盛岡市の中を走る国道4号線盛岡バイパス。バイパスが出来る前はどうだったんでしょうか。実はこれに関して確たる情報がありません。しかも昭和20年の国道4号線なんか一部憶測です。
大体言われている道をいってみましょう。オドロキが詰まっています。
上堂のバイパス分岐点です。左に向かう方が旧国道4号線。北から盛岡に来る時、市内に入るレーンに入るのはとても難しい、厄介な分岐です。これでもさんざん改良してきたのですが、決定打にはなっていません。
ちょっとアップめで。正面の道はみたけ・運動公園に向かう道です。BMWのウラのウラは小さなリンゴ畑。隣の駐車場はなにかの寮だったのが火事で焼けてしまったもの。ちょっときれいな庭があったのに残念。
道路拡張計画が四苦八苦している様子が分かります。広くなったり細くなったり。
また狭くなります。今度は二車線です。
道路脇には中世の城郭趾があります。地名は安倍館で、前九年の役で滅亡した安倍貞任の廚川の柵と間違われていた時の名残。でもこの城は栗谷川古城と呼ばれていたので、間違う訳だ。
国道46号線とぶつかりますが、左中央に青山町に向かう道があります。5叉路です。既に怪しい空気です。
北上川沿いに向かいます。山田線の鉄橋の近くです。車によってはこの下をくぐれないかも。
今年はアメリカシロヒトリが大量発生して木がボロボロです。どこいってもそうです。
夕顔瀬橋が見えてきました。
旭橋近辺です。駅裏開発でフツーの道の真ん中が陸橋になってたりします。ちなみにここに地下道がありますが自転車用に出来ていない所があって使いにくいです。
さて今まで来た道を振り返ります。十字路です。どう進みましょうか。
まっすぐ行くと駅裏から、雫石川を渡って本宮地区、西南開発区に向かいます。
右折すると盛岡駅です。
つまり左折して開運橋を渡るのが正解。しかし橋を渡るとまた5叉路が待ち構えています。
橋を渡って道なりに行きますと、正面に大通り商店街が見えます。この通りが旧国道4号線だったという話しもあります。昭和20年の話しでしょうか。この門を左折。
で、今度は中央通りを右折します。中央通は紹介済みなので一気に。
県庁を通り過ぎて、市役所前のT字路で右折。
ちょっとゆくとお城にぶつかって左折。
中の橋を渡ります。
中の橋を渡りきって、右折するという話しもあります。
すぐそばの肴町商店街。
そこを通り過ぎてすぐ、右折します。右側の建物は仙台資本のデパート・エンドーの名残。エンドー倒産後、パチンコ屋になったり服屋になったりいろいろありましたが、現在使われている気配はありません。
道なりに行きます。お寺があったりこのあたりは町歩きに最適です。
そのまま明治橋を渡ります。向こう側は仙北町。江戸時代に肴町とともに最も栄えた地域。都南・矢巾地域のコメの集積地でした。今でも農機具・肥料・種苗店が目立ちます。
それこそ道路拡張に苦しんでいます。広くなったり狭くなったりです。なお歩道なしの二車線が昔の姿です。
一番広い所。西南開発地区の道路と交わる交差点。なお自転車で地下道を使っている人をほとんど見かけません。
ここの地下道の場合、自転車のって走しれるように出来ているのに、走行禁止。歩道は車両通行禁止。一体何がしたいんでしょうか。
燃料屋さんです。薪も炭も扱っている今時珍しい。
道幅が安定してきました。右に多分北東北最大の中古業者・再販が。看板のバッタは、それこそバッタ屋だからという凄まじい理念が示されています。
南側のバイパス分岐点から。左が旧国道4号、右がバイパスです。
南に向かう国道4号線です。ちょっと狭いです。今でも国道4号線盛岡地区は走らないので有名です。しかしバイパスが出来る前ってどうだったんだろうと思えば、ゾッとします。一体何回左折右折を繰り返したんだか。
次に、昭和20年代の旧国道らしき所を通ります。
大体言われている道をいってみましょう。オドロキが詰まっています。
上堂のバイパス分岐点です。左に向かう方が旧国道4号線。北から盛岡に来る時、市内に入るレーンに入るのはとても難しい、厄介な分岐です。これでもさんざん改良してきたのですが、決定打にはなっていません。
