チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「ユーコン漂流」

2014-05-15 14:08:23 | 独学

 55. ユーコン漂流 (野田知佑著 1998年4月)

 ユーコン川は、上流部1700kmがカナダ領で、下流部2000kmはアラスカ領で、源流部から150kmの地点のホワイトホースから、河口までの、カヌーでの旅のエッセイであるが、植村直巳のような冒険の旅ではなく、かといって学術調査的意味合いもない。

 この旅は、一気に下ったわけではなく、夏の間(30日から50日)カヌーで下り、東京に戻ってと3年に渡ってのエッセイである。ユーコン川を通しての現地の人々や川下りを楽しむ人々、ユーコン川の自然とのふれあいをある意味贅沢に楽しんだエッセイである。

 ただ、カヌーの波による浸水、大量の蚊の襲来、グリズリー危険以外は、多くの旅行者が楽しんでいるとあります。そのために、テントでの読書のための本、歌うためのギター、釣りのための竿、飲むためのブランデーやウイスキー、護身用を兼ねた銃、愛犬ガク、携帯用の机、椅子と楽しむために照準を合わせています。

 では、都会も楽しみたいし、大自然の素晴らしい季節だけ、大自然にふれたい我々も、野田知佑といっしょに、ユーコン川を楽しみましょう。


 『 カナダでは奥地の川を下る時に警察に届けを出すシステムがある。目的地に着いたらそれを報告する。予定の人間が大幅に遅れたら捜索してくれる。騎馬警察と呼ばれている事務所に「無事到着」報告に行ったら、若い女のインィデアンの警官が出てきた。腰にはピストルをつけている。

 彼女は書類の束をめっくて、ぼくの名を書きこんだ用紙をとり出した。「この通知はアラスカに入ったらどうなるんだ? 向こうの警察でもこんなシステムがあるんだろうか?」「ノー。これはカナダだけのものね。アラスカに入ったら誰もあなたの心配はしない。あなたは自分だけでやっていかなきゃならない。 You have to be on your own. Good luck! 」

 「判った。ところで、君、とてもカッコいいね」「サンキュー。あなたもカッコいいわよ」旅行者のその土地の印象や感想なんて他愛ないものだ。たったこれだけのことで、ぼくのカーマックス(ここの町)及び、ユーコン川にたいする印象がぐっとよくなった。 』


 『 眠くなったので、川の真中の突き出た沈木にフネをつなぎフネの中で昼寝をした。水の上だと蚊が来ない。「ハロー」という声で目覚める。上流で会った二家族合同のパーティーである。一緒に下った。

 八年前に南アフリカからカナダに移住してきた商社員の一家と、ご主人がマニトバの大学で古典を教えている教授の一家だった。「こんな実用主義の国でラテン語やギリシャ語は馬鹿にされませんか? 学生たちの反応はどうです? 」

 「君は意外に思うだろうが、みんな熱心だよ。この国では実生活に役に立たない学問ほど尊敬されるんだ」「面白い。こんな野生の国で古代ギリシャ語でソクラテスを読んだりラテン語をやるというのは素敵だな。ロマンがある」

 彼は九月からケンブリッジ大学に交換教授として行くので、その前に自分の国をよく見ておきたいのだ、といった。その夜、キャンプの火の前で、商社員の夫人が立ち上がって詩を暗唱した。"Autumn is over Falling of the Leaves that love us." イエイツの "The Falling of the Leaves" である。――別れよう 情熱の季節にみすてられぬまに――

 教授夫人がロバート・サービスの詩集をとり出し、カナダ人なら誰もが知っている「 The Spell of the Yukon 」(ユーコンの呪縛)を美しい声で朗読した。

 I wanted the gold, and I sought it
I scrabbled and mucked like a slave.
 Was it famine or scurvy ---- I fought it;
I hurled my youth into a grave.

 I wanted the gold, and I got it----
Came out with a fortune last fall,----
 Yet somehow life's not what I thought it,
And somehow the gold isn't all.

