特に後者は詩人と作曲家の仕事を総合する彼の才と職務の崇高さを延々と語る。ここのところはくどいのだが、ついている音楽はそれを破綻させない。
 
結局は議論で決着するのではなくこの議論を題材にオペラを作ろうということになり、明日までに作ることになる。そしてマドレーヌはその後どちらを取るのか、結局それは出来ないと思わせながら静かに幕は降りる。
 
そして見ているほうは、こういうオペラを作ろうというあたりから、その結果として出来たオペラを、我々は最初から、実は、見ていたのだということに気づく。これは、コメディというわけではないので、そのことを登場人物が観客に明かすことはない。例えば「こうもり」のように。
 
この脚本は作曲者と親交があった指揮者クレメンス・クラウスが書いたそうで、そうなれば言葉か音楽かという議論を二人が作品化し、途中まではにやりと笑いながら確信犯で観客をだましたのはさぞ楽しいことだったであろう。
 
この演出(ロバート・カーセン)で問題があるとすればこのところの扱いである。一度見たものはこの仕掛けを知っているのだが、それでもその二重構造を楽しみながらこの音楽を聴いている。それは、舞台装置でマドレーヌが一人のときに効果的に使われる大きな鏡、そう鏡と鏡が向き合う面白さは、作品自体に内包されているのだ。
 
それを、人物の登場の段階で、これが劇場の舞台での始まりを示唆したり、最後の場面でマドレーヌが歌うところをマドレーヌ本人他関係者が劇場のバルコニー席から見ているという仕掛けを見せている。
これは余計であろう。ザルツブルグ音楽祭の演出ではあえてそういうところは出していなかった。
 
最近はあまりオペラを見ていないので、ルネ・フレミングとオッター、そしてプロンプター役でちょっと出てくるロバート・ティアー以外はよく知らないが、フレミングは姿も、ちょっと気が弱そうな感じもこの役にぴたり、オッターは少し個性的過ぎるだろうか、劇場支配人のハヴラタはとってもうまい。この人の中ほどの長い歌と、フレミング(マドレーヌ)の最後の結論とためらいの長い歌が、ちょうど対応する二つの柱になっており、言葉と音の対応と、縦横の関係になっているといえる。
 
「カプリッチョ」が出来たのは1941年、初演はクレメンス・クラウスの指揮で1942年(ミュンヘン)というから、ああいう時代にこういうオペラは、といっても何かわかるわけではない。
このよどみない魅力的な音楽になにか悔恨と諦念が加わったような戦後の「メタモルフォーゼン」。
しかし、それでどうとも言えない、これは音楽の中だけのこと。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする