新型コロナ巡る2つの陰謀説を徹底検証する
新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっている。3月24日までに米国やイタリアなど少なくとも20の国・地域の政府が非常事態や緊急事態を宣言している。
各国当局の発表に基づきAFP通信がまとめた統計によると、日本時間24日午前4時現在での世界の新型コロナウイルス感染者数は174の国・地域で36万1510人に達し、うち1万6146人が亡くなっている。
感染症が流行すると、必ず流れるのが陰謀説である。
陰謀説とは、社会の構造上の問題を、背後にひそむ個人ないしは集団の陰謀のせいにすることである(ブリタニカ百科事典)。陰謀説が真実であることは稀である。
SARSの時は、中国の急成長やアジアの人口増加を恐れた米国が起こしたバイオテロ*1
だとする陰謀説や新型インフルエンザのワクチンであるタミフルの売り上げを伸ばすため、米政府と製薬会社が共謀して感染症を広めたとする陰謀説が流布された。 また、エボラ出血熱を発症させるエボラウイルスは、CIA(米中央情報局)が開発した生物兵器*
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ではないかとする陰謀説が流布された。 さて、今回の新型コロナを巡っては、これまでのところ2つの陰謀説が流布されている。
一つは、新型コロナウイルスは、中国の生物兵器である、とするものである。
もう一つは、新型コロナウイルスは、米軍が武漢に持ち込んだものである、とするものである。
以下、2つの陰謀説の真偽について考察する。
*1=バイオテロは、細菌やウイルス、毒素などの生物剤を意図的又は脅迫的に投射・散布することによって、政治的・経済的・宗教的なパニックを引き起こすことである。(バイオテロ対応ホームページ厚生労働省研究班)
*2=生物剤が、国あるいは軍のレベルで開発され用いられた場合、一般的に、これを“生物兵器”という。小さなテロは病原体さえあれば可能である。
■ 1.2つの陰謀説には共通した背景
この2つの陰謀説には共通した2つの背景が存在する。
一つは、中国政府は、新型コロナウイルスの発生源はいまだ確定していないとしていることである。
中国国営新華社通信(3月15日)によると、習近平国家主席は新型コロナウイルスについて「病原がどこから来て、どこに向かったのか明らかにしなければいけない」と訴える論文を3月16日発行の共産党理論誌「求是」に寄稿している。
確かに、厳密にいえば新型コロナウイルスの発生源は科学的にいまだ特定されていない。これからの研究を俟たなければならない。
もう一つは、現在、覇権国・米国と新興国・中国の間で覇権争いが生起しているということである。
米中貿易摩擦も5Gを巡る覇権争いもこのような文脈でとらえるべきである。すなわち、米中間では武力によらない“戦争”が進行しているのである。
従って、米中両国には、相手国の国家機能を阻害し、国力の減退を計り、国際的地位の低下を求めようとする意思があり、かつその機会をうかがっていると考えても不思議でない。
そして、今回の新型コロナウイルスの感染拡大の責任をお互いに相手国に負わせてダメージを与えようとする策謀を巡らしていることも推測されなくはない。
上記2つの背景から、新型コロナウイルスを巡る陰謀説が流布されやすい情勢にあると言える。
■ 2.「中国の生物兵器」の真偽
本項では、新型コロナウイルスは、中国のウイルス研究所から漏洩した生物兵器であるという陰謀説の真偽について考察する。
今回の生物兵器説を最初に報道したのは米保守系マイナー新聞のワシントン・タイムズ紙であると報じられている。
1月24日付ワシントン・タイムズ紙は、元イスラエル軍の情報将校であるダニー・ショハムデル(Dany Shohamdell)氏の発言を引用しながら、次のように報じている。報道記事の原文と仮訳は次のとおりある。