( sought seek(探す)の過去、scrabbled 足掻く、mucked 泥まみれ、slave 奴隷
famine 飢え、scurvy 壊血病、fought fight(闘う)の過去
hurled 放り投げる、youth 青春、grave 墓

came out 出会う、fortune 幸運、last fall 去年の秋
Yet まだ(…ない)、somehow どういうわけか、life's not what I thought it 人生は考えていたものと違っていた
 the gold isn't all 黄金はつまらないものだった )


 教授はあなたも何かやりなさい、といわれて、歌も歌えず、詩も知らないので、いくつかのラテン語の名詞の格変化を詩の朗読風にやった。みんな腹を抱えて笑った。

 彼らは四ハイのカナディアンに二人ずつ乗って下っていた。大人がそれぞれのフネの後部を漕ぎ前に子供を乗せる、というスタイルをとっている。カヌー歴をきくと、夫人たちは二回目ということだった。そのくらいの初心者でもユーコン川は下ることができるのだ。

 夕方、七時だがまだ陽は頭上のある。男たちは水を汲み、流木を集めて火を起こし、主婦たちは食事の支度をした。子供たちはテントの横の草の上に座り、本を読んでいる。マンガや雑誌ではなく、ちゃんとしたハードカバーの児童向けの本だ。

 小学校三年のジョンの「シャーロック・ホームズの冒険」を手にとって、文中の単語をきいてみた。「dwindleてどういう意味だ」「次第小さくなっていくこと」「illterate?」「字が読めないことでしょう」

 語彙数五〇〇〇から七〇〇〇の単語である。日本では高校三年までに四〇〇〇の英単語を教える。ジョンはカナダでもかなり優秀なようだ。「本よく読むの?」「うん。両親の本棚のたくさんあるからいつも読んでいる」

 「アルファベットはどうして覚えたの?」「いつの間にか知ってたよ。学校に行った時はみんな知っていた」「学校の授業は退屈?」「そうでもないよ。友達もたくさんいるし、学校は面白い。でもぼくが知ってることを先生が喋っている時は他のことを考えている」

 「例えば何だ?」「家で飼っているウマのこと、リスのこととか、それから今度ユーコンツアーのこととかね。このユーコン川のことは随分前からお父さんたちと話し合っていたんだ。とても楽しみにしていた」

 「実際に来てみてどうだ?」「何もかもが違うのでびっくりした。まず、ユーコン川が早いので驚いた。ぼくは何もできなかったけど、母さんがちゃんと漕いでくれた。この川にあるのは、町にはないものばかりだ」

 「ぼくは先に行きます。ドーソンでまた会えるでしょう」「そうだな。われわれもあそこのキャンプ場に一週間滞在するつもりだから」単独行はこういう時に身が軽い。さっとテントをカヌーに積み込み、再び川の上だ。川の上にいると、何もしなくてもどんどん進むので生産的な気分になれるのがいい。 』


 『 ドーソンには一週間滞在した。キャンプ場の各サイトには頑丈な木で作ったテーブルとベンチ、水場、清潔なトイレ、グリルがあり、薪置場には短く切った大きな薪が山と積まれていた。テントサイトには一つ一つが充分な距離を置いて森の中に作られており、申し分なかった。

 少し離れたキャンプサイトでは、フォルクスワーゲンのバンの前で長髪をポニーテイルにした青年がチェロを抱えて、バッハを弾いており、気持ちのいい低い音が森の中に響いている。無料のフェリーに乗って川を渡り、町に出た。

 ドーソンは四十年前までユーコン準州の州都たった。ゴールドラッシュの頃は三万人の人口を抱え「北方のパリ」といわれて賑わったが、現在はさびれ、年間を通してずっと住んでいる人は二〇〇〇人前後である。

 ただ、夏の間は「ゴールドラッシュ」の町として観光客が押し寄せ、人口は数倍にふくれ上がり、ホテルは満員になる。ぼくが毎日通ったのは「ゴールデン・トゥース・ガーティーズ」という名のカジノだ。

