どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

仕事ばかりしています

2017-04-21 01:34:33 | 日記

 

今日は仕事ばかりだった。なので何も書くことがない。

強いて言えば昨日米山から「写真って分かりにくい」と言われたことかな。写真は、その過剰性が問題になることが多い。コマーシャルがそのあたりを省いて省いて撮影するのは、その過剰性のためだ。その次に絵画の人ほどわかりにくいのだが、そのタッチのなさだ。印画紙は常に同一で、薄い膜上に映像がある。これはタッチや構図などからそこに込められた意図を見出す人にはかなり困難な作業だ。そしてそういった作業性から生み出された象徴的な、それでいて具体的な意図は見出しにくいのはよくわかる。

その上なのだが、写真家の多くは独自のタッチを持っている。機械を通しての個性としか言いようのない世界だ。オートマティックな写真の世界では、つまり現像なりなんなりのアナログの作業も突き詰めれば個性を表現する手段ではなく、フィルムの情報を操作する作業でしかない。フィルムの上にあることしかできない。それで、なかなかに難しい。一枚の写真でこの作家は素晴らしいかどうかは、誰も判断できない。続けていい作品を作り出す個性が求められる。

個性を表出するためにはテーマに沿った連作という形がある。過剰性を連作で収斂させる手法だ。だがこれはこれで過剰性が災いして読み手をミスリードしがちだ。というか美術の人には写真連作はかなり読みにくい。そこにあるコードが、文学的であったり社会的だったり、はたまたセンスのみの追求だったり、それこそその人だったりする。表現とは思えない生だし映像ということになる。

その生々しさが面白いのだが。

現代美術の作家が写真を取り扱うようになってコンセプチャルな視点が入ってきた。ここで過剰性を利用するという方向になった。わかりやすいところでは瀬戸正人の「部屋」だろうか。都築響一もこの系譜に入るが、過剰性が重要になる。

というのはどのようにしても訴えることが伝わらなくなったから。現在のフォトジャーナリズムも根本はこの過剰性をありのままに提示する方向にある。考える材料としての提示であり、むやみに感情に訴えたりしない方向性にある。これは現代美術の手法でもあるのだが、なかなかまだ成功していない。

 

 

アメリカの空母カール・ビンソンを北朝鮮に派遣しているはずだった。だがそれがまだインド洋をウロウロしているのがわかった。戦略的にも急ぐ必要がないので、動きが遅いのは正しいと言われていたのだが、まさか南下していたとは。「艦隊を送り込んでいる。とても強力だ」というトランプさんの発言はなんだったのだろうか。

大統領と軍の関係が疑われるので、対外的になんらかの影響があると思われる。

中国が援護射撃してくれているので、対面は保っている。

 

 

まあその前に写真で表現できることは、かなり減った。世界は見えないところに引っ込んでしまったからなのだ。

残念ながら、写真は不安を煽ることはできるが、不安そのものは表現できない。過剰である限り常にポジティブであり、ネガティブな存在だ。


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