今日は、私があまり話さないTetsukoの一面を書いてみたい。
30歳を迎えようとする頃が、私の人生の出発点であるかのようです。子供への手が離れた途端、潜んでいた情熱がめらめらと頭角を現し、押さえがきかない状態でした。テニス、歌、ピアノ、この三点セットが、私の趣味としてそれからの人生の基盤となりました。
でも、今回は、Tetsukoと英語というお話しにふれますね。
仕事もしたいという気持ちも強く、新聞の募集記事は丹念に見ていました。小学館のホームイングリッシュという所で、子供相手の英語講師を募集していました。今のECCジュニアみたいなものです。資格が、英検2級程度とありました。私はさっそく受験し、資格を得ました。しかし、この時の試験が、なぜ、受かったのか疑問なほど、すべてカンでした。のちのち準一級も取得しますが、この時の試験は、自分で、点数が計算できるほどの実力をつけていました。そして、小学館の試験に臨みましたが、カンだけで資格を得ていますから、試験の結果は悪かっただろうと想像します。しかし、2次試験は、教室にあるものを使って、即興で授業をしてくださいと言うものでした。私は、ギターを手にして、ごく簡単な英語の歌を歌いました。たぶん、これはうけたと思います。無事、合格し、Tutorとしての日々が始まりました。英語を教えると言う事は、子供だからと言って、いや、子供だからこそ、甘くなく、日々戦いのようでした。一時は、100人近い生徒を持っていました。それでも、一クラス12名、一日3クラスもてば、週3日で、100人になります。
仕事が始まっても、3点セットは、続いていたので、毎日とても忙しく、のちのち、娘から、母親らしい事をしてもらった覚えがないなどと、恐ろしい言葉をうけるはめになり、とても後悔しました。
私の授業の特徴の一つに、月いち、英語の歌を教えると言うものでした。これは、会社側もとても喜んで、いろんな資料も集めてくれて協力を得ることができました。子供たちにとっても財産になっただろうと自負しています。
小学館での仕事を足がかりに、受験塾からの誘いを受け、転職。こちらは、猛烈な塾で、女性専任講師は、私ひとり、かなりしぼられ実力もつけました。こんな講師生活を頑張って30年ほど続け、東京、四国と住みついて、流れ流れて6年前に、市原へ。
国際交流センターで、TOEIC講座なるものを見つけ、参加し、今度はこの受験に情熱を燃やしてみました。お風呂に入っても、来週発表する英文を2分で、間違いなく丸暗記とかして、すごく楽しかった。この講座は、500点を取ることを目標とするというものでしたが、仲間のレベルは高かった。私は、700点取れる事を目標とし、680点を最後にやめました。この試験は、拘束時間が長く、問題量も半端でなく、後半になると目がかすみ読めなくなる。(言い訳ぽくて、いやですが)でも、結構満足して終了しました。
こんなに英語づけだったのに、映画を見ても、10分の一くらいしか理解できず、日本の英語教育は、どうなってんの?って、私が言うなってか?
海外短期留学もさせてもらい、家族の協力もあったなと、すこし思います。あれっ!困ったな!!英語の話しで、紙数が就きました。
バイオリンの話し、歌手生活の話しのないまま終わりますが、これは、また、長いお話しなので、次回に!
最後まで、読んで下さった方ありがとさん。 (Tetsuko)
30歳を迎えようとする頃が、私の人生の出発点であるかのようです。子供への手が離れた途端、潜んでいた情熱がめらめらと頭角を現し、押さえがきかない状態でした。テニス、歌、ピアノ、この三点セットが、私の趣味としてそれからの人生の基盤となりました。
でも、今回は、Tetsukoと英語というお話しにふれますね。
仕事もしたいという気持ちも強く、新聞の募集記事は丹念に見ていました。小学館のホームイングリッシュという所で、子供相手の英語講師を募集していました。今のECCジュニアみたいなものです。資格が、英検2級程度とありました。私はさっそく受験し、資格を得ました。しかし、この時の試験が、なぜ、受かったのか疑問なほど、すべてカンでした。のちのち準一級も取得しますが、この時の試験は、自分で、点数が計算できるほどの実力をつけていました。そして、小学館の試験に臨みましたが、カンだけで資格を得ていますから、試験の結果は悪かっただろうと想像します。しかし、2次試験は、教室にあるものを使って、即興で授業をしてくださいと言うものでした。私は、ギターを手にして、ごく簡単な英語の歌を歌いました。たぶん、これはうけたと思います。無事、合格し、Tutorとしての日々が始まりました。英語を教えると言う事は、子供だからと言って、いや、子供だからこそ、甘くなく、日々戦いのようでした。一時は、100人近い生徒を持っていました。それでも、一クラス12名、一日3クラスもてば、週3日で、100人になります。
仕事が始まっても、3点セットは、続いていたので、毎日とても忙しく、のちのち、娘から、母親らしい事をしてもらった覚えがないなどと、恐ろしい言葉をうけるはめになり、とても後悔しました。
私の授業の特徴の一つに、月いち、英語の歌を教えると言うものでした。これは、会社側もとても喜んで、いろんな資料も集めてくれて協力を得ることができました。子供たちにとっても財産になっただろうと自負しています。
小学館での仕事を足がかりに、受験塾からの誘いを受け、転職。こちらは、猛烈な塾で、女性専任講師は、私ひとり、かなりしぼられ実力もつけました。こんな講師生活を頑張って30年ほど続け、東京、四国と住みついて、流れ流れて6年前に、市原へ。
国際交流センターで、TOEIC講座なるものを見つけ、参加し、今度はこの受験に情熱を燃やしてみました。お風呂に入っても、来週発表する英文を2分で、間違いなく丸暗記とかして、すごく楽しかった。この講座は、500点を取ることを目標とするというものでしたが、仲間のレベルは高かった。私は、700点取れる事を目標とし、680点を最後にやめました。この試験は、拘束時間が長く、問題量も半端でなく、後半になると目がかすみ読めなくなる。(言い訳ぽくて、いやですが)でも、結構満足して終了しました。
こんなに英語づけだったのに、映画を見ても、10分の一くらいしか理解できず、日本の英語教育は、どうなってんの?って、私が言うなってか?
海外短期留学もさせてもらい、家族の協力もあったなと、すこし思います。あれっ!困ったな!!英語の話しで、紙数が就きました。
バイオリンの話し、歌手生活の話しのないまま終わりますが、これは、また、長いお話しなので、次回に!
最後まで、読んで下さった方ありがとさん。 (Tetsuko)