盛岡市の上田通りは、今の中央病院のところに専売公社のたばこ工場があった頃に形成されたらしい。当時はタバコは手巻きであった。なので3000人の工員がいたという。それを当て込んでの飲食店街ができたというところがある。で、それを見込んで飲食店街というかモールと言おうかそういった建物を作る地主もいたわけだ。代表的な建物で八重洲会館の2階建て雑居ビル形式と、上田会館の平屋モール形式があった。
私が盛岡に来た32年前からあったわけで、当時から二つの建物は新しさはなかった。その佇まいから多分その専売公社時代あたりからあるのだろう。
まあ専売公社がなくなっても、NHKや国土交通省もあった。そして岩手大学もあった。大人向けの店と学生向けの店に2分されて存続していた。だが学生が飲みに出歩かなくなった頃から、徐々に衰退が始まってゆく。20年前からそれが始まった。居酒屋ブームで大通りの方が安くなったのだ。その上魅力的なメニューもあった。その点で完璧に上田通りは遅れてしまった。そして10年前くらいから明快に始まった、宅飲みブーム、誰かの家で飲むというものだ、それがとどめを刺したと思う。なお宅飲みの経費は以外と高い。理由は防音がしっかりしているマンションでないとかなり難しいのだ。築30年のアパート(改装済み)では難しいだろう。その分の経費を払っていることになる。
基本的に今の上田通りには、学生向けの店はない。学生も大人も入れる安くて気軽な店しか生き残っていない。
上田会館は思い出が多すぎる。やっぱり「くまちゃん」だろう。あれはいい店だった。おでんの店なのだが、今のコンビニのおでんなんて目じゃないくらい美味しかった。きちんとした材料と始末がされてある、きちんとしたものだった。そして店内が綺麗だった。接客も柔軟でとても居心地が良かった。
次が「ともしび」だろう。ここは学生向きだったが後半戦なんかマスターが変な感じになって、学生の足が一気に遠のいて大人の店になったら、突然移転してしまった。まだあるとはいう。個人的に学生時代としては高い方の店だった。だが後半から金額がおかしくなっていたという記憶がある。
忘れられないのは「吉野」だろう。マスターは元プロボクサーだという。苦労人らしい奥さんと一緒に経営していた。悪い店ではなかった。というかユニークだった。だが店は徐々に荒んでいた。掃除が行き届かなくなり少し饐えた匂いもした。だがある日突然警察が入った。奥さんが厨房で死んでいたのだ。理由は未だかつて不明だ。だが、常連は荒んでいった理由を知っていた。だからなんとも言えない気分になった。見ていたし止められないのもわかっていた。ただそれだけを見ていたというのが罪深いことだ。ますます荒んで、しばらくして店を閉めたが、誰もここのブロックを借りようとはしなかった。
この頃から確実に上田会館は衰退してゆく。私が知っている時代で残ったのは「大空」だった。後に入った「ビバ」さんは、悪いわけではないが、安いだけの店だった。もしも悲しいスナックというのを見たければ、ビバさんだったろう。ママさんは悪くはない。ただママさんは非力すぎた。ただ客筋は悪くなかった。
「大空」は最近まで通っていた店だ。とはいえここのところご無沙汰になっていた。彼女は若い時には壮絶な美人だった。真面目に味わいの「くまちゃん」と高値の「大空」だった。接客スタイルも「高値」でありながら庶民的にソフトな店だった。だがプライドは持っていた。多分八重洲の「たむら」と「くまちゃん」以外であそこまで厨房が綺麗な店はなかったのではないのかと思う。
客筋も最高を保持し続けたが、お客様も高齢化してゆく。今後どうなるのかはわからないが、普通は引退だろう。
「大空」のママさんなのだが、あれほどゴージャスな人はそうそういない。美人からゴージャスに移行したのだ。太ったとも言えるが、ゴージャスになったというのは、これは本当だ。
ところで、私、「泳げたいやきくん」をブルース調で歌っても許してくれる店を失ったわけで、さてどうしましょう。「黒の舟歌」も結構きついですよね。誰も知らんし。
僕の方が時代はちょっと前かなあ?
突き当たりにあった「りゅう」、左奥の「一騎」とか「食いしん坊」
取り壊しですかあ、うーーん残念です
学生時代はお金がなさすぎて、上田会館は高い店に入っていました。なので幸楽園が一番行っていた店です。「食いしん坊」ありました。
とはいえ、「ビバ」と「大空」の2店舗になって何年たったのだろうか。新規の店をいれず、取り壊しは相当前から決めていたのでしょう。
今更地になっています。
幸楽園の思い出といえばつきませんが、まあここは上田会館の話ですし。
とはいえ、私としてはあの味噌ラーメンと、実は裏メニューだった水ギョーザとチャーシューが絶品でした。そしてビールが国内メジャーが全部あったという驚愕の事実が。キリン・アサヒ・サッポロ、キリンだったらラガーと一番搾りといった具合で全部あったというのが、あサントリーもあったと思う。あれはすごかった。ただし日本酒はあさ開のみでしたがね。
週刊マンガ誌もメジャー全部あった。
なぜ焼きそばがボロボロなのかといえば、あえて短くしていたとか、実はこだわりの店だったのです。モヤシの始末の仕方とか実は本当に真面目な店でした。もう汚いだけで。
ただね、やっぱり閉店近くで親父の足がパンパンに腫れていて、そこで相談に乗って触った時の衝撃はたまんなかったです。足の甲から何箇所か指で押して、戻らないんですよ。
むくみとかではなくて、明らかに病気だったんです。それでも鍋を振るっていたのは何かわかりませんが、今思っても泣きたくなることでした。
でもね、幸楽園も最後の方は学生ではなくて、安いからというだけで入る普通の酔客とか、学生でもなぜ我慢しなければいけないのか全く理解できない人が増えていたのですよ。
あの店の流儀がわからないと楽しめない、時代の変わった節目だったと思います。
岩大卒なので
とくちゃんとか、さわとか、くまちゃんとかけんちゃんが残っているのかなあと検索したらここにきました
共感しました
ありがとう
5/20に材木町のよいちで幸楽園の奧さんに会いました。元気でしたよ。