普通に隣の家の角を曲がったら・・!!
4月5日から8日まで仙台さらに石巻まで足をのばしてボランティアに行ってきました。Tetsukoさんから書くようにと言われたので、上手く文章を綴れませんが簡単に報告します。今回の東北地方の被災状況を見れば、誰しも何か出来ることをしたいとの思いに駆られると思います。私の場合、たまたま行き帰りとも車に乗せて頂ける便があったので参加しました。
テレビなどの報道で見た状況がそのまま現実であることに言葉を失います。
見渡す限りの瓦礫。たまに家の形らしい物があるかと思えば屋根だけが直接地面の上にあったり。自衛隊などが入り道が通れるようになっている地域では道の両側にうず高い瓦礫の山。家が流されずに残った地域では、道の両側に土嚢袋やゴミ袋、使えなくなったあらゆる家財道具の山。ボランティアの手が入るのはこの被災程度の所です。何とかこの家に又住みたい、でも家族だけではどうしようもない。そこにボランティアが入ってお手伝いするのですが、それは人海戦術をもってしてもかなりの時間がかかる作業です。
私が行った家はワカメを製品にして売る会社で、冷蔵庫の建屋が出荷を目前にしてた大量のワカメごと津波にやられてしまいました。ご主人は「ここを片付け、泥をかぶったワカメは捨て、少しでも生きている(売り物になる)ワカメがあれば何とかそれを売って再起の資金にしたい。いつまでも悲嘆にくれていてもしょうがない。一歩を歩み出すことからしか希望は見出せない」とおっしゃっていました。ボランティアの若者7人(モチロン私も含む)とご家族6人で泥とワカメ、ガレキのグチャグチャと格闘。当然長靴に上下防水着の装備でスコップ、一輪車の作業。泥の重さ、ワカメの重さを思い知りました。一日かけて何とか正面入り口辺りを片付けました。なにかチョッピリ希望が見えたような・・。
休憩時間にいろいろな話をしてくださいました。奥さんはおじいちゃん、おばあちゃんをまず避難させ、家に戻り自分も避難しようとしたら既に道が込み始め車ごと流されてしまった。胸あたりまで水に浸かったところで窓から外に出て、電柱に泳ぎ着き、暗くなるまでその電柱にしがみついていた。近くの家の二階から女の人が声を掛けてくれて、その日はそこに泊めてもらった。ご主人は事務所の二階に逃げたが床板が持ち上がってきたので、屋根伝いに隣家へ逃げた。甥御さんは後ろから津波が迫るのを見ながら車で逃げた。ある家のおばあさんは炬燵の台の上に乗り、炬燵ごとまる一日浮いていた。たまたまその上にあったお茶菓子を食べて空腹をしのいた。・・裏の奥さんはダメだった。・・どこそこの誰々は・・等々一つ一つものすごい事柄を淡々と話される。津波の出来事が夢のような気がするともおっしゃっていましたが、家を流され、家族を亡くされた人々の現実は厳然としてそこにあり、そのことに圧倒されます。
蛇足ですが、7日の夜11時半ごろ強い地震がありました。宮城県に津波警報が出て外のスピーカーから避難命令が出たので、石巻の宿泊所で眠りについていた私達は毛布や寝袋を抱えて近くの高校の体育館に避難しました。その前から避難されている方々といっしょに一晩避難生活を体験してきました。また、自衛隊によるテントのお風呂サービスも経験してきましたよ。番号札を渡され、暗いテント内のベンチで順番を待つ雰囲気は一種独特のものでしたが、人々に暗さはありませんでした。
簡単にのつもりが長くなってしまい、ごめんなさい。 松永幸枝