 ルーレットをしながら酒を飲む。酒を持ってきたウエイトレスをどこかで見たような顔だと眺めていたら、彼女は馴れ馴れしく、「何だ、あんたなの」といった。彼女はキャンプ場のぼくの隣のサイトに寝起きしている娘なのだった。

 「何だ、君か。そんな色っぽい胸のあいたドレスなんかきているから判らなかったよ」 彼女はオタワの大学生で、夏休みにアルバイトでドーソンにきていたのだ。ホテルやアパートはとても高いのでテントで寝起きしていた。

 毎日、昼の一二時から朝の三時まで一日一五時間働き、食事つきで一〇〇ドル。その他に客からチップをもらうから、いい金になる。毎晩、チップだけで一五〇ドル以上もらう。彼女は世界一周するための金を貯めているのだった。

 彼女はそれから毎晩、ウイスキーが半分入ったボトルや残りもののサンドイッチをどっさりぼくに持ってきてくれた。ぼくは女に稼がせているヒモのような気持ちで、ドーソンの日々を過ごしたのである。ユーコン万歳! 』


 『 夕方、川の真中にある砂洲で三人の男女を見つけてフネを着ける。中年の男二人が網を広げ、破れを繕い、ロープをとり替えていた。こんにちは、と声をかけて、砂の上に座り込んだ。

 彼らはドーソンの住人で、夏の間はキングサーモンの漁をしてこの近くにある小屋で過ごしているのだ。一組の夫婦とその友人という組み合わせで、夫婦はひどい訛のある英語を喋った。チェコから亡命してきた人だった。

 男たちが働いている間、ぼくはイレナという名の奥さんと話をした。彼女は短いシャツに下着一枚という姿で日光浴を楽しみつつ、亡命した時の話をした。

 初めウィーンに行き、イギリス、アメリカのテキサス、カルフォルニアを経てドーソンに来た。一年かかったという。「チェコに較べたら、ここは何をやってもいいし、何を喋ってもいいし自由でいいわ」

 悩ましい恰好で寝そべっているイレナを見ると、自由って本当にいいな、と思った。彼女の夫のセバスチャンが、クマの肉があるから食べに来いよといった。

 仕事が一段落したあと、彼等の川船にぼくのカヌーを積みこみ、少し川を遡った岸に着けた。三人の小屋は川から50mほど入った森の中にあった。

 二つの丸太小屋の間に台所用小屋とも呼ぶべきものがあって、壊れた車から持ってきたシートが三つ置いてある。森の中だから蚊がひどい。蚊よけの薬をたっぷりと顔や手足に塗る。そばにクロクマの生皮が一つ干してあった。

 先週、食べ物の匂いにつれらてクマがやって来た。追っぱらったがどうしてもまた戻ってくるので、止むなく射殺した、という。「私たちが、ここへ来て、最初にやったのが、クマを殺すことだったの。おかげでセバスチャンは二、三日機嫌が悪かったわ」

 「あんな大きな美しい生き物が俺の目の前で息絶えるのだからね。悲しいもんだ。それもシーズンの初めのうちだけで何頭も殺すとすぐ慣れて、何も感じなくなる」セバスチャンは以前、ここでクマにナベ、カマ類をいたずらされ、穴をあけられ、炊事ができなくて困ったことがあるのだ。

 東洋の客人のために、イレナがクマの肉のたっぷり入ったカレーとライスを炊いてくれた。ナポレオンを出してきて、みんなで飲む。いい食事といい酒と、それにいい仲間。泊まっていくように」すすめられたが、夜の10時に出発した。

 イレナが日本語で「サヨナラ」といった。森の中は空気が澱んで暑く、蚊が恐ろしいほど多かった。風通しのいい川原に寝るのに慣れると、他の場所では寝る気になれない。 』


 『 ある日、オンボロのトラックに荷物を満載してビルという男がサークルに来た。ここからフネに乗って300kmほど離れたユーコン川の支流のポーキュパイン川のさらに支流のコーリン川の上流の山に入るのだ。奥さんと子供二人を連れている。