ちょっとアップめで。正面の道はみたけ・運動公園に向かう道です。BMWのウラのウラは小さなリンゴ畑。隣の駐車場はなにかの寮だったのが火事で焼けてしまったもの。ちょっときれいな庭があったのに残念。
道路拡張計画が四苦八苦している様子が分かります。広くなったり細くなったり。
また狭くなります。今度は二車線です。
道路脇には中世の城郭趾があります。地名は安倍館で、前九年の役で滅亡した安倍貞任の廚川の柵と間違われていた時の名残。でもこの城は栗谷川古城と呼ばれていたので、間違う訳だ。
国道46号線とぶつかりますが、左中央に青山町に向かう道があります。5叉路です。既に怪しい空気です。
北上川沿いに向かいます。山田線の鉄橋の近くです。車によってはこの下をくぐれないかも。
今年はアメリカシロヒトリが大量発生して木がボロボロです。どこいってもそうです。
夕顔瀬橋が見えてきました。
旭橋近辺です。駅裏開発でフツーの道の真ん中が陸橋になってたりします。ちなみにここに地下道がありますが自転車用に出来ていない所があって使いにくいです。
さて今まで来た道を振り返ります。十字路です。どう進みましょうか。
まっすぐ行くと駅裏から、雫石川を渡って本宮地区、西南開発区に向かいます。
右折すると盛岡駅です。
つまり左折して開運橋を渡るのが正解。しかし橋を渡るとまた5叉路が待ち構えています。
橋を渡って道なりに行きますと、正面に大通り商店街が見えます。この通りが旧国道4号線だったという話しもあります。昭和20年の話しでしょうか。この門を左折。
で、今度は中央通りを右折します。中央通は紹介済みなので一気に。
県庁を通り過ぎて、市役所前のT字路で右折。
ちょっとゆくとお城にぶつかって左折。
中の橋を渡ります。
中の橋を渡りきって、右折するという話しもあります。
すぐそばの肴町商店街。
そこを通り過ぎてすぐ、右折します。右側の建物は仙台資本のデパート・エンドーの名残。エンドー倒産後、パチンコ屋になったり服屋になったりいろいろありましたが、現在使われている気配はありません。
道なりに行きます。お寺があったりこのあたりは町歩きに最適です。
そのまま明治橋を渡ります。向こう側は仙北町。江戸時代に肴町とともに最も栄えた地域。都南・矢巾地域のコメの集積地でした。今でも農機具・肥料・種苗店が目立ちます。
それこそ道路拡張に苦しんでいます。広くなったり狭くなったりです。なお歩道なしの二車線が昔の姿です。
一番広い所。西南開発地区の道路と交わる交差点。なお自転車で地下道を使っている人をほとんど見かけません。
ここの地下道の場合、自転車のって走しれるように出来ているのに、走行禁止。歩道は車両通行禁止。一体何がしたいんでしょうか。
燃料屋さんです。薪も炭も扱っている今時珍しい。
道幅が安定してきました。右に多分北東北最大の中古業者・再販が。看板のバッタは、それこそバッタ屋だからという凄まじい理念が示されています。
南側のバイパス分岐点から。左が旧国道4号、右がバイパスです。
南に向かう国道4号線です。ちょっと狭いです。今でも国道4号線盛岡地区は走らないので有名です。しかしバイパスが出来る前ってどうだったんだろうと思えば、ゾッとします。一体何回左折右折を繰り返したんだか。
次に、昭和20年代の旧国道らしき所を通ります。
バイパスそのものは、1980年代の発想であって拡張すら難しい状況です。そしてなのですが、分かれの迂回路が認識されない、ナビの問題もあるかもしれません。
河の多い街というのは橋をどこに作るのかという問題がありまして、盛岡は特に厳しかったと思います。その上で西南開発で橋をいっぱい作ったというのは画期的なんですが、まだわかりやすい道路ができていないというのは本当に残念です。
そう、わかりやすくなるためにはあと20年はかかるでしょう。その頃にはみたけ開拓団の話が消え失せる頃にね。
便利になる盛岡の前に、不便な歴史は語ったほうがいいと思う。その香ばしさが盛岡である。
