58. 裏方名人 (足立紀尚著 2006年12月)
本書は、”七味唐辛子の口上師”、”戦前と戦後を農業で生きてきた”、”新しいコメづくりを開く農家の試み”、”日本一の漆掻きの仕事”などの十篇のいぶし銀のような人生と仕事の魅力を聞いてまとめたものである。
ここでは、その中から”ツシマヤマネコの人口繁殖に挑む”をとり上げる、これは福岡市動物園で長年ツシマヤマネコの飼育を担当してきた高田伸一さんのお話です。
ヤマネコは、家ネコに外見はにているが、まったく別物で、小型のトラである。アジアでは、”前門のトラ、後門のオオカミ”と恐れられているが、トラやオオカミやヤマネコは、その森の頂点に君臨する生物であり、かつ彼らは、その森の豊かな生物多様性の上でのみ、その種を存続することを許されている。
森が疲弊すれば、彼らはその子孫を残すことはできない、そのために、彼らは森を豊かにし、生物多様性を維持することが、彼等にとっての至上命令なのである。たとえば、アジアに8種類いたトラの亜種は、現在、アムールトラ、スマトラトラ、インドシナトラ、ベンガルトラの4種で、森林の減少によって、いずれも絶滅危惧種である。
『 日本には二種類のヤマネコが生息している。イリオモテヤマネコとツシマヤマネコである。いずれも国の天然記念物である。このうち、沖縄のイリオモテヤマネコの場合は百頭前後と、数はほぼ増減ない。
これに対して、長崎のツシマヤマネコは年を追うごとに頭数が減少している。1960年代には三百頭いたと言われている、ところが90年頃には百頭前後にまで激減した。90年代後半には七十頭程度までに落ち込んでしまった。
こうした経過から、ツシマヤマネコは国が指定する「絶滅危惧1A類」という、もっとも絶滅のおそれの高い野生動物にもなっている。環境省も、その対策に乗り出した。ツシマヤマネコを人工的に繁殖させて頭数を回復させたうえで、再び自然に帰す。そんな大がかりな計画が、こうして始まったのである。
いずれにしても、きちんと飼育ができることが前提なわけである。ところが、絶滅が危惧される希少種であるツシマヤマネコを飼育するのは先例のないことだった。どこの施設にツシマヤマネコの飼育と繁殖を担当させるのが相応しいか――。その白羽の矢が立ったのが、この福岡市動物園だった。
高田さんはツシマヤマネコの担当になる以前はトラを担当していた。当時の動物園には、ひきこもりのトラがいた。「国内の他の動物園から来たメスのアムールトラです。ここに来てから一度も寝室から出たことがありませんでした。そこで、これを運動場に出してやろうと考えたんです」と高田さんは言う。
寝室と運動場の間にはキーパー通路と呼ばれているトラの通り道がある。トラはこのトンネル状の長い空間を通ることで、運動場の前でトラを見ようとする観客たちの前に姿を現す。高田さんが考えたのはキーパー通路の上部にある鉄の檻をバーナーで切ってしまうというものである。
さらにこの部分からトラが好物の肉を落としてゆく。エサも特別なものに変えることにした。カンガルー肉や鶏頭、牛の肝臓、しかもこれらの落とす位置を日を追うごとに運動場に近い側に少しずつ移動させていった。
「すると、あれほど運動場に出るのを嫌がっていたトラが運動場に出てきました。これにかかった期間は1ヵ月ほどでしたねえ」高田さんにとって、こうした動物を担当するのは、この時が初めてではなかった。
動物園で産まれて以来、十六年間も寝室から出たことのないカバがいた。「当時の園長から『運動場に出せるか?』と聞かれました。それで『時間さえくれれば出すよ』と答えました」と高田さんは言う。
この時は、なんと一週間でカバを運動場に出すことに成功したという。「この場合もエサを有効に使いました。動物園で飼育する動物というのは家庭のペットのようにスキンシップは有効ではないんです。エサをうまく利用するのがコツです」 』
『 イエネコもヤマネコも体の大きさは変わらない。ただし、ヤマネコは野生種であるためなのだろう、季節によって体重に変化がある。ツシマヤマネコの成獣はオスの場合、体重が増える初冬に4500グラムから5000グラムである。反対に四月ごろには3500グラムにまで落ちる。メスはオスに比べて、やや小ぶりである。