 村の教会の庭に置いてあった木製の川舟にペンキを塗り、それが乾いたら、家族を連れて川を下り、来年の春まで小屋で暮らすのだ。幅2m、長さ6mの平底船につける60馬力の船外機、予備の40馬力の船外機、大口径の銃2丁、散弾銃2丁、22口径銃、スミス・アンド・ウェッソンのピストル、弾丸一山、200リットル入りガソリンのドラム缶3本、チェーンソー、等々―――荷を降ろすのを手伝った。

 ビルは40歳の白人でサンディエゴからアラスカに来た。今年で「14回目の冬になる」といった。14年目とはいわず14回目の冬という考え方。氷点下50度の厳寒を生き延びるのは彼等にとって一つのチャレンジなのだ。

 「子供の学校はどうするんだ?」小学生の男と女の子を見てぼくはきいた。「月に一度、先生が山に来てくれるんだ。水上飛行機に乗ってね。家に前の川に着水する」「それは政府がやってくれるの?」

 「そう。アメリカ政府が山に住む子供たちの教育の面倒を見る」「いいシステムだな」「うん。いいだろう、月一回だからね、教科書を教えるんではなくて、〔勉強の仕方〕を教えてくれる。あれはとてもいい。感心しているよ」

 そばから奥さんが顔を輝かしていった。「山の生活っていいわよ。とてもきれいなの。やることが多くて忙しいけど私は好き。夏の間何ヵ月か都会で暮らすんだけど、いつも体の芯から疲れるわね。山に入ると子供たちがとても元気になるし」「それはいいな。山の生活が体に合っているんですね」

 村のはずれで小さな雑貨店の持つレイトン夫妻は15年前にロサンゼルスを出て、もっと北へ行くつもりだったが、ちょっと立ち寄ったサークルに何となく足をとられて、ずるずる居ついてしまった。レイトン氏は50歳だ。いずれは本来の望み通り、もっと「北」に行くつもりだ。

 「だから未だ移動中というところだ」彼等は「遊牧民」なのだ。生涯、定着しない。いつも restless wind に誘われ、ここではない他の場所、山の彼方の荒野をめざして歩く。そういう人間が集まる所がアラスカだ。 』


 『 アメリカやカナダの山中には「マウンテンマン」と呼ばれる一群の男たちがいる。ある日、突然、会社、女房、家族、都市生活が嫌になり、それらのものを捨てて銃一丁を持って山に入り、生活を始めるのだ。

 「マウンテンマン」志願の人間がアメリカにいかに多いかは、そういう人たちのための月刊誌まであることで想像できる。一人暮らしのマウンテンマンと会うと例外なくそうだが、カールはその日、夜遅くまで一人で喋り続けた。彼が話すのを止めたのは、小用のために外に出た時だけだ。

 「君はもう知っているだろうが、ここはインディアンの土地なんだ。俺は squatter(不法定住者)でね。連邦政府は俺に出ていけ、といった」ふらりとやって来て、そこに居座り(squat)、住みついてしまうのをスクワッターと呼ぶ。

 アメリカやカナダの大半はスクワッターたちが開拓したという見方もできる。しかし、しかし、現代の法律ではスクワッターは「不法占拠者」だ。特にカーター政権以来、アメリカ合衆国ではアラスカの土地をできるだけ国立公園化しようとする動きが強く、そのための法案が議会で可決された。

 その結果、昔通りに squat して暮らしている多くのマウンテンマンたちが追い出されている。カールは新しくこの土地の所有者になったインディアン部族酋長の所にのりこみ、直談判をした。

 「俺はここに15年も住んでいる。君も知っているように俺は自分で食う以上の、獣も魚も鳥も獲らない。いずれ俺もここで死ぬだろう。その時、俺の小屋や品物はすべて君のバンド(部族)に寄付する」酋長はカールの心意気に感動し、快く承諾してくてた。

