メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ピカソ展(国立新美術館)

2008-10-18 17:59:31 | 美術
巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」(10月4日~12月14日、国立新美術館)
パリの国立ピカソ美術館の大改修によって可能になったという世界巡回展の一環だそうで、同時期にサントリー美術館で開催されている自画像を中心とした「巨匠ピカソ 魂のポートレート」と対をなしている。
 
パブロ・ピカソ(1871-1973)の生涯各時期の作品を十分な数、それもいろいろと変わっていった表現、そして画家の人生を彩った女性たち、これらをひととおり理解できる展覧会である。これだけまんべんなく並べられたピカソを見るのは初めてだ。
 
パリに行ったとき、もう一日余裕があったら、このピカソ美術館に行こうと思っていた。
 
本当に、自分が接するものの把握、特に次から次へと現れる様々なジャンルのアートの潮流、社会思潮などなど、それらにためらいなく取り組み消化し、表現する。そこにぶれはなく、使う技術も確かであり、一つ一つは感心する出来栄えだ。
 
しかしながらなんという天才カメレオンだろうか。そして、こうやって生涯を概観する展覧会でピカソの作品を見ることがいいのかな、という疑問は残るのである。
 
これまでは、せいぜい数点鑑賞する機会があって、特にキュビズムの存在理由を感じさせるものなど、後まで残ったものである。
それから、国立西洋美術館でゲルニカに関する展覧会を見た記憶があって、そのとき作品としてのゲルニカそのものは持ってくることが出来ないのため大きな写真を組み合わせて壁一面にしていたはずだが、ピカソに関して一つの強烈な印象を持ったことは確かである。調べてみると1962年で、そんなに早熟ではなかったのに見ていたのだろうか。
 
これは見方、見せ方の問題なのかどうなのか。この次にピカソを見るときは、やはり一点一点ゆっくり見たい。
 
ただ、画家としてどう評価するかといえば、この人は、何か一つのことを愚直なまでに繰り返し、それを長くやっている間に、他のものが想像できなかったものを生み出す、そういうタイプの画家ではないようだ。
例えばゴッホ、セザンヌ、そしてモネやマネと比較してさえ。

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ボストン美術館浮世絵名品展

2008-10-10 21:41:05 | 美術

ボストン美術館浮世絵名品展」(10月7日~11月30日、江戸東京博物館)
 
ボストン美術館は日本美術の名品を多く持っていることで知られているが、今回は浮世絵の名品をまとめてみることが出来る。
 
それも、明治初期にフェノロサやビゲローが集めただけあって、初摺りも多く、また保存もよいことから、これまでに見たことがあるものでもそのよさが一段と際立つ。照明も暗すぎず、楽に鑑賞できるのもよい。そうなると当然この次に展示されるのはかなり後になるということなのだろう。
  
18世紀初めのものでも、丹の色もまだ鮮やかだし、全体に鮮明で、このころ既に絵、彫り、摺りの技術が確かになっていたことがわかる。
 
どれがということより、こうして見ていくと、まず風俗として楽しく、200~300年前の人々の、豊かな感覚、生活がこちらに伝わってくる。 
 
そうして描いていく中で発見し、強調してやろうという意図が生まれ、それを別次元の世界として完成させたことに感嘆する。
 
幕末になると、北斎も見事だが、ここで数が多い歌川一派の広重、そして名前に国がつく人たちの大胆な、見事なデザインに昇華したものもある一群は、見に来た甲斐があった。着物の模様も見ていて飽きない。

 
北斎の冨嶽三十六景 山下白雨、広重の東海道五拾三次之内 庄野 白雨は、傑作であることも知っているが、今回こういう摺りで見ると、こんなに見事なものだったかと思わせる。
 
中でほほえましいのは、歌川国芳の「梅の魁 」だったか、三人の女性が襟巻きのようなもので寒さをこらえながら、その中はあったかそうな感じが見ごとにでている一品。


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ハンマースホイ展

2008-10-07 21:42:31 | 美術
(9月30日~12月7日、国立西洋美術館)
 
ヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864-1916)については、この展覧会の企画が日経で報じられる前、その名前も知らなかった。
 
ほとんど人の顔を描かない、人物は後姿、そして誰もいない室内を描いた多くの作品、こういう画家については、変な言い方だが、今回のようにうんざりするほどの展示を見たほうがいい。
 
