チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター「岳飛伝 十四」

2016-01-17 15:05:22 | 独学

 101. 岳飛伝(十四)激撞(げきとう)の章  (北方謙三著 2015年8月)

 本書は、水滸伝全19巻、楊令伝15巻の続編として書かれている岳飛伝14巻目の一部です。読者の皆さんは、水滸伝も楊令伝も読まれてないと思います。

 本来であれば、水滸伝、楊令伝 、岳飛伝のあらすじと登場人物についての解説をしてから、これからの部分を読んでもらうべきですが、これらの事をすべて省略して、北方謙三の中国時代小説の面白さが伝わるかどうかの試みです。まず侯真(こうしん)が王貴(おうき)に報告する場面から始まります。

 

 『 「北に行って、王清は働ける?」  「本人が、やる気があるなら……。逃げているのだ。生き抜こうという気はあるだろう。能力は、そこは王貴殿の兄弟さ。体術の腕も立つ。なにしろ、子午山で、あの燕青(えんせい)殿のそばにいたのだからな」

 「燕青殿は、あんたの師でもあるだろう」  「武松(ぶしょう)殿と燕青殿さ。この二人とした旅は、俺の躰に、まだしみついているよ」  「楊令殿を、捜す旅か」

 「そうだよ。あの時、なぜみんな楊令殿を求めたのだろうか」  「誰も、頭領になりたくなかったからだ、と俺は李俊(りしゅん)殿に聞いたな」  「そう言ってしまえば、それだけのことだが」

 侯真が、瓢(ふくべ)の酒を一度呷(あお)った。こうして、酒を持ち歩くようになったのは、いつのころなのか。

 「ひとつだけ確かめておくが、王貴殿の、王清に対する気持ちは、どれくらいなのだ。やはり、兄弟の情か」

 「兄弟であることは、確かだ。幼いころ、一緒に育った。俺は、王清より、すべてのことで勝っていた。しかし、あいつは本気をだしていないことも、どこかで気づいていたよ。兄弟としての情はあっても薄いのかもしれん。梁山泊(りょうざんぱく)に背をむけようとばかりするあいつが、ゆるせなかったのかもしれん」

 「いまは?」  「あのころ、俺が絶対だと思っていた梁山泊は、もうないのだ。いや、ひとりひとりの心にある、ということだな。宣凱(せんがい)や俺が、まずそう思い定めようとしている。張朔(ちょうさく)は、海で生きるつもりのようだしな。王清も、生きたいように生きればいいのだ、梁山泊聚義庁にいる俺と兄弟であることで、いささかつらい思いをさせるかもしれないが」

 「わかった。張朔の心づもりは、十三湊で瓊英(けいえい)殿の代りをさせよう、というところにあると思う。五郎は、日本に置いておくと、殺されるかもしれんし」

 「それでいい、そこに生きる道があるのなら」 侯真がかすかに頷いた。 午(ひる)を知らせる鉦が、打たれている。 王貴は、崔蘭(さいらん)が持たせた料理を、卓に出した。

 「このところ、酒を飲む姿しか見ていない、侯真殿。一緒に食わないか。食っている姿も、見てみたいよ」  「奥方の料理か」  侯真は、瓢を一度呷ると、饅頭を二つに割り、煮込んだ肉を挟んで食い始めた。

 「ところで、調べはついたのか、侯真殿?」  「なんの?」  「胡土児(コトジ)さ。兀朮(ウジュ)の養子の」  「俺がそれを調べていると?」 「北へ行く回数が多い。このところ、侯真殿だけでなく、金主まで調べはじめているようだ」

 「そうか。はっきりするまで、誰にも言わないつもりだったが、まわりからわかってきてしまうものか」 侯真は、饅頭を食ってしまい、指を舐めた。

 「楊令殿の息子だ。間違いない、と俺は思っている」  聚義庁に入ってくる情報には、金軍のものも少なくない。胡土児という男が、いきなり兀朮のそばに現われ、しかも養子だった。その過程ははっきりしないが、自然ではなかった。なんらかの理由で、兀朮は胡土児を養子にしたのだ。

 「楊令殿の息子が、梁山泊と闘っているのか。皮肉なものだ」  「胡土児は、知らんよ。なにか感じているかもしれないが。関係ありそうな人間は、みんな死んでいる。ただ、会寧府の北の村で、一緒に遊んでいたやつなどはいるのだ」