「原文:Asked if the new coronavirus may have leaked, Mr. Shohamdell said: “In principle, outward virus infiltration might take place either as leakage or as an indoor unnoticed infection of a person that normally went out of the concerned facility. This could have been the case with the Wuhan Institute of Virology, but so far there isn’t evidence or indication for such incident.”」
「仮訳:ダニー・ショハムデル氏は、新型コロナウイルスが(研究所から)漏洩したかとの質問に対して、“原理上、外部への浸潤は、漏洩または知らないうちに感染した部内者が施設の外に出ることによって起こるかもしれない。このようなことが武漢ウイルス研究所で起こったかもしれない。しかし、これまで、そのようなインシデントの証拠あるいは兆候は存在しない”と述べている」(筆者作成)
ところで、この陰謀説が広まったのには、いくつかの状況証拠がある。
1つ目の状況証拠は、感染拡大の中心地である武漢市には世界有数のウイルス研究所「中国科学院武漢病毒研究所」があることである。
同研究所は、新型コロナウイルスの発生源とされる武漢の生鮮市場から約30キロの位置にある。これが噂に真実味を持たせたのである。
さらに、中国政府は、積極的な情報開示を行なわず、それどころか、新型コロナウイルスの発生源は中国とは限らないと、否定していることが噂に拍車をかけた。
2つ目の状況証拠は、上記ウイルス研究所に付属する「中国科学院武漢国家生物安全実験室」は、世界で最も危険な病原体を研究するウイルス実験室として広く知られている。
同実験室はP4ラボとも呼ばれる。P4ラボとは国際基準で危険度が最も高い病原体を扱えるバイオセーフティーレベル(BSL)の最高防護レベルを表し、高度に危険な研究やいまなおワクチンや治療方法が知られていない病原体を専門的に扱う研究施設を意味する。
3つ目の状況証拠は、中国は生物兵器を開発・保有する能力と意図を持っていると考えられていることである。
ワシントンのシンクタンク軍備管理協会によると、「中国政府は、自国で生物(細菌)兵器を製造したり備蓄したりすることはないと述べているが、米国によると、中国の生物兵器活動は広範であり、既存のインフラにより、病原体を開発、生産および兵器化することが可能である(https://www.armscontrol.org/factsheets/cbwprolif)」とされている。
上記の3つの状況証拠から、中国科学院武漢病毒研究所において新型コロナウイルスの研究が実施されていることと生物兵器を製造・保有している可能性は否定できない。
さらに、ウイルス(生物兵器)が同研究所から漏洩し感染を拡大した、あるいは部内者が感染に気がつかないまま、武漢の市中を出歩いて感染を拡大させた可能性も否定できない。
だが、ウイルスが研究所の外に漏洩したまたは感染した部内者が出歩いたという証拠(証言など)はどこにもない。
将来そのような証言が出てくるかもしれない。従って、筆者は、この陰謀説は、現時点では、事実に基づかない憶測である可能性が高いと推測する。
■ 3.「米軍が持ち込んだ説」の真偽
本項では、新型コロナウイルスは、米軍が武漢に持ち込んだという陰謀説の真偽について考察する。
この陰謀説の発端は、中国外務省のZhao Lijian(趙立堅)報道官が、3月12日に、ツイッター上で、何の証拠も示さず、「米軍がコロナウイルスを武漢に持ち込んだかもしれない」と発言したことに始まる。
ツイッター上の趙報道官の発言の原文と仮訳は次のとおりである。