なれない種類の絵だから、まだ結論を出すのはやめよう。ただ、見ていて気がついたことを二つ。
 
顔を描かないが、人を描く場合に顔に対峙してしまうと、その人に対して様々な、雑念も入った、想念が頭に浮かぶだろう。それが浅いレベルで何か影響を描く手に与えることはあるだろう。
 
そしてもう一つ、誰もいない室内、遠近法や光と影の物理学からいくと変なところがあるけれど、それは描く人、絵を見る人に、特定の決まった視点を与えないため、そして空間に入ってもらうため、といえないこともないのではないか。
 
とはいっても、いくつかの作品は、何も考えなくても、完成度は高く見事。
 
見ていて、なぜか思い出したのが、ウディ・アレンの映画「インテリア」(1978)。30年も前に見た映画で、筋は覚えていないが、室内のセットと逆光が特徴的なカメラは印象に残っている。そういえばベルイマンまがいと言われたこともあったから、北欧のイメージがアレンにあったのかもしれない。

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バルトーク協奏曲集(ブーレーズ)

2008-10-06 15:08:52 | 音楽一般
バルトーク
「2台のピアノ、打楽器と管弦楽のための協奏曲」、「ヴァイオリン協奏曲第1番」、「ヴィオラ協奏曲」
ピアノ:ピエール=ロラン・エマール、タマラ・ステファノヴィチ
パーカッション:ニール・パーシー、ナイジェル・トーマス
ヴァイオリン:ギドン・クレーメル、ヴィオラ:ユーリ:バシュメット
ピエール・ブーレーズ指揮ロンドン交響楽団(第1曲)、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 
ブーレーズによる一連のバルトーク録音の最後、といっても、まだあったかという感じがしたのだが、地味目な曲ということもあって、むしろ楽しめた。
 
「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」(1937)というのはあったけれど、こんなのあったっけと思って調べたら(レコード芸術の演奏評でも何も書いてないのは不親切)、作曲者自身による編曲(1940)で、1943年にフリッツ・ライナー指揮ニューヨーク・フィルハーモニー、作曲者夫妻のピアノで初演されている。コンタルスキー兄弟による録音(ウェルゴ)のライナーノートに故・柴田南雄が書いているもの。
 
さてこうして聴いてみると編曲版は成功のようで、ピアノと打楽器だけだと、部分的には面白くても、バルトークで私の嫌いなところ、つまりやたら攻撃的、表面的に悲劇的なところが長く続いて疲れる、といったところがない。
 
これはやはりブーレーズによる全体のバランス、そして録音の完成までのレビューによるものだろう。きわめてうまくブレンドされた音である。もちろん、ピアノの一人はエマールだから、ブーレーズの意図を十分理解していたに違いない。
 
ところで思い出して久しぶりに聴いたのが、作曲者夫妻のピアノによる最初の版の録音で、1941年ころの放送録音を息子の名録音技師ピーターが処理して聴ける状態にしたもの。1971年VOX(日本コロンビア)の廉価盤(1000円)だ。
第1楽章の非常にゆっくりとテンポを早くしていくところなど面白いが、25分ほどかかる曲全体は、第3楽章を除くと単調で、編曲した甲斐があったことをむしろはっきりさせる。
  
ヴィオラ協奏曲も静かに始まり、しっとりしたところもあるいい曲で、バシュメットの演奏もいいが、やはり聴きものはヴァイオリン協奏曲で、ギドン・クレーメルはいつの間にこんなに角が取れて、しかも甘くはない演奏をするようになったか、この曲こんなに深く入っていける曲だったか、と思わせる。
 
ブーレーズは1970年代にバルトークのオーケストラ作品ほとんど全部とオペラ「青ひげ公の城」を録音、それらが出るたびに、バルトークの世界を経験していった、という思い出がある。あんまり好きにはなれなかった作曲家だけれど、こういう指揮者がいたのはありがたい。近代、現代の主要な作曲家ほとんどをカヴァーしてくれて、パイロット役をつとめてもらったことになる。
 
その後90年ころからCDで再録音が続いて、一応買って聴いたものの、最初のものほどこちらも力が入るというわけにはいかなかった。しかし、ブーレーズがかかわってのピアノをはじめとする協奏曲はCDからで、いままでより集中して聴け、少し理解が進んだということはあった。