 宣凱と王貴が、胡土児のことを楊令の息子かもしれないと思いはじめたのは、謎に包まれる必要もない人間が、謎に包まれ、しかも武将ではなく、兀朮のそばに居続けているからだった。そして、年齢が、楊令が北にいた時と符合した。

 「胡土児は、兀朮が父親だと思い定めている。いろいろ感づいても、気にしていないと思う。自分の血に、負けるような男ではないな」  「会ったのか?」  「爪のかたちが、そっくりだった。楊令殿と」  「息子だとしても、いまさらどうしようもないな」

 「兀朮の方にも、息子に対する感情があるような気がする」  「吹毛剣(すいもうけん)を」  「どこにある?」 

 「聚義庁に保管されている。それだけは、胡土児に届けるべきでないかな。正直に言うと、やがてあの剣は、聚義庁の重荷になりかねない、という気がするのだ」

 「なんとなく、わかるような気もするが」  「誰が、なんと言って届ければいいのかな」  「戦の前が、いいだろうな」  「そうかな」

 「春の戦について、羅辰(らしん)と話してみた。兀朮の、金主に対する愛情も、あるとしか思えないのだ。金主と胡土児は、複雑な関係になりそうだぞ」

 「俺は、南から北上してくる秦容(しんよう)殿の軍を、どう援護するか、その策を講じなければならん、この役は、統括だな」

 「王貴殿も、統括と呼ばれている。知らないわけではあるまい」 頭領ではない、という意味での統括だった。何人いてもいいのだ。

 「それにしても、北でも南でも、戦か」  「一度、中華を底の底からかき回す。濁るだけ濁らせて、宣凱と俺は眼を凝らすのさ」

 「死人が、多く出るだろうな」  「これまでに死んだ人間の数と較べると、わずかなものだと思う、侯真殿」

 「俺が、酔って独り言を呟いているようになったら、任務からははずしてくれ」  「いまの任務からは。致死軍よりいくらかつらい任務を、宣凱と俺は、智恵を搾って考えるよ」

 侯真が、ちょっと首を振った。それから、昼食の礼を言って出て行った。やるべきことは、いくらでもあった。隣り同士の部屋にいるのに、宣凱に会えたのは、夕方になってからだった。

 王清のことを伝えた時は、宣凱は黙って聞いていた。しかし吹毛剣を胡土児に届ける話になると、色をなした。

 「なぜ、私なのだ?」  「それは、統括だからだ」  「おまえも、統括と呼ばれているではないか」  「先任の統括ではないか。おまえ以外に、この役を果たせる人間はいない」

 「待てよ、王貴」  「俺は、おまえの要請で、聚義庁に入ることを肯(がえ)んじたのだ。悩んだが、ほかならぬおまえの要請だ。俺はそれについて、文句は言わなかった」

 「おまえでなく、張朔に要請すべきだった」  「やつは、いつも海の上だ。それに、やつも俺と同じことを言っただろうと思う」 宣凱は、しばらく黙りこんでいた。

 「それにしても、いまこの時に、楊令殿の息子か」  「めぐり合わせを、なぜなどと考えるなよ、宣凱。いつかはっきりするだろう、と俺たちは思っていた。しかし、すでにはっきりしていると、心のどこかで感じていたさ」

 「そうだな」  「おまえ、楊令殿が好きだったろうが。少なくとも、俺より親しく接してきたはずだ。やはり適任だ。俺も一緒に行きたいが、二人して聚義庁を空けるわけにはいかん」

 「私が、やらなければならないのか」  「いやなら、吹毛剣はおまえが持っていろ」  「酷いことを言うなよ、王貴」

 「ほかに、言いようはない」  「嵌(は)めたな、侯真殿と二人で」  「ひとつだけ、逃れる方法があるぞ、宣凱。おまえと同じくらい、適任の人がいる」

 「史進殿か?」  「あの人に頼む度胸があるなら、おまえ、頼んでみろ」  「鉄棒で、殴られるな。そして、口からはらわたを飛び出させる。私の、そういう姿を、おまえは見たいのか?」

 「ほんとうの話、適任は史進殿だろう」  「私もそう思う」  「二人で、頼みに行こうか」  「おう。おまえはやはり、私の友だ」

 呼延凌(こえんりょう)にまず話を通して、できれば一緒に行って貰う。王貴は、一瞬だけそう考えた。呼延凌に蹴り倒されそうだ、と思った。呼延凌の拳は、不意に飛んできて、避けきれないのだという。王貴は、これまでに一度も打たれたことがなかった。