 あとで下流の村の年寄りに会ってカールの話をした時、古老はいったものだ。「今の若い奴らはだらしなすぎる。俺たちの若い時はみなカールみたいに暮らしていたものだ。ナイフ一つ持って森の中に入り、自給して何週間も暮らし、帰ってくる時は丸々と肥っていた。あいつは白人だが偉い奴だ。奴は男だ」

 カールはトイレに立つ時も、腰にコルト・ガバメントのピストルをつけた。「都会の学者たちはクマはこちらがヘマをしない限り、人を襲ったりしない、というけれど、それは嘘だ。その壁にグリズリーの皮がかかっているだろう。そいつはこの春、この小屋の前でいきなり襲ってきた奴だ。

 手にした銃を目の前に持ってきて狙いをつける暇がなくて腰だめで射った。うまく頭に当たったので助かったんだ。俺はクマを信用しない」トイレに座っている時、クマが出てきてそのままの姿勢で射ったこともある、という。森の中で人間が暮らすと、食べ物の匂いがするから、どうしてもクマとの衝突は避けられない。

 カールは愛用の「サベッジ99」五連発の銃をいつも身辺に置いていた。彼のティピー型の小屋はとても居心地がいい。八帖くらいの広さで、中にストーブとベッド、テーブル、椅子などがある。その夜、ぼくは彼のもう一つの小屋の木製のベットに寝た。

 翌朝、目覚めるとカールがもうそばにきていて、ぼんやりしているぼくの頭の上で喋り始めた。「なあ、きのうはちょっとしたパーティだったな」われわれはナポレオンのポリタンクを一つ空にしたのだ。 』


 『 ホワイトホースを出て50日がすぎていた。これまで1500km漕いでいる。あと1500kmだ。心身のボルテージが下がって好奇心がなくなっている。今年はここで帰ろう。来年はガクを連れてこようと思った。銃を二人の学生にくれてやり、その他の小物を隣の家に預け、ぼくは日本に向け発った。
 
 二年目6月中旬。フェアバンクスで泊まったモーテルの親爺は、犬を室内に入れて構わない、といった。「ここは自由の国だ。犬も自由にさせなきゃ」彼は三年前にユーゴスラビアから亡命してきた人で、その息子がぼくを部屋に案内した。

 「もうアラスカには慣れた?」「かなり。夏のシーズンが終わったら父が一ヵ月 の休みをくれるんです。去年はマッキンレーに登りました。とてもいい国ですね、ここは」「俺はユーコン川を下るんだ」「この犬を連れて行くんですか。いいな」

 ガクはこれまで日本の川でカヌー犬として経験を積んできた。魚を生でたべるし、泳ぎもうまい。アウトドアの経験と実力もかなりある。青年は訛の強い英語を喋ったが、野球帽をかぶりGパンにスニーカーをはくと、それだけでいっぱしのアラスカ人に見えるのが面白い。

 出発地のビーバー村に行く飛行機の便を探した。定期便としては一日に一回、郵便物を運ぶメイル・プレインがあった。荷物は一ポンド(435g)につき36セントの運賃を別にとる。

 ファルトボート40㎏、犬20㎏、キャンプ道具、食料、本30冊、カメラ3台、携帯用机、椅子、ギター、リール竿3本、のべ竿2本など、100㎏の荷物だ。メイル・プレインは6人乗りのセスナ機だった。乗客はインディアンの母子とぼくの3人。

 後部の貨物用の空間にガクのケージが押しこまれた。少し斜めになったケージの中でガクが不安そうな顔をしている。一時間飛ぶとユーコン川に出た。川に沿って飛行機は飛び始めた。川の中にいくつも島があり、それが幅、長さとも数kmの大きさだ。水路は幾筋にも分かれて流れていた。

