チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「パブロ・カザルス」

2014-11-20 13:03:22 | 独学

 66. パブロ・カザロス (ジャン=ジャック・ブデュ著 2014年7月 Copyright 2012)

 『 カタルーニャの中心都市バルセロナの南に広がる平野には、たくさんの小さな町があった。その中のひとつ、約4000人の住民を数えるエル・ベンドレルの、サンタ・アナ通り2番地に、カルロスとピラールのカザルス夫妻が住んでいた。バルセロナの労働地区で1852年に生まれたカルロスは、エル・ベンドレルの教会のオルガニストで音楽教師だった。

 ピラールはカタルーニャ人だが、彼女自身はスペインの植民地だったカリブ海の島プエルトリコで1853年に生まれ、父親の死後、1870年にエル・ベンドレルへきた。ピラールはカルロスからピアノのレッスンを受けるようになり、ふたりは恋に落ち、1874年に結婚した。夫婦のあいだには11人の子どもが生れたが、無事に成長したのは3人の息子だけだった。

 一番上の息子パブロは、夫婦の最初の子どもが生後すぐになくなったあと、1876年12月29日に生まれた。子どものころの数少ない彼の写真からは、意志が強く自信に満ちた鋭敏さが感じられる。カルロスは息子が幼いころから、「男は泣くもんじゃない」といって育てた。事実、10歳のとき、狂犬にかまれて死にかけたカザルス少年は、バルセロナの病院で口にハンカチを押しこんで、64本の血清注射に耐えている。(この時、バルセロナの病院では実験的に、ルイ・パスツールの狂犬病血清を使い始めていたのである)

カザルスは、4歳で、鍵盤が見えなくても父が鳴らす和音をいいあてた。7歳で、父と一緒にキリストの降誕をテーマにした「ロス・パストルシーリョス」を書いた。もう少し大きくなって、教会のパイプオルガンのペダルに足が届くようになると、ピアノにかわってオルガンを弾くようになった。

 カザルスが11歳のとき、バルセロナ市立音楽学校のチェリストのジュゼップ・ガルシーアひきいる三重奏団が、エル・ベンドレルでコンサートを行った。はじめてチェロの音を聴いたカザルスはその音に魅了され、急いで家に戻ると「パパ、いままでぼくが聴いたなかで、もっとも美しい音の楽器だったよ。あれこそ、ぼくが演奏したい楽器なんだ」と父親にいった。

 しかし、父カルロスは耳を貸さなかった。彼は、息子に音楽の才能があることはわかっていたが、音楽では金にならないことも知っていた。彼は息子を大工にするつもりだった。息子の将来をめぐって、夫婦は口論した。ピラールは夫に反対し、たとえもっと生活が厳しくなっても、チェロを勉強をさせるためにカザルスをバルセロナへ行かせると主張した。

 カザルスは、ピラールの遠い親戚でバルセロナの労働者地区に住む、大工のバネット・ブイシャドスの家に預けられた。カザルスはチェロの才能に恵まれていたため、すぐにレッスンの必要がなくなった。そればかりか、クラスメートや教師までもが驚くなかで、彼はチェロの奏法を改革した。

 当時、チェロは肘を体につけて、腕をかたくしたまま演奏するのものとされていた。しかし、カザルスは、それまで誰も疑問に思わなかったこの決まりごとが不合理だと考えて、肘を体から離し、腕をやわらかくしてチェロを演奏した。そうすると、弓を自由に動かすことができるようになった。

 さらに彼は、3つの半音ではなく4つの半音に届くよう、左手の指を開く指使いを積極的にしようとした。彼以前に、楽器の技法の改革を試みた人物には、イタリアのヴァイオリニストのパガニーニやハンガリー生まれのピアニストのリストがいる。カザルスにとって、ジョゼップ・ガルシーア以上の教師を望むことは難しかった。

 チェロは長いあいだ世に埋もれてきた楽器で、当時の演目はかなり限られたものだったので、演奏する人は少なかった。最初のころ、カザルスはガルシーアの言うことを素直に従っていたが、やがて自分の思いどおりに練習するようになった。それを見てガルシーアは、はじめはあきれたり目を丸くしていたが、結局はカザルスの非凡な才能を認めざるを得なかった。いちじるしい進歩をとげたカザルスに、ガルシーアは作曲も教えはじめ、カザルスは長時間ピアノに向かって過ごすようになった。 』

 