 さまざまのことを、冷静に話し合って決めてきた。二人だけで、時には七、八人で、多い時は十数人で。曖昧な意見は許さなかった。

 曖昧なものが膨らんで、手に負えないほど大きくなるかもしれないからだ。可能なかぎり、曖昧さを排除して、すべてをわかりやすくしておく。

 宣凱も王貴も、死力を尽くしていた。その先にあるのは、死や不名誉かもしれないが、いま、確かに誰よりも生きている。しかし、史進にものを頼むなどということになると、若造にもどってしまう。

 「ほんとうに、一緒に行ってくれるな、王貴」  「ああ」 外は、暗くなっていた。聚義庁の明かりも、まだ消えない。 』

 

 『 全身に、粟がたった。なにか、とてつもないものが近づいてくる。そんな気がした。胡土児は馬上で、剣の柄(つか)に手をやった。しかし、抜かねばならないような、害意は感じられない。

 騎馬隊である。その姿が、次第にはっきりしてきた。血に塗(まみ)れている。そう思った。部下たちも、縛られたように硬くなっている。

 赤い色の正体が、見えた。赤騎兵である。なぜだ、とは考えなかった。ただ、赤騎兵が近づいてくる、と思っただけだ。開封府(かいほうふ)から、それほど大きく外れていない東の原野だ。胡土児の隊の野営地は、四里ほど西だった。

 赤騎兵が、ずらりと並んだ。二百騎。胡土児の隊と同じだった。二騎が、前へ出てくる。九紋竜史進(くもんりゅうししん)。じわりと、全身に汗が出てきた。胡土児は部下を制して、一騎だけで前に出た。

 史進についているもう一騎は、具足をつけておらず、侯真という名の男であることはわかった。史進の横では、消えてしまいそうに見える。史進と、むかい合う格好になった。じっと見つめてくる史進の眼を、胡土児はなんとか見返していた。

 「戦に来たのではない」 史進の声は、低く落ち着いていた。 「赤騎兵を伴っているが、あいつらは俺自身のようなものでな。なにをやっても、離れることがないのだ」

 動いている赤騎兵しか、見たことはなかった。それも、信じられないような速さで駆ける、赤騎兵だ。赤い塊は、戦場では巨大なけもののように思えた。血に塗られた、いるはずのないけもの。

 「胡土児。おまえとは、戦場でしか見(まみ)えることはない、と思っていた。こんなふうに会うのも、悪くない。俺は、いまそう思っている」

 「俺は、はじめて史進殿を見て、はじめてその声を聞きました」  「戦場で、会っている」  「あれは、史進殿であって、史進殿ではありません」

 「どういうことだ?」  「こわくないのです。とても緊張していますが、恐怖はありません」 史進が、声をあげて笑った。 「眼の前にいるのは、ただの老いぼれか」

 「史進殿です。いま見えているのが、史進殿です」  「胡土児、おまえはつまらんことを言うな」  「申し訳ありません」  「話が、できるか?」  「もう、話しています」

 「ほんとうに、つまらんことを言う。部下だったら、蹴り倒しているぞ」  「俺は部下ではありませんが、一度ぐらい、蹴り倒されたいという気もします」

 「話だ、胡土児」  「わかりました。俺の野営地に来られますか。そこなら幕舎がありますし、焼けた鹿の肉などもお出しできるのですが」

 「腹は減っているが、めしを食いに来たわけではない」  「話ですね。ここでよろしいでしょうか?」  「腰を降ろすと、気持ちのよさそうな草だ」 

 史進が、身軽に馬から降りた。胡土児も、慌てて降りた。草の上に腰を降ろし、史進は横を指さした。並んで座る、という恰好になった。

 「梁山泊の若造どもは、度胸がない。呼延凌までだ」  「戦場では、度胸の塊のように見えます」 

 「つまらん話だが、年寄りの俺に持ち込んできた」 胡土児は、ただ頷いた。史進と並んで、腰を降ろしているのだ。

 「剣を、ひと振り届けに来た」  「頂戴いたします」  「おい、少しは驚け。理由ぐらい訊け」

 「いつか、誰かが、剣を届けに来る。その時は黙って受け取れと、といわれました」  「誰に?」

 「金軍総師にです。いや、父に」  「兀朮殿が、そう言ったか」

 そう言った。そんなことがあるのかと思ったが、ほんとうに届けられたようだ。それも、九紋竜史進によって。

 史進が、黙って袋に入れられた剣を差し出した。頭を下げ、胡土児はそれを受け取った。強い気配のようなものが、一瞬、剣から伝わってきた。

 胡土児は、それをいま見ていいものかどうか、迷っていた。しかし、手だけは動いている。気づくと、袋から剣を出し、鞘を払っていた。

 拵(こしら)えなどには、眼はむかなかった。鈍く白い刃(やいば)の光が、不意に胡土児を縛りつけた。吸いこまれているのだろうか。撥ね返されているのだろうか。剣が、じっと自分を見つめている、と胡土児は思った。