さらに、ヤマネコとイエネコでは大きく異なっている点がある。動物が成獣になるまでの期間を「生成熟」という。イエネコの生成熟は九ヵ月なのだが、ヤマネコは成獣になるまでに十八ヵ月もかかる。つまり、ヤマネコは大人になるまでにイエネコの倍の期間を要するのである。
次のように考えるとわかりやすのではないか、と高田さんは語る。「ネコとトラは、いずれもネコ科に属する動物です。このうち野生種の大型ネコがトラです。これに対して、野生の小型ネコがヤマネコというわけです」
世界に目を移せば、ヤマネコの仲間は広くアジア地域に生息している。インドから中国にかけて棲むベンガルヤマネコがいる。またシベリアのオホーツク海沿岸から朝鮮半島にかけてはアムールヤマネコの存在が知られている。これらはトラの生息地域とも重なっている。つまり、ヤマネコは小型のトラと言い替えることもできるのだ。
日本国内に棲むツシマヤマネコもイリオモテヤマネコも、ともにシベリア産のアムールヤマネコの系統に属する。つまり、ツシマヤマネコの祖先は北方から下りてきたものだと推測されている。その証左に台湾にもアムールヤマネコが生息する。
玄海灘の沖に位置する長崎県の対馬が中国大陸から分かれたのは十万年前、沖縄の西表島の場合二十万年前と推定されている。ツシマヤマネコとイリオモテヤマネコというのは、これらの島が独立した時期に大陸から離れて、そのまま島に残った種であると考えられている。 』
『 ツシマヤマネコの人口繁殖プロジェクトの話が持ちあがった当時、福岡市動物園には二十人の飼育係がいた。そのなかから高田さんがツシマヤマネコの担当に選ばれた理由は、ひきこもりアムールトラの一件があったからである。だが高田さんは言う。「この話が最初に園長からあった時は、最初は断りを言いました」
それというのも、ひきこもりだったアムールトラには、そのために番(つがい)となる相手がイギリスから新たに連れてこられていた。ペアリングもすでに済んでいて、翌年には子どもが産まれる運びになっていた。ここまできたら、できれば最終的に繁殖まで見届けたいと考えるのが人情である。
しかも、希少種であるツシマヤマネコの飼育担当は、むろん、たいへんな重責となる。そのプレッシャーとも闘わねばならない。そんな困難な仕事になることは、当初から目に見えていた。それというのもヤマネコを人工飼育によって繁殖させるという試みは、それまで前例がないことだったからである。高田さんが調べた限りでは、ヤマネコを計画的に繁殖させた事例というのは世界的にも報告がなかった。
繁殖はおろか、ヤマネコを飼育することさえも他に参考にできるデータがない。野生種のヤマネコを動物園で飼育をきちんと試みるのは、これが国内では初めてのケースである。まったくゼロのところから手探りの状態でスタートしなければならないのである。
園長と話し合いを重ねるうちに、ヤマネコの飼育方法について「自分が思う方法で自由にやってくれたらよい」とまでいわれた。このため、ついに断る術もなくなって首を縦に振ることになった。 』
『 ツシマヤマネコの受け入れと飼育担当が決まった園内には、やがて新しい獣舎も建設されることになった。そのための獣舎は五つ用意された。ネコ科の成獣は群れをなさずに個体ごとに生活する。子育てについても番ではなく、メスのみでおこなう。この点トラもまったく同じである。ヤマネコのオスは、それぞれ自分の縄張りの中で行動している。
縄張りの広さは生息する地域のエサの量によって決まってくる。オスの縄張りの中に数頭のメスがいる。自分の糞尿などによって、それぞれの縄張りを確認し合う。いわゆるマーキングである。この点も野生のトラと同じである。
動物園に獣舎が完成したのは九四年秋である。ところが、肝心のツシマヤマネコが、いくら待てどもやって来なかった。すでに現地の対馬では、ツシマヤマネコの捕獲する作業が始まっていた。これが容易に奏功しなかたのである。野生のヤマネコを生きたまま、まったく傷つけることなしに捕獲することは、当初に考えられていたよりも、ずっと至難のことだった。
