チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「劉邦と項羽」

2015-09-23 14:00:02 | 独学

 89. 劉邦と項羽(最後に勝つ指導者の条件)  宮城谷昌光著 文芸春秋 2015年8月号

 漢文も英語も劣等生の私が何で「劉邦と項羽」を紹介するかといいますと中国史上最強の二人が兵力と知力と組織を使て様々に戦うのですが、ここで私は戦の作戦や諜報について、研究しようというわけではありません。

 しかしながら、私たちも何らかの組織、すなわち、企業、行政組織、政治組織、文化団体、自治会等の組織と関わるているとおもいます。これらの組織もトップと幹部の優劣によって、その成果は、大きく異なります。

 これから、膨大な漢書を読み解いた、宮城谷昌光の組織とリーダーについて、「劉邦と項羽」を例に、読んでいきましょう。項羽も劉邦も史上稀な天才ですが、我々凡人にも多くの学ぶべき点があると思います。

 

 『 劉邦という人物を書くということに、私はずっと恐れのようなものがありました。司馬遷の「史記」などの史料から浮かびあがってくる劉邦像とは、平凡でだらしない姿ばかりです。

 思想と行動にもわかりにくい部分が多い。特に不誠実なところがひっかかった。ですから、彼をそのまま描いても「なんだ。この程度の人間か」と思われてしまい、小説として面白いものにはなりません。

 これまで描いてきた歴史上の人物とは違い、必ずしも好きな人物とはいえませんでした。ただし、中国の歴史小説を生業にしている人間として、いつかは劉邦を書かねばならないと思っていました。

 常に頭の片隅で「劉邦とは、一体、何者か」と考えながら過ごしてきたともいえます。やがて「オール読物」に「楚漢名臣列伝」を書くことになりました。

 劉邦の周辺にいた人物、あるいは敵対した人物をきちんと見直すことは、劉邦を考える上で参考になると思い、すすんで筆を執ったのです。

 そういう覚悟で、史料を読む中で、劉邦は時代が選んだ男であり、天下の輿望を背負って生きたのだ、ということが見えてきました。

 秦王朝の末期には、劉邦のみならず、多くの英雄が生まれました。進路に迷う人々は自分の夢や将来を「この人に托そう」と考えて、それぞれの選んだ英雄に期待を寄せました。

 そして、最後に最も多く期待を集めた英雄が劉邦だったのです。私は、個人の才能や徳ではなく、天下の人々が劉邦に托した意望の強さと多様性を書くことで、より多面的で複雑な劉邦像を描けるのではないか、と考えたのです。 』

 

 『 ではなぜ、劉邦はそれだけ多くの期待を集めることができたのでしょうか。その理由を探っていくと、一つの結論に行きつきます。劉邦は聴く耳をもっている男だったということです。

 他の英雄たちは、自負心が強すぎて、人の話に聴く耳をもちませんでした。劉邦はとにかく配下の話をよく聞きました。これは、ライバルだった項羽と最も大きな違いです。

 項羽は何でも自分でできると考えてしまい、臣下の献策を用いなかったのです。

 名参謀の陳平にしても、最強の武将であった韓信にしても、もともとは項羽の配下でしたが、みな、話を聞いてくれない項羽を見限って、劉邦のもとに行きました。

 劉邦は人の話を聞き、人を褒め、きちんと恩賞を与えた。彼ほど仕えやすい主人はいなかったのです。

 しかし、褒美の与え方というのは実に難しい。大盤振る舞いをすればいいというものではありません。組織は不思議なもので、同じ功績があっても、陽になる人もいれば、陰になる人もいます。

 劉邦はその部分をきちんと見ていて、それぞれに不満がないように褒美を与えているのです。「劉邦」を書く中で、劉邦が天下を取った後にどれだけの褒美を与えたのかを意識的に記したのはそのためです。

 余談ですが、褒美の与え方では、徳川家康が劉邦に近かったようです。家康は天下人になると、それまで受けたどんな小さな恩も返しましたが、その尺度が実にぴったりなのです。

 小さな恩には小さな褒美を、大きな恩には大きな褒美をと、もらう当人が納得する分量を与える眼力が家康にはありました。それが家康への信頼につながっていったのです。

 逆に豊臣秀吉は、大盤振る舞いはするけど、思っていたほどの褒美がもらえず不満をもつ人も多かった。このあたりに、豊臣政権が短命に終わり、徳川政権が長続きした理由があるかもしれません。 』

 

 『 さらに、この時代の中国では、義侠、今の言葉で簡単にいえば男気、のようなものが、行動原理として大きな影響力をもっていました。劉邦が多くの臣下を統率できた秘密も、この義侠にあったといってもいいでしょう。