「原文: CDC Director Robert Redfield admitted some Americans who seemingly died from influenza were tested positive for novel coronavirus in the posthumous diagnosis, during the House Oversight Committee Wednesday. CDC was caught on the spot. When did patient zero begin in US? How many people are infected? What are the names of the hospitals? It might be US army who brought the epidemic to Wuhan. Be transparent! Make public your data! US owe us an explanation!」
「仮訳:米疾病対策センター(CDC)のレッドフィールド所長は、米下院の聴聞会において、米国内でインフルエンザが死因とされた死者の一部で、死後の検査で新型コロナウイルスへの感染が確認されたことを認めた。これによりCDCは困った立場に陥った。米国で患者第1号が発生したのは何時なのか。何人が感染したのか。病院の名前は何か。武漢に感染病を持ち込んだのは米陸軍かもしれない。透明性が確保されなければならない。米国はデータを公表しなければならない。米国は、我々に説明をしなければならない」(筆者作成)
さて、趙報道官は、米疾病対策センター(CDC)のレッドフィールド所長の発言を受けて、米軍が新型コロナウイルスを武漢に持ち込んだという陰謀説を主張しているが、その根拠は示されていない。
なぜ、趙報道官はこのような発言をしたのかを探るために、関連する報道を時系列順に列挙する。
(1)CDCが記者会見(2月14日)で、「新型コロナの検査対象を大幅に見直す」という発表をした。
すなわち、「インフルエンザに似た症状が確認された患者に対し、新型コロナウイルス検査を開始する」。
その結果次第では「米国では今冬インフルエンザが大流行」と報道されていた感染症の実態は、「実は新型コロナが以前から流行していた」と覆るかもしれない。(PRESIDENT Online 2020年2月17日)
(2)日本のテレビ朝日が2月21日に伝えたところによると、CDCが過去数か月間にインフルエンザで死亡した米国の患者1万人あまりのうち、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による肺炎患者が含まれていた可能性があると考えており、すでにニューヨークやロサンゼルスなどの大都市で大幅な検査体制の見直しが始まったという。
その後、このニュースは中国のSNSでたちまち拡散され、21日夜に新浪微博(ウェイボー)が初めて掲載してから現在までの間に、閲覧数は22万回を突破し、コメント1万4000件が寄せられた。
そして中国の多くのネットユーザーは、「COVID-19は米国から来た可能性がある。どうりであれほど多くの米国人が『インフルエンザの症状』で亡くなったわけだ」と考えている。(人民網日本語版 2020年02月22日)
上記の関連情報と趙報道官のツイッター上の発言により、中国の多くの国民は、新型コロナウイルスは米国から来た可能性を信じるようになったと筆者は考える。
その他、新型コロナウイルスは、米軍が武漢に持ち込んだという陰謀説の根拠となる出来事や感情としては次のようなものが考えられる。
1つ目の根拠は、2019年10月18日から27日に武漢で開催された世界軍人運動会に109カ国の軍人9308人が参加したことである。
この中に数百人の米軍人が参加している。趙報道官の「米軍がウイルスを武漢に持ち込んだ」という米軍は、世界軍人運動会に参加した米軍人を指しているのであろう。
さもなければ、米国が中国に対してバイオテロを仕かけたことになる。
ところで、香港紙の報道によると、中国で新型コロナウイルスの最初の感染は11月17日であるとされる。
この2つの事象には時間差があり、米軍人から感染したとは考えにくい。
また、武漢で開催された世界軍人運動会に参加した米軍人から感染が広がったのであるならば、中国で感染が発生した時期に世界軍人運動会に参加した諸外国でも感染が発生していなければならない。
2つ目の根拠は、米国が中国に対してバイオテロを仕かけるかもしれないという中国が抱いている恐怖心である。
しかし、筆者は、次のような理由から米軍が中国に対してバイオテロを仕かける可能性は全くないと考える。