 『 カザルスの才能は、カフェ・トストで知れわたるようになった。当時12歳だったカザルスは、一晩4ペセタの報酬で一日3時間、週3回、カフェ・トストでチェロを弾いた。まもなく、彼は「エル・ネン」(カタルーニャ語で「少年」の意味)と呼ばれて、人気を集めるようになった。

 ある晩、カタルーニャの有名なピアニストで作曲家のイザーク・アルベニスが、カザルスのチェロを聴きにやってきた。情熱的で陽気な彼は、すぐにカザルスの演奏に心を奪われ、演奏が終わると彼にかけよって抱きしめた。そして、自分たちのロンドンの公演に一緒に行く許可をピラールに求めた。

 しかしピラールは、その申し出をきっぱりと断った。「息子はまだ、子供です。勉強をきちんと終える必要があるのです」。アルベニスはピラールの言葉を受け入れざるを得なかったが、それでも、スペインの摂政の個人秘書であるモルフィ伯爵への推薦状を彼女に手渡した。ピラールは、しかるべきときが来るまで、この推薦状を大切に保管した。

 1890年に、カザルスの人生における大事件が起きた。そのころカザルスは、カフェ・トストをやめて、バルセロナの有名なカフェ・レストランであるラ・パジャレーラの仕事を見つけていた。父カルロスは、カザルスにチェロを買ってやり、ラ・パジャレーラで演奏するための新しい楽譜を二人で探しに行った。 

 港近くの界隈を歩いていると、古くてかび臭い店があった。店入ると、カザルスはまず、ベートーヴェンの「チェロとピアノのためのソナタ」を手にとった。そのあと、ほこりだらけの楽譜の山から、バッハの「無伴奏チェロ組曲」を発見した。カザルスは、誰かがこの曲を練習しているところも、コンサートで弾いているところも見たことがなかった。

 事実、この曲は書かれてから一世紀後に、ドイツの作曲家ロベルト・シューマンが忘却の彼方から救いだして、ピアノの伴奏をつけたことがあるだけだった。この作品は無味乾燥で、とくに6曲あるすべてを通して演奏するのは、退屈すぎると考えられていた。この作品がふさわしい地位をとりもどすためには、カザルスの天才的な力が必要だった。カザルスは12年間も練習したあと、ようやく公衆のの前で披露し、この作品の独創性を広く知らしめたのである。 』

 

 『 この楽譜の発見はカザルスの生涯における重大事件だった。彼はその楽譜を手に入れて家にもちかえり、組曲を通して弾いてみて、自分の魂に最も近い音楽を見つけたと実感した。カザルスは後につぎのように語っている。

 ”私は興奮にうち震えながら弾き始めた。それは私にとって最も愛おしい音楽になった……当時私は十三歳だったが、それから八十年間、その発見の驚異はずっと私の中で大きくなり続けている。あの組曲が私の前にまったく新しい世界を広げてくれたのだ” 

 彼がソロ活動を始めたばかり時期に、彼はその組曲をリサイタルのプログラムに取り入れるようになった。しかし、その組曲がカザルスの代名詞となり、何百回とそれを演奏したにも関わらず、彼は演奏するたびに深い愛情と尊敬の念――そして畏れさえ感じていたのだった。彼は自分の編纂した版の出版を断り、録音もたった一度、極度の重圧を味わった後、1936年から1939年にかけて行っただけである。カザルスにとって、バッハの音楽は彼の染色体の一部のようなものだ、それは感情的かつ本能的に、彼の世界観を凝縮している。 』 (この部分は「パブロ・カザルスの生涯」ロバート・バルドック著による)

 

 『 14歳のとき、カザルスのチェロの教師をしていたジュゼップ・ガルシーアは、「もう、あの子に教えることはなにもない」とカザルスの父に告白した。カフェ・トストの経営者は、カザルスを25歳の作曲家シュトラウスが指揮するコンサートにつれて行って、ブラームスやワーグナーの作品が演奏されるコンサートと新しい音楽に触れて驚嘆した。

 しかし、16歳になったカザルスは、1893年春、バルセロナを後にし、母とふたりの弟と一緒に、イサーク・アルベニスが書いた推薦状をもってカザルスは、宮廷顧問で摂政の個人秘書だったモルフィ伯爵にあたたかくむかえられた。音楽愛好家で、才能のある人物を見つけることが好きだったモルフィは、カザルスの書いた曲を聴くと、感動して、「パブロ、きみは本物の芸術家だ」と叫んだ。