 劉邦の尊敬していた人物に、斉の孟嘗君らと並んで「戦国の四君」の一人に数えられる魏の信陵君がいます。彼は三千人を超える食客を抱えていたことでも知られています。

 ある時、隣国の趙が秦に攻め込まれ、存亡の危機を迎えます。信陵君の兄の安窺(あんき)王は、同盟関係にある趙に救援を求められ、形ばかりの援軍を出すものの、強国、秦の報復を恐れて、積極的に戦いに加わらぬよう、将軍に言い含めていました。

 信陵君はこの義侠心に悖(もと)る行動に怒った。援軍を率いていた将軍を殺し、自分自身が将軍となり秦と戦ってしまうのです。結果は、信陵君の率いた魏軍の大勝利でした。

 このできごとを知って世間は大喝采をします。この義侠心と軍事的才能を兼ね備えた信陵君を理想としたのが劉邦でした。

 自分は信陵君のような名門の出身ではないけど、いつの日が、”弱きを助け、強きを挫く”ような人間になりたいと考えたのです。

 実際に劉邦はやむなく沛公という地方官になり、挙兵して叛乱の第一歩を踏み出してからも義侠の道を貫きます。

 そして、劉邦の名前が世間に広がっていく過程では、「沛公は、自分の利害で軍を動かさない義侠の人だ」という評判が立ちました。

 そんな劉邦だからこそ自分の将来を託そうとする人が集まってくることになります。義侠によってその勢力は拡大し、義侠によって最大の声望を得たのです。

 多くの人材が集まってきたら、こんどはそれを使わなてはなりません。その点、劉邦の人材登用法も非常に面白いものです。

 突然、どこからか現れた人物でも、「これは使える」と判断すれば、驚くほどの大抜擢をしています。名軍師、張良もそうでしたし、先ほど名前を挙げた韓信もそうです。

 なぜそれができたのか。私は、劉邦が儒教の考えにとらわれていなかったことが大きいと考えています。組織を整理整頓し、効率よく運営するには、儒教の儀礼や思想は大変便利なものです。

 老荘思想の無為自然では、ともすれば組織はばらばらになってしまいます。しかし、儒教には組織を硬直化させる要素があります。

 経書を暗記した秀才ばかりが要職に就くと、保身や先例主義がはびこる。日本でも徳川幕府が朱子学を重く用いたことで、組織が硬直化してしまいました。劉邦はそのことを感覚的にわかっていたのかもしれません。

 ただし、極端な抜擢人事は、組織の中で軋轢を生みます。張良や韓信が抜擢されるのを見て、挙兵時から仕えている簫可や曹参たちが不満をもったのも当たり前のように感じます。

 しかし、彼らは文句をいわなかったであろうし、本質的には自分たちの方が、信頼されていると自信をもっていたと考えられます。

 劉邦は挙兵間もない時点から、良い人材が見つかるとすぐに全部任せてしまうのが特徴でした。彼らはずっと、その人材がまちがいなく活躍するのを目の当たりにしてきました。理由はよくわからなくても、劉邦がそうすることで組織がうまくゆくことを身体で知っていたともいえます。

 劉邦の人材活用術でもうひとつ重要なのは、大まかなことを決めたらあとは将軍たちに任せてしまう度量があることでしょう。こうしたやり方のおかげで、将軍たちが育っていった。

 任せることは組織の成長度を早めることになります。劉邦は臣下の能力の限界がわかっていて、その限界より少し難しい仕事を与えて任せてしまう。それが成功した時、その臣下はグッと成長するのです。

 失敗したら口では大いになじるものの、けっして罰しないのが劉邦です。失敗は人を育てます。劉邦は生涯で何度負けたかわからないほど、失敗続けましたが、諦めずに人に任せ続け、最後に勝利しました。

 一方で、勝ち続けた項羽は、人の失敗を許すことができず、最後に敗れて滅んだのです。 』

 

 『 その項羽について考えてみます。敗者である項羽は後世の歴史では分が悪い存在です。頑迷な殺戮者のように取られることも多い。

 しかし、史料を読む限り、部下のに対する優しさや思いやりがないわけではなく、単なる殺戮者として切り捨てられる存在ではありません。

 彼と劉邦を分けたのは何なのでしょうか。秦との戦いが始まって後、項羽と劉邦は協力して軍を進めました。そして、秦の都、咸陽は、項羽ではなく劉邦が落としました。

そこで劉邦は、寛容に振る舞い、宮殿などを手つかずのまま残していました。ところが、後から現れた項羽は、徹底的な破壊を行います。宮殿には火が放たれ延々と燃え続けした。

 なぜ、項羽がこのように無意味な破壊をしたのでしょうか。ある時、これが楚人のもっていた恨みなのだと気が付いたとき、項羽という男がわかった気がしました。

 項羽は楚の出身です。かって楚は秦から苛め抜かれ、ついには無残に滅ぼされてしまいました。項羽が負わなければいけなかったのは、楚人がもっていた積年の恨みだったのです。