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マイスキー/アルゲリッチ

2008-10-04 23:08:18 | 音楽一般
マイスキー&アルゲリッチ ライブ・イン・ジャパン
2000年11月京都でのライブ録音CD(2001年、DG)
ショパン「チェロ・ソナタ」、フランク「チェロ・ソナタ」、ドビュッシー「チェロ・ソナタ」、ショパン「序奏と華麗なるポロネーズ」
 
もう10年以上前からアルゲリッチの録音はほとんどライブであり、また演奏会でもソロはほとんどない。それもあって、新しく出るCDもいつかあまり注意しなくなっていて、これも見落としていた。
 
レコード芸術9月号に吉田秀和がわざわざ取り上げていたのを読んで、店に行ったがなく、日本だけで出たものかもしれず、ネットでも新品はない状態であった。ところが同じ店にしばらくして他のものを買いに行ったときにもしやと見てみたらなんと一枚、、、
おそらく吉田の文章の影響もあって、どこかから探してきたのだろう。これはありがたい。
 
どうしても聴きたかったのは、ショパンのチェロ・ソナタだったからである。ショパンが書いたピアノ以外の曲はそんなにないが、中でチェロ・ソナタは優れたもので、多くのチェリストのレパートリーになっているのは以前から知っていた。知ってはいたもののチェリストのリサイタルで聴いた覚えはなく、LP、CDも買ったことはない。放送で聴いたことはあったかもしれないが記憶はない。
 
そのチェロ・ソナタは、ショパンとしては一度聴いたら忘れないというほどのメロディーではないものの、聴きやすく、ゆっくり大きく展開していく様は、気持ちがいい。そしてマイスキーがまた、こんなに軽くストレスがない弾き方が出来るのかと、軽く踊るような様で進んでいく。アルゲリッチのピアノとともに楽しめた。
 
ただ他の曲を比べるとなにかボーイングが軽すぎないかと思った。この曲はシューマンの曲の後に演奏され、その後休憩に入ったはずで、そうするとこのCDの他の曲は後半の演奏。休憩でマイスキー自身が何か変えたのか、録音サイドで設定を変えたのか、単にマイスキーの直感的な振りなのか。小さなことではあるけれど。
 
フランクの曲はまさにあのヴァイオリン・ソナタをチェロで弾いたもの。これはよくあるそうだ。マイスキーの音色、タッチもあるのか、こっちのほうがしっくりくる感じもあり、説得力もありそうだ。ただこの演奏ではヴァイオリンのときに見られる聴く側の神経に刺激を与えるようなフレーング、それによって何かくっきりと形を示していくという効果ななくなっている。
 
ドビュッシーは、これまで聴いた何人かの演奏とは違って、これももっと太く伸びやかな演奏となっている。また、第3楽章の諧謔のモダーンな度合いといったらいいか、そのあたりはマイスキーが弾いているということが頭にあるからだろうか、まさにストラヴィンスキーやプロコフィエフのモダーンにつながるものである。
 
そして最後、アンコールに弾かれたもう一つのショパン「序奏と華麗なるポロネーズ」。こういう曲があるから、ショパンは油断がならない。
覚えやすい、効果絶大、といえばそうだが、何度も聴くに耐える素晴らしいものである。作品3だから若いときで、そのあとすぐ作品22が生涯の傑作「アンダンテ・スピアナートと華麗なるポロネーズ」である。
 
この演奏、もう二人にぴったりであって、考えないで弾いても見事にはまってしまっている。その何も不安のない、ためらわないということが、単なるブラブーラ、見得でなく、聴いていても音楽のよろこびを実感できる数少ないケースになっている。
特にアルゲリッチは、いくつかの部分では二人であわせるなどということを超えて、飛び出してくる。いくつかのフレーズで、フレーズのまとまりは「華麗」だが、その中の一つの音が飛び抜けて「ブリリアント」で、「あっ、これこれ、これがアルゲリッチの輝ける音」と聴くのだ。
 
この曲も実はチェロ・ソナタと同様、意識して聴いたのは初めてである。ところが違うのは、曲名は知らないのに、このフレーズは記憶があることだ。思い起こしてみるのだがわからない。映画「戦場のピアニスト」で使われたかなと思ったが、サントラ盤の曲名リストにはなかった。

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