一頭目のツシマヤマネコ「№1」が福岡市動物園に到着したのは、獣舎の完成から二年近くたった九六年の五月である。生まれて二ヵ月ほどであろうと思われる一頭のツシマヤマネコのオスがたまたま鹿の防護ネットに引っかかっていた。これをヤマネコ会のメンバーが発見して保護した。メンバーによってカゴに入れられた状態で飛行機で福岡まで運ばれてきた。
「ネコというものは同じものが三日続くとエサを食べる量が落ちるんです。このため、いろいろなエサを与えることに気を遣いました」意図的に、さまざまなものを与えることにした、と高田さんは説明する。
馬肉、カンガルー肉、鶏頭、ブロイラーの腿、牛の肝臓……。さらにはヒヨコやマウス、さらには鰺などの魚類、夏場にはコオロギといった昆虫も含めるようにした。ネコ科の動物は肉食である。高田さんは、これらのエサを使って一週間のローテーションを組んだ。
しかも、生まれてくる子は、いずれ自然に戻すことになる。このことを考えれば、できるだけ自然に近い状態で与えた方がよい。こうした理由から、ヒヨコやマウスは可能な限り生きたまま与えることにした。
ヤマネコを森に戻すのは子の世代以降である。だが、かりにその親であっても不必要に人間に慣れさせることは慎むべきと考えられた。そうでないと野生種としての感覚が失われてしまう可能性がある。このため、動物園ではヤマネコをできるだけ自然状態に近い環境で生活できるように配慮がなされた。
このため、飼育を担当している人間であっても、ヤマネコと直に接触することを避けることにした。ヤマネコの様子を観察するにしても、直接することはしない。離れた場所にあるモニター室からカメラによる映像を通じてヤマネコの様子を知る。掃除などを除くと、人間はヤマネコの寝床に足を踏み入れることもない。
用意されたヤマネコの住まいは部屋一つの奥行きが6mある。横幅は4mほどである。これが運動場で、ここにはツシマヤマネコができるだけ自然の環境で生活できるように木や草も植えてある。この運動場に隣接して寝室も設けられている。こちらは奥行きが2.5m、横幅は1.8mの広さがある。このコンクリート造りの部屋の床の上に70センチほどの高さの台を置いて、この上に巣箱を置くようにした。
巣箱があるのは寝室のもっとも奥の場所である。その手前に仕切版がある。エサが置かれるのは前室と呼ばれる手前の空間で、巣箱から運動場に出るためには前室を通って行くことになる。ツシマヤマネコのための巣箱を用意するというアイデアは高田さんが発案したものを工務部の担当者に依頼して、準備してもらった。
巣箱の中には豆電球とモニターカメラが入っている。これによって人が直接覗かなくても内部の様子を知ることができる。モニターカメラは寝室と運動場にも設置されている。部屋一つに対して三台のカメラが用意されている。しかも運動場のモニターカメラは交尾の様子も、しっかり確認できるように広角とズームの切り替えもできるタイプが用意された。
「トラのような大型ネコとは違って、ヤマネコのような小型ネコというのは人間の気配を感じただけで交尾を止めてしまうんです」この時、高田さんがおこなおうとしていたのは、たんなる飼育ではない。繁殖のための飼育である。しかも、動物園で繁殖させた動物を再び自然に戻すことを前提にした飼育なのである。そのためには、交尾したことを確認するという作業がどうしてもかかせない。
飼育の担当者がヤマネコの世話はしても、ヤマネコの姿を直に見ることはしない、それは、ヤマネコに向かって呼びかけたり、その体に触れて可愛がったりというのとも、むろんしない。
飼育中のヤマネコに名前をつけることも、あえて意識的におこなっていない。個体は通し番号のみで区別している。「ヤマネコと接触することは一切せず、その生育を陰からじっと静かに見守る。これが繁殖と自然に戻すことを前提とした飼育を担当する者としての正しい姿勢なんです」と高田さんは語る。
だが、ヤマネコと接触しないことで、ひとつ困ったことがあった。ヤマネコの健康状態について知るためには、日々の体重を記録することが欠かせない。だが通常のように人が持って体重計で計ることは避けねばならない。