 カヌーで川を下っている時は川の両側しか目に入らないから、自分がどんな状態の中を漕いでいるのか判らない。川沿いに十数軒の家が光って見え始めると飛行機は高度を下げ、一本の滑走路に降りた。数人の暇なインディアンたちが荷物が降ろされるのを見ている。ぼくの荷物が滑走路に放り出された。

 荷台や車がある訳ではない。ぼくは荷物を背負い、川岸の村まで三度往復した。その便の郵便物はアメリカの大手通信販売会社シアーズのカタログ一冊で、パイロットがそれを手にしてむらの方に歩いていった。

 クリフの家に行く。去年ぼくの荷物の一部を預けていたのだ。ユーコン川の上空にはコトンウッド(白樺)の綿毛が一面に漂っていた。去年まで日本のテレビ取材班が使っていた小屋に三泊して出発の準備をした。しばらく世間と接触を絶つので雑誌の原稿を数本書き溜め、メイル・プレインのパイロットに頼んで日本にFAXで送ってもらった。

 出発。クリフが一人岸に立ってぼくを見送った。午後九時だがどうせ白夜だ。一晩中明るいし、夜の川旅も悪くない。前の座席に犬のガクを乗せる。川幅5~10km。次の村は100km下流にあり、その間は何もない。川は時速5kmで流れた。

 12時頃、太陽は西の森の梢すれすれまで落ち、そのまま横に動く。そして、2時半には再び昇り始める。風がやみ、森の中の動物の鳴き声と川の岸が崩れ落ちる音だけだ。ガクが初めての大河をじっと凝視している。

 以前、カナダのマッケンジー川を下って北極海まで漕いだ時は(3ヵ月で1700km)、テントは極小のもの、ボールペンは1本のみ、歯ブラシの柄は半分に切り落としておく、といったギリギリのサバイバル旅行だった。

 今年はそれを変え、荷物は持てるだけ持っていくことにした。品物なんて邪魔になったら人にくれてやればいいのだ。テントはモンベルのムーンライトⅢ.本30冊、カメラ3台、椅子、ギター、ハモニカ、リール竿3本、のべ竿2本。食料は米10㎏、非常食のパイロット・ビスケット50枚入り1箱、バター、塩、醤油等々。

 フェアバンクスで酒を買うのを忘れた。ユーコン流域ではドライ(禁酒)の村がほとんどだ。次に酒屋のある村まで酒なしの生活だがそれもいいだろう。今年から日本製のファルトボートを捨てて、カナダ製のフェザークラフトに替えた。

 これまで使っていた日本製の二人艇は長さ4.4mだったがフェザークラフトは6mあり、積載量が大きい。デザイン、部品の精密さ、船体布の強さ、いつも空気もれしていたエアーチューブなどすべての点で大人と子供の差がある。ぼくは決して舶来品崇拝者ではないが、ことファルトボートに関してはカナダ製のフネに文句のつけようがなかった。 』

 
 『 次の日、ゆっくりしてコーヒーを飲んでいると、上流からカナディアンカヌーが流れてきた。ぼくのテントの前にフネを着けたのは金髪の若い男だった。握手をする。「ラウス。ドイツ人だ」「モトだ。日本人だ。ビール飲むか?」「有難う」

 カヤックの底の水溜りに浸っていたビールはよく冷えていた。久しぶりに陽が出てきて、テントのまわりの砂地が湯気を上げ始めた。ぼくはフネに積んだ濡れた荷物を砂の上に広げた。ラウスもモソモソと荷を解き、乾燥させる。

 彼の荷物がとても少ないのに感心した。小さなテントとシュラフのみ。マットレスもコッヘルも持ってないのだ。「ウイスキーをやろう。カップ持ってこいよ」「カップは持ってません」「食事はどうしてる?」「パンとチーズ、紙パックのミルク、ソーセージをたくさん持っています」


 一週間漕げば必ず次の村に着くのだから、それでいい訳だ。「カヌーは今までやっていたの?」「いいえ、カナダに来て初めて漕ぎました」出発点のホワイトホースで中古のカナディアンを1000ドル(12万円)で買って、そのまま下ってきた、という。

