私には、音楽歴という程のものは、何もありません。そこで、今も心に残る音楽に係るエピソードをご披露して、それに変えたいと思います。
神 代 先 生 (くましろせんせい)
先生は、中学校(旧制)には珍しい音楽の担任でした。
終戦も真近か。口には出さないものの、日本の敗けを、絶望的な気持で予感していたのが、大方の心境だった当時、学校とて例外ではなく、その機能さえ果たさない荒廃した環境下で、不思議に音楽だけが元気よかったのです。時間割通りに、一切の手抜きもなく。早速、口さがのない悪童連中が”先生のあまりにも恐れ多い「名字」故に、罰当たりを嫌って誰も手をつけんとやろう”と言っていましたが、”それは、音楽が、戦争から最も遠いところにあるからさ。”と、先生は笑っておられました。なるほど。
名字もさることながら、先生には神秘的とも言える一種の雰囲気がありました。例えば、日常の会話は、ひどい嗄れ声で(音楽の教師でありながら)内容もよくわからないのに、一度、歌を始めると信じられない素敵なバリトンになるのです。最初の授業の時”なんじゃこれは!”と叫んだのがいましたが、まったくその通りで、声があまり出なくて、なんとなく音楽を苦手としていた私もすっかり魅了され、没入してしまうのに、そう時間はかかりませんでした。
そんな反応を見て、世界の名曲をトークを交えながら、先生は、次々と歌って、どこにもいい歌はあるものだよと訴えたかったのでしょう。それは、“敵性国の歌を歌ってはならないと敵性国の歌が解らない人が言っている”とか、”和声を急にやれと言う理由を聞くと、敵の飛行機の機種を聞きとるためだという。出来っこないのに、馬鹿馬鹿しいという呟きを聞いて、よくわかりました。
唯ただ、楽しく、明るく喜びに満ちた授業は、みんな待ち遠しいくらいで、元気が出ました。その後の長い時間を音楽と共に過ごしましたが、こんなすばらしい経験をしたことを、私は忘れません。
そんな或る日、お休み時間に急に姿を見せた先生が”見んな聞いてくれ!今日俺にも赤紙(召集令状)が来た。俺のような年寄りを戦争に狩り出す位だったら、もう日本も長くないだろう。みんな死ぬなよと言い残しそそくさと帰られました。直ぐに教室は元の喧噪に戻りましたが。
それからひと月足らず、先生がニューギニア方面で戦死の公報が入ったと連絡があったという校長先生の話を聞きました。私は、胸の中で”なぜ、なぜ、なぜ・・・”と何回も叫び続けたのを覚えています。
それから65年経ちました。夏になると、黒ぶちの丸い眼鏡に濃いひげを剃ったあとの青白い頬を膨らまし素敵なバリトンで世界の名曲を歌う、先生の嬉しそうな面影を想い出すのです。
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大隈さん、素敵なお話しをありがとうございました。方言もまじりリアルな会話、情景が浮かぶようです。
団員の声、次々お待ちしています。 (Tetsuko)
神 代 先 生 (くましろせんせい)
先生は、中学校(旧制)には珍しい音楽の担任でした。
終戦も真近か。口には出さないものの、日本の敗けを、絶望的な気持で予感していたのが、大方の心境だった当時、学校とて例外ではなく、その機能さえ果たさない荒廃した環境下で、不思議に音楽だけが元気よかったのです。時間割通りに、一切の手抜きもなく。早速、口さがのない悪童連中が”先生のあまりにも恐れ多い「名字」故に、罰当たりを嫌って誰も手をつけんとやろう”と言っていましたが、”それは、音楽が、戦争から最も遠いところにあるからさ。”と、先生は笑っておられました。なるほど。
名字もさることながら、先生には神秘的とも言える一種の雰囲気がありました。例えば、日常の会話は、ひどい嗄れ声で(音楽の教師でありながら)内容もよくわからないのに、一度、歌を始めると信じられない素敵なバリトンになるのです。最初の授業の時”なんじゃこれは!”と叫んだのがいましたが、まったくその通りで、声があまり出なくて、なんとなく音楽を苦手としていた私もすっかり魅了され、没入してしまうのに、そう時間はかかりませんでした。
そんな反応を見て、世界の名曲をトークを交えながら、先生は、次々と歌って、どこにもいい歌はあるものだよと訴えたかったのでしょう。それは、“敵性国の歌を歌ってはならないと敵性国の歌が解らない人が言っている”とか、”和声を急にやれと言う理由を聞くと、敵の飛行機の機種を聞きとるためだという。出来っこないのに、馬鹿馬鹿しいという呟きを聞いて、よくわかりました。
唯ただ、楽しく、明るく喜びに満ちた授業は、みんな待ち遠しいくらいで、元気が出ました。その後の長い時間を音楽と共に過ごしましたが、こんなすばらしい経験をしたことを、私は忘れません。
そんな或る日、お休み時間に急に姿を見せた先生が”見んな聞いてくれ!今日俺にも赤紙(召集令状)が来た。俺のような年寄りを戦争に狩り出す位だったら、もう日本も長くないだろう。みんな死ぬなよと言い残しそそくさと帰られました。直ぐに教室は元の喧噪に戻りましたが。
それからひと月足らず、先生がニューギニア方面で戦死の公報が入ったと連絡があったという校長先生の話を聞きました。私は、胸の中で”なぜ、なぜ、なぜ・・・”と何回も叫び続けたのを覚えています。
それから65年経ちました。夏になると、黒ぶちの丸い眼鏡に濃いひげを剃ったあとの青白い頬を膨らまし素敵なバリトンで世界の名曲を歌う、先生の嬉しそうな面影を想い出すのです。
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大隈さん、素敵なお話しをありがとうございました。方言もまじりリアルな会話、情景が浮かぶようです。
団員の声、次々お待ちしています。 (Tetsuko)