 マリア=クリスティーナ女王の前でチェロを披露したカザルスは、女王から当時としては大金である毎月250ペセタの奨学金をあたえられることになった。モルフィはカザルスに特別な教育をほどこした。ドイツ人でリストのもとでピアノを学んだモルフィ侯爵夫人は、カザルスにドイツ語を教えた。カザルスを実の息子のように思っていたモルフィのもとで、彼は文学、哲学、数学、歴史、美術を学んだ。毎週、プラド美術館へ行って有名な画家の作品を鑑賞した。

 マドリードで3年間を過ごしたあと、宮廷でのさまざまな駆け引きに疲れ果て、このままでは息子がたんなるオペラの作曲家となって生涯を終えてしまうと心配した母ピラールは、モルフィ伯爵と衝突した。彼女はバルセロナに戻る宣言したが、王家の支持を受けていたモルフィはそれを拒んだ。数ヵ月にわたる交渉の末、弦楽器の教育の評判の高かったベルギーのブリュッセル王立音楽院へ、チェロの勉強のために行かせることで合意した。

 この音楽院の誰もがこの「スペインの少年」の才能に疑問をもち、ないがしろにした。教室の一番うしろの席に座ったカザルスには、屈辱が待ち受けていた。授業の最後に、ようやくカザルスの演奏を聴いてやろうと、教師が彼にどんな曲が弾けるのかとたずねた。カザルスがどんな曲でも弾けると答えると、教師は皮肉っぽく叫んだ。

 「見事なものじゃないか! このスペインくんは、なんでも演奏なさるそうだよ。大変なお方に違いない」生徒たちは笑い、カザルスは怒りに震えた。教師は、これ以上難解な曲はないフランソワ・セルヴェの「スパの思い出」を弾くようにいった。カザルスは近くの生徒が手にしていたチェロをつかむと、調弦もそこそこに、見事な演奏を披露した。教室は静まりかえった。

 教師は即座にカザルスを自分の部屋によび、慣例に反して、音楽院の一等を保障するといった。誇り高きカザルスは、こう言い放った。「先生、先ほどあなたは私に対して無礼でした。生徒たちの前で、私を笑いものにしました。私は一秒たりとも、この場にとどまるつもりはありません」

 1895年、自分の名誉を守ったカザルスはパリへ行くこと決意した。モルフィはカザルスの選択を認めず、女王の奨学金は打ち切られ、この年の冬は寒さが厳しく、カザルスは赤痢にかかった。状況は悪化し、故郷のエル・ベンドレルでカルロスが工面した旅費で、故郷に帰った。 』

 

 『 3年以上生まれ故郷を留守にしたカザルスは、悲惨な経験からなんとか立ち直った。とくに期待もせず、音楽学校に顔を出すと、彼は「救世主」としてむかえられた。以前カザルスがチェロを教わったジュゼップ・ガルシーアがアルゼンチンへ行ってしまい、後任者が必要だったからである。

 こうしてカザルスは19歳で由緒あるバルセロナ市立音楽学校の教師となり、さらにリセウ大劇場の第1チェリストもつとめることになった。安心したピラールは、エル・ベンドレルの夫のもとに戻った。バルセロナで、カザルスは友人のピアニストのエンリケ・グラナドスやベルギーのヴァイオリニストのマチュー・クリックボームと再会した。

 彼はこの時期、演奏活動と、授業と、技術向上のための練習とで、多忙を極めた。教えることに自分の時間のほとんどを費やすことになったが、それはその後の彼の人生すべて について言えることだった。カザルスは二十世紀で最も偉大なチェロ教師の一人となった。恐らくこれは彼がこの世に残した永遠の遺産であろう。

 彼は七十五年間にわたり、自分が学ぶためには人に教えるということが欠かせないと考えていた。「教師というものはもちろん、生徒よりたくさんのことを知っていなければならない。しかし私にとっては、教えることが学ぶことだったのだ。」そして彼は教えながら、自分の技術をさらに磨き続けていった。

 学校が休みになる夏の時期には、スペイン各地をまわって演奏し、ポルトガルまで行って国王夫妻の前でチェロを弾いた。カザルスはモルフィ伯爵やクリスティーナ女王のことは忘れたことはなかった。思いきってモルフィ伯爵に手紙を書くと、愛情に満ちた返事が返ってきた。カザルスは、3年間のバルセロナ音楽学校を後にして、パリへ行くことにした。国際的な名声を得るためには、パリで活躍しなければならないと考えたからである。 』

  

 『 カザルスと再会したマリア=クリスティーナ女王 は、彼にエメラルドと高価なチェロをあたえた(彼はエメラルドを、自分の弓にはめこんだ)。モルフィ伯爵は、当代随一のオーケストラ指揮者シャルル・ラムルーあての推薦状を書いた。

