えー、ちょっと島原を離れまして(島原半島博物日誌なのに)、実家のある時津に帰っていた時の写真です。
こちらは長崎県指定の史跡「長崎甚左衛門(ながさき じんざえもん)の墓」です。
今回、島原の歴史を勉強中にこの長崎甚左衛門の名前が出てきました。
地元の時津にはこの長崎甚左衛門の墓があることを思い出し、久しぶり(それこそ二十数年ぶり)に行ってみました。
基本的に場所や道順は変わっていませんでしたが、昔はもっとうっそうとした所だったような気がします。
さて、この「長崎甚左衛門の墓」には“長崎港開港の祖”というキャッチフレーズがついています。
なので、小学生の私は唯単に「長崎港を(土木工事で)開いた人だ」との認識しか持っていませんでした。
ですが先に記したように、島原の歴史を勉強中にその名前が出てきたのです。
疑問を持って調べてみると、キリシタンに関わる人だったことが分かりました。
以下、時津町教育委員会設置の解説板より
「長崎氏は、代々長崎の領主でした。
妻の父であるキリシタン大名の大村純忠と謀り(甚左衛門自身も洗礼を受け、ベルナルドという洗礼名を持つ)、平戸・大村・島原の商人を招いて今の長崎県庁付近に町を開き、元亀二年(1571年)南蛮人と交易するための港(長崎港)を作りました。
禁教により、天正十五年(1587年)長崎を失い、時津に七百石を与えられましたがそれを受けず、久留米・横瀬浦(西海市)を転々として時津に移り住みました。
元和七年(1621年)12月、七十年余りの生涯をこの地で閉じました。」
自分が幼少を過ごした頃の土地と島原の地を結ぶ意外な接点があり、驚きました。
こちらは長崎県指定の史跡「長崎甚左衛門(ながさき じんざえもん)の墓」です。
今回、島原の歴史を勉強中にこの長崎甚左衛門の名前が出てきました。
地元の時津にはこの長崎甚左衛門の墓があることを思い出し、久しぶり(それこそ二十数年ぶり)に行ってみました。
基本的に場所や道順は変わっていませんでしたが、昔はもっとうっそうとした所だったような気がします。
さて、この「長崎甚左衛門の墓」には“長崎港開港の祖”というキャッチフレーズがついています。
なので、小学生の私は唯単に「長崎港を(土木工事で)開いた人だ」との認識しか持っていませんでした。
ですが先に記したように、島原の歴史を勉強中にその名前が出てきたのです。
疑問を持って調べてみると、キリシタンに関わる人だったことが分かりました。
以下、時津町教育委員会設置の解説板より
「長崎氏は、代々長崎の領主でした。
妻の父であるキリシタン大名の大村純忠と謀り(甚左衛門自身も洗礼を受け、ベルナルドという洗礼名を持つ)、平戸・大村・島原の商人を招いて今の長崎県庁付近に町を開き、元亀二年(1571年)南蛮人と交易するための港(長崎港)を作りました。
禁教により、天正十五年(1587年)長崎を失い、時津に七百石を与えられましたがそれを受けず、久留米・横瀬浦(西海市)を転々として時津に移り住みました。
元和七年(1621年)12月、七十年余りの生涯をこの地で閉じました。」
自分が幼少を過ごした頃の土地と島原の地を結ぶ意外な接点があり、驚きました。