(1)米国・中国とも「生物兵器禁止条約」の締約国である。現在、米中は貿易摩擦などを巡り対立関係にあるが、米中武力衝突の蓋然性は大きくない。
この時期、米国が国際法に違反してまで、バイオテロを起こすことは筆者の常識からは考えられない。
(2)生物兵器は、特定の作戦地域の制圧を目的に使用されるものであり、一般にヒトからヒトへの感染のない病原体が適しているとされる。
生物兵器としての可能性が高いといわれる炭疽症、天然痘、ペスト(腺ペスト)およびボツリヌス症などの4つの病原体は、人から人に感染しないため、2次感染の危険がない。
これに対して、新型コロナウイルスは、「人から人への感染」が確認されており生物兵器に不適である。
(3)生物兵器の使用は、自国民を守るためのワクチンまたは抗血清の保有が前提である。
今回の新型コロナウイルスに多数の米国人が感染している状況から米国による生物テロは考えにくい。
さて、習近平国家主席の「病原がどこから来て、どこに向かったのか明らかにしなければいけない」という発言と、「米軍が、新型コロナウイルスを、武漢に持ち込んだ」という趙報道官の発言は、愛国心の強い中国国民への訴求力があり、多くの中国国民はこの陰謀説を真実と思うかもしれない。
一方、米軍が中国に対して生物テロを仕かけるわけはないという筆者の常識にてらして判断すれば、この陰謀説が虚偽であることは歴然としている。
米国は、米国で新型コロナウイルスの感染者第1号が発生した時期を公表すれば、「新型コロナウイルスは、米軍が武漢に持ち込んだ」という陰謀説を一蹴することができる。
にもかかわらず、米国が趙報道官の発言に反論しないのは、趙報道官の発言は反論に値しないと考え、無視しているのではないかと筆者は推測している。
また、趙報道官の「米軍がコロナウイルスを武漢に持ち込んだかもしれない」という主張は、陰謀説というより、米国のマイク・ポンペオ国務長官の「武漢ウイルス」発言に対する感情的な反論に過ぎない。
そして、現在、米中間で感情的な非難合戦が繰り広げられている。
■ 4.終わりに
今般、中国から発生した新型コロナウイルスの感染が世界的に拡大する中、新型コロナウイルスは、中国の“生物兵器”であるとする陰謀説が流布された。
今日、わが国では、北朝鮮の核兵器の脅威の増大により、生物兵器の脅威があまり語られなくなった。
しかし、新型コロナウイルスの感染拡大が世界各国の国民生活や社会経済活動に与えた影響の大きさを考慮すれば、感染力と殺傷力が強く、かつワクチンのない生物兵器の脅威は、核兵器以上と言えるかもしれない。
以下、生物兵器の脅威について簡単に述べる。
1975年に発効した生物兵器禁止条約は、生物兵器の開発、生産、貯蔵などを禁止するとともに、既に保有されている生物兵器を廃棄することを目的とするものである。
しかし、同条約には検証機構についての規定がないため、多くの締約国が、同条約に違反して、製造が容易で安価である「貧者の核兵器」と呼ばれる生物兵器を保有していると疑われている。
また、テロリストなどの非国家主体が、生物兵器または生物剤を取得・使用することが新たな脅威として懸念されている。
特に、日本の安全保障にとって大きな脅威である北朝鮮は大量の生物兵器を保有しているとされる。
防衛省の資料によると、一定の生産基盤を保有し、弾道ミサイルに生物兵器を搭載し得る可能性も否定できないとある(『我が国を取り巻く安全保障環境』2018年9月)。
また、若干古くなるが、2009年10月付のAFP通信は、「韓国国防省は、議会に提出した報告書の中で、北朝鮮が生物兵器に使われる13種類のウイルス・細菌(筆者注:、炭疸菌、ボツリヌス菌、コレラ菌、出血熱、ペスト菌、天然痘、チフス菌、黄熱病ウイルスなど)を保有している可能性があることを明らかにした。
また、同報告書は北朝鮮を、世界最大の生物兵器保有国の一つだとしている、と報道している。
わが国は、テロ国家・北朝鮮の大量の生物兵器に備えなければならない。
従って、今般の新型コロナウイルス感染症対策の教訓を踏まえ、北朝鮮の生物兵器による攻撃事態にも適切に対応できるよう、必要な態勢の整備を促進する必要がある。
また、東京五輪を控え、テロリストなどの非国家主体からのバイオテロの脅威への対応も急務である。