(店に入るため、住宅街に入るための右折で車線がふさがれていることもよくあります。)
東北道沿いに側道を作ればバイパスの役割を果たせそうですが、非現実的でしょうか。
バイパスですが、ぶっちゃけ太田は盛岡市内ではないと言う昔の人の考えが、いまのバイパスを作ったと思います。その意味では旧4号は、盛岡市内名所めぐりの感はあります。
すいません、まだ古地図を調べていません。ただ、迂回路の紹介もありましたが、謎が多すぎます。
バイパスですが、ぶっちゃけ太田は盛岡市内ではないと言う昔の人の考えが、いまのバイパスを作ったと思います。その意味では旧4号は、盛岡市内名所めぐりの感はあります。
すいません、まだ古地図を調べていません。ただ、迂回路の紹介もありましたが、謎が多すぎます。
中の橋以降、おでってを右折→県道120号線沿いに明治橋→川久保といったルートです。
南を迂回するルートに関しては私も同じことを考えていました。
橋3つ+新庄・北山の切通+山田線の跨線橋と、用地の問題を含めても雫石川を1回渡るルートの方が随分とコストはかからなさそうです。
それでも現ルートになった理由としては、市街地のすぐ外側を通すことによって、市内の通行量をバイパスに逃がすためだと思われます。
南回りでは盛岡をスルーする場合は大いに効果的なのですが、市街地の交通が滞ってしまうことは避けられなかったでしょう。
またこれは邪推なのですが、都南の辺りから雫石川へ向かうと必ず東北本線を越えなければならないため高架化は必須ですが、ちょうど東北新幹線が在来線に沿って建設される計画が既にあったはずなので、その時期に線路を跨ぐ道路工事はできなかった、という理由ももしかするとあるのかもしれません。
8年前の記事なので、ずいぶん風景が変わっていますね。仙北町の道路拡張もほぼ完成ですし建物もずいぶんなくなってしまいました。
さてこの記事を書いたときに、古地図とか詳細を調べていませんでした。なので伝聞だけで書いたところがあって、例えば現在のおでってプラザとみずほ銀行の間の通りが国道だったとか、ちょっと謎なことも書いています。大正期には県庁前は現在の中央通りに近い幅があったはずなのに、なぜ大通り商店街の通りが国道だったのかも調べていないので、どの年代なのかわかっていないところおがあります。申し訳ありません。ただご指摘の材木町を通る流れは、ものすごく古いように感じます。多分この記事に書いた流れが、バイパス直前の流れなのだと思われます。
さて近年盛岡市も道路拡張計画がなんとか進むようになってきていますけど、かつてはなぜかほぼ不可能だったようで、どうも交通量が増えて問題になるたびにだましだまし拡張してゆき、こりゃ無理だとなった時が岩手国体のあたりなのかと思われます。
道路計画って10年以上かかるものなので、えい!と頑張ってできるものではないです。このころ四十四ダムの建設やらいっぱいあって、現在の国土交通省が思いっきりバックアップしたから、このバイパスができたんじゃないのかと勘ぐっています。
1960年のあたりで現在のバイパスがある地域は住宅地が多かったんです。それを最小限にするために、切り通しを作っています。今あるバイパス上の陸橋は住宅地にきり通しを作った名残でしょう。街の真ん中を打ち抜くことよりはお金はかかんなかったんですが、大変だったのは間違いがありません。
ただなんでバイパスをみたけの一番北から青山を迂回して雫石川を渡って仙北町を迂回して盛岡の南はじで国道と結ばなかったのかは謎です。実はこちらの方が橋の数が少なくなるはずなのですが。
地図などを参照していない憶測だけで書いていますが、国土地理院の航空写真閲覧サービスで確認して見ました。
この街にはいろいろあるようです。
ただ今となってはバイパスがない姿は想像できませんね。
早い段階で整備できたのは良かったですね(国体に間に合わせたのでしょうか?)。
とりわけ平地である上田から上堂までが市街地化してからでは大幅に整備が遅れたのではないでしょうか。
いずれバイパスを作っていなければどうなっていたんでしょうね。
かと思われます。