 「われは秦の威陽を焼いている。楚の人々よ、この炎がみえるか!」と項羽は思っていたに違いありません。楚の人々に見せつけるためにだけ都を焼いていたのです。

 つまるところ、項羽は楚の人々としか会話をせず、彼らしか見えていなかたのです。楚の人にだけ、拍手をしてもらえば、他の国の人の評判など気にしなかたのです。特定の仲間にしか向けられない優しさや思いやり、それが項羽の手から天下が零れ落ちた理由ではないか思います。

 そんな項羽が、劉邦と天下を争うことができたのは、ひとえに彼の個人的な強さでしょう。威陽陥落のかなり前に、項羽は戦略的に難しい鋸鹿という場所へ派遣されます。

 この地で項羽は、五十万を超える秦軍と向き合いました。項羽軍の兵力は記録されていませんが、三万から五万のあいだくらいだったと考えられます。

 普通でしたら勝てないはずのこの戦いに項羽は勝利しました。しかも、何の策もたてずに、とにかく突撃を繰り返して、十倍以上の敵を粉砕した。

 項羽軍も、ただひたすらに攻める。ようするに眼前の敵だけを殺せばいい。敵が消えたら次の敵、これを繰り返していけば、自ずと勝利すると考えていたでしょう。

 「孫子」の兵法には、敵が意識しないところ、守備の薄いところを突けと書いてあります。策とは相手を驚かせて、混乱させることに意味があります。しかし、もし項羽に対してそのような策を弄しても、まったく意味がない。

 項羽軍は目の前に現れた敵をただ攻撃する軍団ですから、伏兵がいても、驚きもしないでただただ向かっていくだけなのです。それだけ強くても、最後は敗れた。ここに、歴史の教訓があります。 』

 

 『 最初に、以前は劉邦のことがあまり好きではなかったと書きました。そのわけは、天下を二分するという講和が成った直後に、劉邦が項羽を裏切ったことがあります。

 秦を倒した後、戦争状態に突入した二人は、広武山というところで長期のにらみ合いに入ります。しかし、なかなか決着がつかず、お互いに長陣に疲れ、ついに講和します。

 天下を二つに分けて、お互いにそれぞれの領地に戻ろうとします。ところが、項羽が撤退を始めたその時、劉邦は約束を破り、項羽を攻撃したのです。裏切られた項羽軍は散々に敗れ、やがて垓下の戦いで項羽は滅びます。

 あれだけ義侠と男の約束を大切にしていながら、最後の最後、最も肝心な時にその心を忘れたのではないか。その点が、私がどうしても劉邦を好きになれなかった理由です。

 しかし、史料を読み、劉邦の義侠について想いをめぐらす中で、考えが変わりました。劉邦はこのとき、「自分と項羽で天下を二つに分けて統治すればいい」と心底思っていた。

 劉邦とはそういった信義のもち主だったことは間違いありません。ところが、劉邦の臣下たちはそれで納得をしなかった。

 特に張良は「いまは食料もなく勢いがないから項羽は講和に応じただけで、時が経ち勢いが戻れば必ず約束を反故にして攻撃してくるはずです。どうせ守られない約束ならば、いま、有利なうちにこちらから先に攻撃を仕掛けよう」と考えていた。

 張良は物事を冷静に見極める名軍師のように言われていますが、実際は少し違います。親兄弟を秦に殺され、主君として仕えた韓王成も項羽に殺されていたのです。

 その恨みを晴らすために戦っていたのです。それほどまでに、すさまじい怨念を持った張良の進言に、劉邦はノーといわなかった。

 劉邦はこの時、部下たちの案を受け入れ、責任はすべて自分が引き受けようと腹を据えたのだと思います。自分の名誉や利益の為ではなく、臣下たちが望んでいる姿になるように、行動しようと考えた。

 たとえ世間から悪人や卑怯者の誹りを受けても、臣下のために堪えようとしたのです。劉邦の義侠はそれほど徹底したものだったのです。そう気がついたとき、劉邦を嫌う気持ちはどこかへ消えてしまいました。 』

 

 最後に、現代のリーダーの条件として、本文の活用方法を書きたかったのですが、劉邦と項羽の二人の指導者と比べると、私利私欲、こずるさ(狡い)が、見え隠れし、官民の大きな組織は、保身、先例主義、硬直化が活力を削いでいます。

 日本の法律も二、三百の法律が、付け足し、付け足しで輻輳し、一般市民は、全体像を捉えられず、法律にからめとられる法的不安定性を孕んでます。

 組織のリーダーとして、劉邦がベストであるが、劉邦のように筋を通し、私利私欲に走らないリーダーと、張良のような臣下のいる組織には、非常な幸運がなければ、入れないでしょう。

 私が、生存する日本人でベストのリーダーを挙げれと問われれれば、緒方貞子と黒柳徹子をあげます。私が言えることは、人に使われることも、難しいこですが、人を使うことは、更に難しいことのようです。 (第88回)