177. 五峰の鷹 (安倍龍太郎著 2013年12月)
私は始めて、安倍龍太郎の小説を読んだのですが、小説家は通常文系の作家によって書かれるため、科学技術的記述は、少ないものです。
本書の肝の部分は、ポルトガルから伝来した鉄砲と弾薬を日本人の手によって、造られる話です。私も、鉄砲を日本人が見て、刀鍛冶の技術があったから、つくることができたと思っていました。
鉄砲や弾薬を造るには、国外から調達しなければならない原材料や完成品とするために技術と技術者と富を集積することが、必要であったと書かれていました。
さらには、著者は久留米高専(機械工学)の出身であることを知って納得しました。では、ほんの一部ですが読んで行きましょう。
『 清十郎もそれにならった。いつの間にか酒を楽しむ余裕ができていた。「王烈、わしが嬉しいのは、自分の考えを初めて他人の口から聞いたからだ」 「さっきの火薬の話か」
「そうだ。わしがポルトガルのならず者どもを種子島に連れていったのは、あの島を鉄砲と火薬の生産拠点にするためだった」
王直(おうちょく)はマカオで知り合ったフランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ダ・モッタ、アントニオ・ペイショットの三人を天文十一年(1542)八月に種子島に連れていった。
倒産した商人や軍隊から脱走した野心家たちで、何とか起死回生の仕事はないものかと血眼になっていた。
そこで三人に、ポルトガルの優れた鉄砲と弾薬を種子島の領主である種子島時堯(ときたか)に売らせようと、ジャンクに乗せて島に案内したのである。
「種子島では昔から刀鍛冶が盛んだった。その技術を生かせば、鉄砲を作ることなど簡単だ。硫黄もとれるし木炭もあるので、硝石さえ持ち込めば火薬の生産もできる。しかも九州本土の間近にあるのだから、日本進出の足がかりにするにはもってこいだ」
王直は種子島をたずねるたびに、ここを鉄砲と火薬の生産拠点にしたいと考えていたという。「それならどうして、ご自分で鉄砲を伝えなかったのですか」清十郎はそうたずねた。
「できればわしもそうしたかったさ」 王直はゆでた豚足に目がないようで、骨を派手に床に投げ散らかしながら次々と平らげた。
「だが我々は明国の法を破り、倭寇と呼ばれているならず者だ。長期的な信用を得ることができないし、公の場に立つこともできない」
種子島を鉄砲や火薬の生産拠点にするには、種子島時堯ばかりか彼の主人である島津家の了解をえなければならない。ところが島津家は古くから琉球を通じて明国と交易しているので、明皇帝の要請があれば王直らを取り締まりに乗りだすおそれがあるというのである。
「もし明国が時代遅れの海禁策を改め、我らの活動を支援してくれるなら、何万貫もの銀を皇帝に献上して国の発展につくすことができる」
だが、明国の高官は誰もこのことを分かっていないし、世界の動きも見えていない。王直は腹立たしげにつぶやいて紹興酒をあおった。
「それでポルトガル人を表に立てようとなされたのですか」「種子島時堯どのに近付くきっかけにしたかったのだ。彼らを連れていけば、新しもの好きの日本人はかならず飛びつく。
鉄砲も西洋のものだと言った方が有難がる。わしは彼らを船で案内する役に徹し、様子を見ながら時堯どのに接近しようと思ったのさ」
まるで処女のような奥ゆかしさだろうと、王直はお夏の尻をなでてからかった。結果的にこの戦略は成功した。王直はその後もマカオから何人ものポルトガル人を案内し、鉄砲の生産技術を種子島家の者たちに教え込ませた。
そうして生産工場を作る際には時堯に資金を援助し、火薬の原料である硝石を安定的に供給する契約を結んだ。
「水を飲む時には井戸を掘った者のことを忘れるな。そんな諺が舟山にある。鉄砲を日本に伝えたのはポルトガルの下司野郎どもだが、お膳立てをしたのはこの王直さまだ」
「それにしては、あまり楽しそうでは在りませんね」「楽しいさ。豚足も酒も旨い」「八つ当たりでもするような飲み方ですよ。なあ三郎」「親父は常に哀しみを抱えている。俺には何故だか分らぬが」
