”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話

2009年06月25日 20時57分12秒 | Weblog

6月25日(木)晴

6月も下旬になりましたがちっとも梅雨らしくありません。天気図を見ると梅雨前線は南海上に停滞したままです。このままだと日本列島で停滞することなく急に太平洋高気圧が張り出して夏になってしまうことも考えられます。もっとも来週あたりはどうも梅雨前線が日本列島にあがってくるようです。

ところで最近僕は日本人はどこから来たのだろうかといろいろな本を読み漁っています。去年の秋ぐらいには日本ができた頃のことを小説風に書いてみようと試みましたが結局挫折してしまいました。それから柳田国男氏の「海上の道」とか野地恒有氏の「漁民の世界」や池橋宏氏の「稲作渡来民」などを読みました。これらの本から自分なりにどのようにして日本と言う国ができあがったか想像しています。僕は学者ではないので何一つ証明することはできないけど学者先生方の説の良いとこ取りをして何か少しわかってきたような気がします。

日本の一番古い時代は縄文時代でした。それから弥生時代になると稲作による定住民族となり、邪馬台国が登場するわけです。では縄文人はどこから来たのでしょうか?多分台湾、南西諸島、沖縄諸島、奄美諸島、日本列島と流れてきたのが縄文人の始まりだったように思います。そのころ日本列島にも氷河期の終わりに大陸から分離した激変の時代に生き残った人類もいたかもしれませんが多分緑が復活する前に絶滅したと思っています。それから何千年も経って火山活動も小康状態になり緑豊かな無人列島が存在していたように思います。
その後南西諸島から渡来してきたのが縄文人です。彼らは狩猟民族ですから魚貝類や植物の実を採取しながら移動して日本列島に住むようになっていたようです。

その後、稲作の技術を持った弥生人が山東半島から朝鮮経由で渡来してくるようになりました。多分中国の揚子江流域の呉とか越の国の人達だと思われます。中国の南の方は紀元前500年ぐらいから急速に栄えていきます。稲作の技術と船の技術ができあがったからだと思います。
そして船で山東半島に北上しながら朝鮮半島の南岸や対馬経由で北九州や出雲あたりに稲作の文化を持って定住しながら、外敵からの侵略もない安全な国で爆発的に人口が増えて日本全土に拡大していったのが弥生人です。これにより原住民であった縄文人は稲作に向かない沖縄や奄美の南と北の北海道のアイヌとなっていくか、弥生人と同化、淘汰していくしかなかったようです。

ですから今の日本人の祖先は弥生人と見るのが一般的ですが言語や風習から見ていくとさらに複雑な要素がありそうです。僕達日本人の言語にはフィリピンやマレーシアに近い発音とモンゴルや北アジアの文法が混ざり合った言語のようですし、稲作の技術は揚子江流域から伝わっていながら人類学的にはモンゴルの遊牧民的特長も持っているようです。
そう言う意味では東南アジアやポリネシア系の特徴と揚子江流域の稲作農耕民族の両方を兼ね備えた独特の民族として発展していったのが日本人ではないかと勝手に考えています。

こんなことをたまに考えていると魚が好きでお米が好きな日本人って結構贅沢な民族だったかもしれませんよね。少なくとも大陸のように外から侵略されることはまったくなかったから、太陽や自然を崇拝した宗教ができあがったのも自然な話です。その自然の脅威をある程度科学技術で防御できるようになったのだから無宗教の人達が多いのもうなずける話です。

またバカな妄想を書いています。でも我々の起源をもっと探究してもおもしろいと思います。これから遺伝子工学の世界から人類の起源を追っていくようになったらもっと正確な由来がわかるような気がします。もっともそれを知ってどうなるわけでもありませんが自分達の起源を明確に認識した上で自信と誇りを持ってこの国の伝統を守ってほしいものです。

いつも趣味や遊びの話しばかりですがたまには学術的な話もありますよ。もっともいろいろな人の受売り的要素ばかりですが。
それではまた。

コメント
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