 パリへ行く前、カザルスはオペラ歌手のエマ・ネヴァダに招かれてロンドン行き、クリスタル・パレスで最初のコンサートを開いた。そのあと、彼のうわさを聴きつけたヴィクトリア女王の前でサン・サーンスの協奏曲を弾いた。1899年11月、モルフィ伯爵の推薦状をもって、シャルル・ラムルーのもとを訪れた。

 しかし、多忙なラムルーは、自分が訪問者に邪魔されてばかりだと不平をいった。カザルスは「お仕事の邪魔をしてすいません。私はただ、モルフィ伯爵のお手紙をもってきただけなのです」といった。ラムルーは手紙を読むと、「もちろん才能はあるだろうよ。明日、チェロをもってまた来なさい」と冷たくいい放った。

 翌日、ラムルーは非常に難しいラロの協奏曲を弾くようカザルスにいった。最初の数小節を聴くと、ラムルーは持っていたペンを置き、リウマチで痛む体を起こした。演奏が終わると、彼は興奮して立ちあがり、目に涙をためながらカザルスをだきしめた。「きみこそ、選ばれた人間だ」

 1899年11月12日、カザルスは名門のラムルー管弦楽団で、ソリストとしてデビューし、大成功だった。残念なことに、モルフィ伯爵はそれを知ることができなかった。スイスで隠遁生活を送りはじめたモルフィ伯爵はすでになくなていた。

 パリでカザルスは、スペインの芸術家たちが大勢集まっていたモンマルトルのキャバレー「ラパン・アジル」近くにある、荒れはてた安ホテルで暮らしていた。しかし、今度はひどい狭心症になり、ふたたび寝たきりになった。

 カザルスの窮状を音楽家仲間から聞いたピアニストのアベル・ラムの未亡人は、カザルスをそのホテルから引きずりだして、有無をいわせず自分の家に住まわせた。ここでカザルスは元気になり、上流階級の人々が交流するサロンに出入りすることができた。

 このサロンでカザルスは、マルセル・プルースト、レオン・ドーデ、エミール・ゾラ、エリック・サティ、アルフレッド・コルトーなどに出会った。 』

 

 『 以下簡易年表より、主なもののみ記す。  1901年: アメリカでの初ツアーコンサート。 1904年: ルーズベルト大統領の招待で、ホワイトハウスで演奏。 1905年: コクトー、ティボーとともに三重奏団を結成しロシア演奏会。

 1914年: スーザン・メトカーフと結婚、ニュヨークに居を構える。 1931年: スペイン共和国誕生式典で、ベートーヴェンの「第九交響曲」を指揮する。 1939年: フランスへ亡命 。 1945年: 英ロイヤル・アルパート・ホールでコンサート。オックスフォード大とケンブリッジ大学の名誉博士号を拒否。

 1952年: プエルトリコ大学学長により招聘される。 1956年: プエルトリコでカザルス・フェスティバルを開催する、心臓発作で倒れる、マルタと結婚。 1960年: アカプリコで「鳥の歌」を初演。 1961年: ケネディ大統領の招待でホワイトハウスでコンサート。 

 1963年: 国連総会で「鳥の歌」を演奏。 1967年: 国連の記念日のためワシントンの憲法ホールで「鳥の歌」を演奏。 1971年: 「国連賛歌」を作曲し、国連総会で演奏、国連平和賞を受賞する。 1979年: 10月22日に、97歳で亡くなった。 』

 

 『 1951年の音楽祭のとき、叔父につきそわれた14歳の少女がカザルスにあいさつした。カリブ海の島プエルトリコ出身で、ニューヨークでチェロを学んでいるマルタ・モンタニュスというこの少女に、カザルスは母ピラールの面影を見た。カザルスがその次にマルティータ(マルタ)と再会するのは1954年11月チェロの指導を受けるために、プラードへ再びやって来た。

 彼女はメリーマウントとマニスの両校を優秀な成績で卒業し、サン=ファンで開かれたチェロ・コンテストで千ドルの賞金を獲得していた。地元の家に下宿し、自転車に乗ってカザルスのレッスンにやって来た。彼女はカザルスの姪のエンリケッタと仲良くなり、一緒に夕べを過ごした。