三郎は淋しそうに肩をすくめた。その仕種に王直に寄せる思いがにじみ出ていた。「わしは翼をもがれた蜂熊鷹(はちくま)だ。もし明国が海禁策を改めて後ろ盾になってくれるなら、干支がひと回りする間に日本を手に入れてみせる。その方法はさっき雛鳥が言った通りだ」
種子島を鉄砲と火薬の大生産地にして、日本の有力大名に売りまくる。鉄砲がなければ戦争に勝てない時代がくるのだから、大名たちは先を争って買い求めるし、鉄砲の自主生産も始まるだろう。
だが硝石だけは日本に産出しないのだから、その輸入経路を押さえておけば、大名たちは巨額の銭を払って買いに来るようになる。誰に売るかを決めることで戦の勝敗を左右し、これぞと見込んだ大名を天下の覇者に育て上げることもできる。
「わしはその大名の上に立って日本国王になり、明国皇帝の僕になる。そうして世界の海へ乗り出していくのだ。あの南蛮人どものようにな」「それでは鉄砲十挺を売ることを、許してもらえるのですね」
清十郎はこの時とばかり念を押した。「許すとも。ただし、自分で種子島まで買いに行け。お前が稼いだ銀五貫目を、元手として使うがよい」
王直は硯箱を運ばせ、種子島時堯あての紹介状を書いた。風格のある堂々たる漢文の最後に、徽王(きおう)王直と署名して朱印を押した。
東南アジア貿易圏を手中にした王直は、出身地の安徽省(あんきしょう)にちなんで徽王と称していたのである。翌日、清十郎は王直とともに五島の福江まで行き、小型のジャンクに乗りかえて種子島に向かった。
いつものように三郎とお夏が供をしている。銀五貫目も木箱のまま積み込んである。これで何挺の鉄砲が買えるか見当もつかないが、清十郎は鉄砲伝来の島を目前にして期待に胸をおどらせていた。 』
『 種子島は大隅半島の南東、およそ四十キロに位置している。南北は五十七キロ、東西はいちばん狭い所で約六キロの細長い島である。
島全体が低くなだらかで、もっとも標高の高い所でも二百八十二メートルしかないので、海上からは平らかな台のように見える。
清十郎らがこの島に船をつけたのは、天文十六年(一五四七)六月中頃。戦国時代史の転機となった鉄砲伝来から四年後のことだった。
島の主要港は赤尾木(あかおぎ)、現在の西之表港である。ジャンクの水夫たちも三郎もこの島には何度も来ているので、水路も潮目も分かっている。西からの風に吹かれて港にやすやすと船をつけた。
「やさしか島ね。五島とはだいぶちがう」お夏は平坦で緑豊かな島をそう評した。なだらかな海岸に寄せる波もおだやかで、岩場が多く人を寄せつけない厳しさがある五島とは雰囲気がちがっていた。
「島の者たちはここを女島、隣の屋久島を男島と呼んでいる」 三郎がぼそりとつぶやいた。屋久島は二千メートルちかい山々が密集した険しい島である。平坦な種子島と並んでいるところは、夫婦が寄りそっているようだと、古くから言われてという。
帆柱には王直の船であることを示す蜂熊鷹の旗を掲げている。朱色の地に黄金の鷹をえがいた旗は遠目にも分かる。それに気付いた種子島家の家臣たちが、船着場に迎えに出ていた。
「三郎どの、よくお出で下された」 白いあごひげを生やした初老の武士が、うやうやしく頭を下げた。名を篠川儀太夫という。王直と硝石や鉛の取り引きをしている責任者だった。
「世話になる。この男が時堯どのに会いたいそうだ」 三郎はいつものように無愛想だった。 「こちら様は、どにょうな」 「福江十郎と申します」 清十郎は変名を名乗り、王直の紹介状を差し出した。
儀太夫は書状に目を通し、いぶかしげに清十郎を見やった。 「何か不審なことでも」 「いいえ、珍しい紹介の仕方をなさると思ったものですから」
儀太夫はそう言ったが、書状を見ていない清十郎には何のことか分からなかった。種子島時堯の城は、港にほど近い高台にあった。城の側まで水路を引き入れ、物資を積んだ舟が入れるようにしている。
二の丸の西隅に高々と見張り櫓(やぐら)を組み上げ、港に入る船の監視を厳重にしていた。時堯はあいにく接客中で、清十郎らは表御殿の対面所で待たされた。
時堯はこれを受け容れ、領内から刀鍛冶や金物細工師を集めて鉄砲の作り方を学ばせた。刀鍛冶は銃身を。金物細工師には火挟みや引鉄(ひきがね)などのカラクリを、そして篠川小四郎ら家臣数人は火薬の調合法を担当した。