両親が共働きのため、子どもの頃から、我が家の料理はもっぱら祖母の役目だった。家族のために、特に孫のためには、骨身を惜しまず、四六時中働きっぱなしの、根っからの明治の女性だ。
高校生の頃、テレビで習ったといって、挽き肉料理をこしらえてくれた。蓋付きの耐熱皿にバターを敷き、その上にハンバーグの下ごしらえに近いミンチを乗せ、さらに茹でたマカロニを敷き、ケチャップをかけ、パン粉で蓋をし、さらにミンチを…、といった具合に何層にも盛り上げられたものは、ぼくたち兄妹には、生まれて初めてのご馳走に思え、絶賛したものだ。その料理が何という名前なのか、未だに分からない。祖母は、
「イタリアの料理とか言うとったなぁ」
それだけである。魅せられたのは、ぼくたちだけではない。友人たちはただこの料理のためだけに我が家を頻繁に訪れたほどである。いつしか我が家の名物料理になっていた。
白内障で目がそれほど自由でなく、それ故、石油コンロしか使えない人だったが、友人たちの歓ぶ顔が見たいと、いそいそと台所に向かっていた。
果たして何という料理だったのか、今でも時々気になることがある。教室には料理の達人がたくさんいるので伺ってみるのだが、
「ラザニアではないか知らん」
というヒントをもらった。
当時、1960年代半ば、ラザニアという食材が手に入る術などなかったし、ましてパスタの一種であることなど知る人の方が少なかったのではあるまいか。
知ラザニア、言って聞かせやしょう
もっともぼくにはラザニアそのものも分からない。ラザニアなんぞ売ってないからマカロニで代用は分かる。オーブンなんて洒落たものは、あるところにはあっただろうが、裕福ではない我が家になんぞある訳ない。祖母は
「蒸し器で長いこと蒸したわさ」
と涼しい顔をしていたっけ。とにかくずっと気がかりなレシピなのである。
昨日、娘がぼくのためにそのラザニアを作ってくれた。ぼくがしばしば話題にするので閉口したものと見える。だが、食材のすべてが本格的なイタリア風で、味も悪くない。ブロッコリー、菜の花など季節の野菜を忍ばせたところに娘なりの工夫が見られ、それはそれで感動ものであった。
娘のおかげで明らかになったのは、祖母の料理が「ラザニア」ではないということ。それでは一体何だったのか。後に引っ張る謎である。陽気のせいか、天候のせいか、ジリオラ・チンクェッティの「雨」が流れる教室、60年代は遠い。