 「吹毛剣という」 史進の声が、遠くから聞こえたような気がした。

 「英傑の血を受けた者に、返すだけだ」 ようやく、意志の通りに、手が動いた。鞘に納め、袋に入れた。

 「会えてよかった、胡土児」  「行ってしまわれるのですか、史進殿」 

 「おまえは、なにも言わずに受け取った。それでいい」 史進が立ちあがり、胡土児も立った。

 馬にむかって歩いていく史進の背を、胡土児は黙って見つめていた。赤騎兵が、一斉に馬首を回した。史進と、赤騎兵が駆け去っていく。侯真ひとりがぽつりと残っていた。瓢を持ち、酒を飲んでいる。

 「飲まなきゃ、いられないな。俺は、滑稽としか言い様がない役回りだった」 侯真が、また瓢を呷った。

 「その剣の謂(いわれ)について、説明しなければならないので、強引についてきた。あの人は、俺などはじめからいないように、ただ駆けていたよ。あの人は、言葉が少ない。俺が、説明しなければならないだろう、と思ったのだ」

 「語ってくれた。実にさまざまなことを。雄弁な人だった」

 「まったくだ。この歳になっても、俺は言葉がないと落ち着けない。落ち着ける人間がいるのだということが、痛いようにわかったよ」

 胡土児は、袋に入った剣を、脇に抱えるように持っていた。もう、気配らしいものはなにも伝えてこない。

 「俺も、消えるよ、胡土児殿」  「見送ろう、風になることはないぞ、侯真殿」 侯真は、馬のところまでゆっくりと歩き、胡土児を見て一度笑うと、駆け去った。

 調練の予定は、あと二日残っていた。何事もなかったようにそれをこなし、胡土児は部下を率いて、開封府郊外の軍営に戻った。沙歇(さけつ)に、帰還の報告をした。軍営は、いつもと変わりはない。

 袋に入った剣を持ち、本営に行ったのは陽が落ちてからだった。営舎に入る時、胡土児は海東青鶻(かいとうせいこつ)の旗を仰ぎ見た。階(きざはし)に足をかけると、衛兵が直立した。

 「入ります」 声をかけ、胡土児はじっと立って待った。入れ、としばらくして返答があった。

 兀朮は、具足を脱いでいた。卓には、開封府周辺の地図が、拡げられている。そこで戦がある、とでもいうような感じだ。

 「九紋竜史進に会ったそうだな。赤騎兵が、遠くからだが、目撃されている」  「俺に、会いに来られました」

 「その剣が、届けられたのか」  「はい」  「おまえに、言い渡すことがある」

 兀朮は、一度、眼を閉じた。そうすると、ひどく歳をとっているように見える。胡土児は床に眼を落とした。

 「北に行き、耶律越里(やりつえつり)の指揮下に入れ」 これから、梁山泊との戦だった。北に行くということは、その戦からはずれるということだ。

 「納得できなくても、行け」 耶律越里は、病だった。長い病で、快方にむかってはまた悪化する、ということをくり返していた。そのたびに、少しずつどこかが冒されている、と斜律里(しゃりつり)の書簡にはあった。実際の指揮官は、斜律里だろう。