 「ファイブ・フィンガー・ラビッズは怖かっただろう?」「とても。でも。みんなから、右の端を行け、といわれていたから、そのとおりにしたら、大したことはなかったです」

 ラウスは21歳。ドイツではある年齢に達すると、1年半ほど軍隊に入るか、軍隊が嫌いな者は病院やその他の福祉施設で20ヵ月、”公共奉仕”しなければならない。彼は病院の雑役をやり、その後、三ヵ月の休暇をとってユーコンに来たのだった。大学があと一年残っている。彼は4冊の本を持っていた。

 ゲーテの詩集、天文学と数学の専門書。水に濡れてどれもふくれ上がっている。「インディアンは白人を嫌ってますね。上流のビーバーで上陸した時、話しかけても返事をしないんです。それに若い連中が数人でぼくをにらんでいたので、危ないと思って、フネにとび乗って逃げました」

 「面白いな。俺はあの村に2週間いたが、実に気持ちよく暮らせたぜ。まあ、肌の白い人は、この川では諦めるんだな。白人は、ここではマイノリティ(少数民族)だ。苛められたり差別されたりすることがあるぞ」

 今日はパーティーをやろうぜ、と銃を持って対岸に渡った。何か食い物を獲ろうというのだ。ぼくは22口径を持ち、頭上にカモが飛んできたら、それで落とせ、とラウスに散乱をこめたベアー・バスターを持たせた。

 ブルーベリーの実がびっしりとなった草原を歩く。ウサギが時々とび出してきた。しばらく野菜や果物を食べていなかったのだろう。ラウスはビタミンCだ、と夢中でブルーベリーを摘んで口に入れている。

 「ラウス、気をつけろ。ブルーベリーはクマの大好物だ。そいつのある所にはクマもいるぞ」「ウヘッ」ウサギを二匹、射った。川に入ってウサギの皮をむく。「ウサギのうまいシチューを作ってやろう」「嬉しいな、温かい料理は二週間も食べてないんだ」

 小さなクリークでパイクを九匹釣った。いずれも50~60cmのやつ。夕食は、シチューとパイクのホイル焼き、米飯、ビール、ブランデー。川原は適当に風が吹いて蚊が寄ってこず、快適だった。

 ギターを弾く。この夜のムードには「舟歌」と「島原地方の子守歌」がよく似合った。「そのララバイはいいですね。しかし悲しいな」「日本の歌は悲しいのが多いよ。俺たちは悲しいのが好きなんだ」「面白い」「ラウス、ゲーテの詩を朗読してみろ。俺がバックミュージックをつけてやる」

 ラウスはゆっくりとゲーテの詩を読んだ。ぼくにはドイツ語はさっぱり判らないが、適当なコードをつけて、ポロポロとアルペジオで弾くと、これがなかなか合うのである。ラウスがいった。「何か日本の詩をやってください」

 「シマザキ・トーソンの詩をやろう。〔ファースト・ラブ〕というんだ」

 まだあげ初めし前髪の  林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思いけり
 やさしく白き手をのべて 林檎をわれのあたえしは 薄紅の秋の実に   人こい初めしはじめなり

 午後11時。まだ空は明るい。12時過ぎに陽が原生林の背後に落ち、本の活字が少し読みにくくなった。ガクが焚火を見ながら、両足をそろえた上に頭をのせ、うとうとしている。翌朝、ラウスが発った。

 「風が出たら無理せずに岸に着けろ。そして風がおさまるまで待つんだ。カナディアンカヌーは風に弱いからな」「ヤー、ダンケ。またどこかで」「クマとインディアンの娘には気をつけろ」

 広い、濁流のユーコン川を漕いでゆくラウスの姿はとても小さく、頼りなく見えた。若者がちょっと暗い顔をしてひとりで荒野を行く風景はいものだ。 』(第56回)