 1952年以降、カザルスはチェロのマスタークラスを担当するために、スイスのツェルマットへ行くようになっていた。そのころカザルスの事務的な仕事を一手に引き受けていたマルタは、カザルスの健康のことが気がかりだった。彼女は彼に、一緒に行かせてほしいと頼んだ。カザルスはある友人に、こう打ちあけている。

「そういうわけで、彼女はツェルマットに同行した。そこで彼女は、私が授業中に話したことを書きとめた。そのとき、私は初めて、彼女を愛し始めていることに気づいたのだ」 カザルスがマルタの何に魅せられたか、彼は一人ぽっちになり、彼女の寛大かつ明快な性格が、ぽっかり空いた心の穴を埋めたのだ。

 十八歳になるかならないかのマルタは、目を見張るような美女に成長していた。マルタは冷静沈着で、有能で、すべてを自分でこなせる人間だった。彼女はカザルスの生活をより快適に、エネルギーに満ちたものにした。

 スペイン語を母国語とし、また彼女はフランス語、英語をよくし、カタロニア語も素早く身につけた。音楽的には、天賦の才能を有し、しっかりした訓練を重ねていた。それなくしてはカザルスの内的世界に入り込んではいけなかったろう。そしてマルタは、人を楽しませる能力にも大いに長けていた。

 カザルスとマルタの絆がとりわけ強かったのは、彼らの年齢差と大いに関係があった。七十八歳の巨匠と目も眩むようなぴちぴちの十八歳は、互いに居心地いい存在だった。1955年末、カザルスはマルタを連れて、初めてプエルトリコを訪れた。ふたりは1957年8月3日に結婚する。 』

 

 最後に、私(このブログの作成者)から、カザルスとバッハの「無伴奏チェロ組曲」について、私の考察をのべて終わりとします。私が述べたいのは、なぜ、バッハが「無伴奏チェロ組曲」を作曲(1720年頃)してから、一世紀もの間、顧みられなかったか。もう一つは、なぜ、カザルスは、バッハの「無伴奏チェロ組曲」の価値を見出し、97歳で亡くなるまで、練習し愛し続けられたのかの二つの疑問です。

 最初の疑問は、バッハが作曲して、カザルスが発見するまで、チェロの弦が羊の腸でつくられていたためこの難曲で、チェロを鳴らし切るには弱かったと考えられます。二つ目には、この難曲を弾き切るための、チェロの演奏技術がカザルスが、開発するまで困難であった。

 三つ目に、この「無伴奏チェロ組曲」は、華やかな舞踏会より、個人の心の内部(頭脳の内部)で響く音楽であるため、むしろ日本文化の”わび”、”さび”に近い気もするため、一世紀もの間、顧みられなかったと考えます。

 次に、1890年に、当時13歳のカザルスが、なぜ、バッハの「無伴奏チェロ組曲」の真価を発見できたかです。第一に、この曲は、チェロの可能性を最大限に引き出すため、チェロの可能性をバッハが、オルガンを用いて一世紀以上も、早く革新的な作曲をした6つの組曲で、あったためにバッハの時代に受け入れられなかった。

 そのために、この「無伴奏チェロ組曲」を理解するには、ピアノで、この曲を弾き、さらには、チェロで弾くための技術を開発し、その真価を発見する必要があった。

 この6つの組曲は、この6つをすべてを弾き切ることによって、新たな発見があり、さらには、作曲したバッハの立場に立って、「無伴奏チェロ組曲」の楽譜を分析しながら、ピアノかオルガンで弾いてみることによって、新たな発見があると考えられます。これらのすべてをできたのが、カザルス少年であったのです。

 不肖私も、カザルスの「無伴奏チェロ組曲」をレコードで聞いて、30歳のとき道新ホールで、モーリス・ジャンドロンの演奏を聴き、チェロと「無伴奏チェロ組曲」の楽譜を買ってきて、三十年以上練習してますが、1ページすら弾けませんし、何度聞いても、曲を記憶できませんが、何度聞いても、私なりに新たなささやかな発見があるように思います。

 私の「無伴奏チェロ組曲」とは、普段、自分の脳の中の使われない部分を、少し刺激されるように思います。それは、私の解釈では、仏像の前で、般若心経を唱える感じに似ているのではないかと考えます。

 この「無伴奏チェロ組曲」聞けば聞くほど、演奏すればするほど、第1番から6番まで弾いたことがあれば、ピアノやオルガンで楽譜を弾いて、バッハの作曲の革新性を知る人、それぞれに、新たな境地が開けるのでは、ないでしょうか。さらに、バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティ―タの全6曲と聞き比べるのも、興味深いものがあります。(第65回)