 「耶律越里は、冬を越せまい」  「どうしても、ここにいてはならないのですか?」

 「これは、軍令だ。いや、俺の頼みだ」  「父上、俺は父上の息子です」

 「そうだ。北へ行っても、それは変わらぬ。終生、変わることはない」  「父上とともに、戦をすることは許されないのでしょうか?」

 「俺の息子であると同時に、幻王楊令の血を受けている。それが、おまえだ」

 「完顔成(かんがんせい)殿が、俺をよく見に来られました。弟を訪ねるふりをして、俺を見に来られていたのだと思います」

 「おまえは、自分の血に気づいていた、というのか?」

 「なにか、不思議だっただけです。ほかの子供には見むきもせず、俺だけをそばに呼んで、いろいろと話されました」

 「おまえの躰に流れる血を与えた男に、会ったことがあるだろう。虎より弱い人間が、なぜ虎に勝てるのか、幼いおまえに教えようとした男だ」

 「俺の躰にその男の血がながれていたとしても、俺の心には、父上の血が流れています。戦人である、兀朮の血が」

 「俺も、そう思っている」  「そばにいさせてください、父上」

 「ならぬ、吹毛剣で、梁山泊の人間を斬ってはならぬのだ。それをやれば、おまえは人でさえなくなる」

 「望むところです」  「俺は俺の息子に、人でいて欲しいな」 兀朮の眼から、水が流れ落ちてきた。涙だとは、思わなかった。ただの水だ。

 「父上、お願いします。北の戦線は、斜律里の指揮で、十分に維持できます」

 「おまえが、斜律里のために剣をひと振り用意すると言った時から、こういう日が来るだろうと思っていた。剣とは、まことに厄介なものでな」

 「この剣は、捨てます」

 「できるか、おまえにそれが。宋建国の英雄、楊業(ようぎょう)が、自らの命をかけて、打った剣だ。一緒に打った鍛冶は、打ち終わった時に死んだと言うぞ」

 「捨てられます。思えばただの剣にすぎません。この場で、叩き折ることもできます」

 「俺の片脚を落とした剣だ。岳飛(がくひ)の右腕を落とした剣でもある。それをおまえは、叩き折ると言うのか?」

 「この剣がなければ、父上は俺を、息子のままでいさせてくださいます」

 「この剣があろうとなかろうと、おまえは俺の息子だ。それは忘れるな。おまえが息子と思える自分が、俺はいとおしいほどだ」

 「ならば、せめて戦の時だけでも、そばにいさせてください」

 「ならぬ。これは、父と子の約定だ。破れば、父子(おやこ)の縁が切れるぞ」

 「俺にわかる理由を言ってください」  「陛下だ」 兀朮は、また眼を閉じた。

 「というより、俺の甥だな。あれは、俺に息子がいることを、許しておらん。虎坊党(こぼうとう)を遣って、おまえの動静を調べあげている。史進の赤騎兵がおまえのところに行くのを見ていたのも、虎坊党の者たちだ」

 「俺には、なにほどのこともありませんが」

 「剣で、殺しに来ると思うか。弓矢で狙うと思うか。毒もある。もっと陰惨な、謀略もある。俺はいま、そういう思いから烏禄(ウロク)を守るだけで、精一杯だ」

 「俺が、海陵王を斬ります、この剣で。そして、この地に新しい国を建てればいいのです」

 「そうやってできた国は、そうやって潰れる。俺の親父は、遼(りょう)という国を相手に、女真(じょしん)族を率いて闘ったのだ。そうして、国を建てた。これは大事なことなのだ。海陵王を斬ることは、俺の親父をおまえの祖父を斬ることと同じだ」

 「わかりません」

 「俺も、海陵王については、わからないことがしばしばある。俺にかわいがられたいと思いながら、俺を憎んでもいる。そして、そういう自分を持て余してもいるのだろう」 兀朮が言っていることは、理解していた。しかし、頭でだけだ。

 「明日、北へ発て、胡土児」  「そんなに」

 「しばらくは、会寧府より南に来ることを禁じる。軍令よりも重いぞ。父として、禁じているのだ」 兀朮は、決めていた。胡土児がこの剣を手にした時、そうしようと決めていたのだろう。決めたことを、覆したことはない。

 「俺の身勝手で、おまえの人生をかき回してしまった。それでも、おまえは、俺の息子だ」

 「父上は、俺の誇りです」  「行け、胡土児。三年は、会寧府から南へ来るな」 兀朮は、一度も吹毛剣を見ようとはしなかった。外に出ると、沙歇が立っていた。

 「総師は、俺が絶対に死なせん」  「沙歇殿は、すべて御存知だったのですか?」

 「おまえを北にやる、と総師が決められた。おまえの隊の代りに、手足のように動く二百騎の隊を、調練された。本気なのだと思っただけで、おまえが北へ行く理由はしらない」

 「父を、よろしくお願いします、沙歇殿。三年経ったら、帰ってくるつもりです」 並んで、歩いていた。自分の営舎のところで、沙歇は止まった。胡土児はむき合って一度頭を下げ、それから自分の営舎に向かった。

 早朝に、出発した。 ただの出撃というかたちで、見送るものはいない」 』 (第100回)