”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話

2009年07月28日 20時21分02秒 | Weblog
7月28日(火)曇時々雨

今週はどうも雨ばかりになりそうです。普通7月下旬と言えば夏空が広がる一番良い時期ですが、今年はまだ梅雨が明けていません。もうすぐ立秋になるのでひょっとすると梅雨明けはないかもしれませんね。夏にならないうちに秋になってしまいそうです。そう言えば台風もまだ来ていないのでほんとうに季節が狂い始めたかもしれません。

もっとも今週末も来週末もヨットやゴルフの予定もなくどうしたものかと考えています。ヨットは先週の土曜日の強風の中でのクルージングで船内のキャビンのテーブルが又もや壊れてしまいました。6月初めに自分で修理したのですが土台の木が腐っているので十分な強度が保てません。思い切ってマリーナに頼んでしっかり直してもらうことにしました。ですから土曜ぐらいに様子を見に行って来ようかと思います。

ところで最近「帰化人」と言う本を読んでいます。以前から「日本人のルーツ」に関する本をいろいろ読んでいるのですが、今迄読んだ本から類推して僕は次のように考えています。
まず、我々日本人の最初は南西諸島方面から漂着した縄文人であった。その後揚子江流域から山東半島、朝鮮半島経由で渡ってきた稲作民族の弥生人が北九州あたりに上陸し、稲作集落を形成し、徐々にその居住域を広げて行き古代日本の骨格ができたと思っているわけですが、この国の面白い所は先住民と渡来民の融合が起こり、どちらがどちらかを排除することがなかったことです。ここに漁業を中心とする狩猟民族の縄文人と稲作を中心とする弥生人の同化が起こったんだと思っています。もっとも融合できなかった縄文人は日本列島の辺境の地に移動した者もいたはずですが、それらの人達は奄美諸島等に残った海人や東北山間部に移動してまたぎのような山人になったような気がします。これが第1回目の民族の融和。
それから何百年かたって聖徳太子や中大兄皇子の時代に第二回目の融和が始まります。このときは朝鮮半島から特に百済人の帰化によって仏教文化とともに工業技術の恩恵を受けることになります。特に中国の唐が百済を滅ぼした時に大量の百済人が大和朝廷に帰化したようです。この時代の帰化人によって文字が導入され以後の歴史が記述されるようになった訳です。

そう言う意味でこの国では容易に外国の文化を自分達の文化の中に取り入れる伝統ができあがったような気がします。だから明治になり、欧米諸国の文化や技術も容易に取り入れることができたのではないかと僕は思っています。これが三回目の融和になります。

日本人が幸福なことは渡来民に侵略者がいなかったことで比較的スムーズな融和ができたことだと思います。中南米は不幸にもピサロやコルテスのような残虐な侵略者と融和しようとしたことかもしれません。インカの人達もきわめて善良で平和的民族だったけど相手が悪すぎました。

まったく文献のない時代の話ですから、何も根拠がないので読み流してください。まぁ想像することがいっぱいできるところが古代のおもしろい所かもしれません。技術者的左脳人間にはつまらない話でした。
今日はこれまでです。それではまた。
コメント
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