その解決法には大がかりな仕掛けが必要になった。体重を計測するための機器を前室の床に設置したのである。つまりヤマネコが床の上に置かれたエサを食べている時には、決まった位置にいることになる。その際に体重を計れるようにした。計測した数値からエサの重さを引くことでヤマネコの体重が判明する。
飼育を始めた時期に、もっとも苦労したのがエサの量だったと高田さんは言う。前例がないために、もっとも大事なエサの量も試行錯誤しながら自分で決めていくことになる。併せて、えさの与え方についても自分で考案した。
ネコ科の動物を飼育する際には通常であれば週に一度の欠食日を設けることになっている。欠食日があることで一回あたりに食べる量が多くなる。これによって胃も大きくなるから、欠食日を設けると同じ量を毎日規則正しく食べさせるよりも結果的に多くのエサを食べるようになる。
高田さんが考えたのは、ヤマネコの欠食日を週二日にするというものであった。「これによって、よりハングリーな状態におくことができるのではないか、と考えたんです」だが、欠食日を二日にすることで見極めが難しくなってくるのが、一回に与えるエサの量である。
「ヤマネコに毎回少しずつ違った量にエサを与えていきます。ヤマネコがエサの食べている最中はモニター室の画面を見ていて次の量を決めます」ヤマネコの糞についての観察も怠らない。さらには、エサの残す量についても記録をとりながら、毎回のエサの量を決めていくというやり方である。 』
『 捕獲作戦が功を奏して、ようやく野生のツシマヤマネコが対馬から続々と送られてきた。ところが困ったことがあった。№2から№5までは、ことごとくオスのネコだったのである。しかし、肝心のメスが対馬からやって来ないのである。待望のメスがやって来たのは、さらに2年が経過した97年12月のことであった。これが№6である。
№6は年齢のいった成獣であった。これは歯の摩耗具合からの推測でわかる。カップリングは年齢が近いネコ同士の方がうまくいくことが多い。そこで高田さんは、この№6を№5とくっ付けることを考えた。「このは№5は交尾しようとするのだが、どういう理由からか、メスの首筋ではなく頭の上の部分に食い付く、この姿勢で前へ前へいこうとするために、どうしても挿入にいたらなかった」
翌98年になって、№8というメスネコが入ってきた。№8は一歳くらいと思われた。そこで、この若いメスネコにくっ付ける相手の候補として高田さんが考えたのが、一番最初に幼獣で入ってきていたオスの№1だった。だがこれもうまくいかなかった。
なにしろ生まれて二ヵ月で動物園にやって来たわけで、どうやら自分がネコであることが理解できないようだった。ネコというのはふつうは同じネコ同士ですれ違う際に、互い間隔をとりながら横を通り抜ける。「ところが、この№1は相手の頭の上を飛び越えようとするんです」こうして、№8と№1という二頭の組み合わせは早々に断念せざるを得なかった。
こうした試行錯誤を積み重ねるうちに、どうやらメス№8にはオスの№3とくっ付ける方がうまくいきそうだという予感めいたものを感じた、この組み合わせが福岡市動物園での最初の子を誕生させた。
こうして、このプロジェクトが始まって、高田さんのもとで誕生したツシマヤマネコの子は十数頭を数えている、ツシマヤマネコの第一世代のなかには、対馬にある野生保護センターに送られたものもいる。 』
私(ブログの作成者)は、ヤマネコが同じエサを食べない(生態系のバランスを守るため)、週2回の欠食日(必要最小限の捕食とエサを無駄にしない)という二つの事に注目した、私は森の頂点捕食者は、森の繁栄にその生命は繫がっていると考える。
このため、アムールトラは、アカシカ、イノシシ、ノロジカ、ニホンジカの群れのより健全な状態になるように、森を守る小鳥たちのバランスと結果的には、森を成熟させることによって、アムールトラは種族を繁栄させてきた。
アムールトラと言えども子育てに時期に森が豊かなエサを供給しなければ、子孫を残すことはできない。ヤマネコやトラは、子育てに、1年6ヵ月から3年以上にも渡って、母親から付き切りで、様々なことを学習しなければ、真のイリオモテヤマネコや真のアムールトラには、なれないのではないだろうか。(第59回)