二、意気運動の実現
指摘しておかなければならないのは、太極拳と静功(坐功、站功、臥功)は同じものである。どちらも意を練り、気を練ることに重点を置いている。しかし、太極拳は動くことによって練る(動中静を求める)ので、意気運動とも言われるわけだが、静功は動かないで単独で静を求めるので、両者を混同してはいけない。
正に太極拳は内外ともに練り、動中に静を求めるものであるから、内面の意と気の運動がよく行われ、必ず外部の神気もよく現れてくるのである。
“行功心解”に曰く、“姿は兎を狙う鷹のごとく、精神は鼠を追う猫のごとし”と。
内外相合と、努力・鍛錬すれば、必ず本章の下に述べる七つの特長にある要求にいたり、また、その七大特長も実現し、太極拳は意気運動であるというこの特長もやがて実現するのである。
言い換えれば、特長を八つに分けたとはいえ、実際は、一つの統一体の中においては同じく関連しているもので、ただわかりやすくするために分けただけである。
残りの七大特長を詳しく述べる前に、まず簡単にこの意気運動を貫徹させる七つの特長の作用を説明してみよう。
特長第二 弾性運動
これは身体の放長(緩め伸ばす)であり、また、放長によって弾性が生じた結果だと言える。綿のように軟らかい弾性が身肢を躍動させる要因を促すのである。
弾性がなければ動作はこわばり、外に現れる神気の鼓動は形成されなくなり、当然、内在する意気の動きも協調できなくなる。
特長第三 螺旋運動
動作の起伏度を増強するべきもの。もし動作が直に行き来すると、高低、内外の翻転はなく、精神を導くこともできず、意気と身法の起伏の動きも導くことができない。
このため、必ず、順逆の螺旋運動を結合させなければならない。腕をまわして肩を動かし、踝を回して腿を動かし、腰を動かして背を動かす。螺旋連貫が一致した太極勁をもって、あらゆる動作中に注ぎ込ませる。
このように、動かざれば止まり、動けば自然に鼓動の勢いを形成する。それが意気運動の動作の核心となるのである。
特長第四 虚実の調整
これは意気の自在なる変換。それは珠のごとく円滑な感覚の元を生み出させ、鼓動の動力の根源ともなるものである。
上が下に従い、下が上に従うという虚実の変換は、神気と身法を生き生きさせ、滞らせないよう促すことができ、神気の鼓動もこれにより生じてくる。もし上下が相随でなければ虚実の調整もできず、内勁が偏れば内勁と身法は一方へ傾き、八方を支えるという要求は失われてしまう。
もし内勁の一方が下の方へ傾くとすると、神気が鼓動を得られるのは容易なことではない。
指摘しておかなければならないのは、太極拳と静功(坐功、站功、臥功)は同じものである。どちらも意を練り、気を練ることに重点を置いている。しかし、太極拳は動くことによって練る(動中静を求める)ので、意気運動とも言われるわけだが、静功は動かないで単独で静を求めるので、両者を混同してはいけない。
正に太極拳は内外ともに練り、動中に静を求めるものであるから、内面の意と気の運動がよく行われ、必ず外部の神気もよく現れてくるのである。
“行功心解”に曰く、“姿は兎を狙う鷹のごとく、精神は鼠を追う猫のごとし”と。
内外相合と、努力・鍛錬すれば、必ず本章の下に述べる七つの特長にある要求にいたり、また、その七大特長も実現し、太極拳は意気運動であるというこの特長もやがて実現するのである。
言い換えれば、特長を八つに分けたとはいえ、実際は、一つの統一体の中においては同じく関連しているもので、ただわかりやすくするために分けただけである。
残りの七大特長を詳しく述べる前に、まず簡単にこの意気運動を貫徹させる七つの特長の作用を説明してみよう。
特長第二 弾性運動
これは身体の放長(緩め伸ばす)であり、また、放長によって弾性が生じた結果だと言える。綿のように軟らかい弾性が身肢を躍動させる要因を促すのである。
弾性がなければ動作はこわばり、外に現れる神気の鼓動は形成されなくなり、当然、内在する意気の動きも協調できなくなる。
特長第三 螺旋運動
動作の起伏度を増強するべきもの。もし動作が直に行き来すると、高低、内外の翻転はなく、精神を導くこともできず、意気と身法の起伏の動きも導くことができない。
このため、必ず、順逆の螺旋運動を結合させなければならない。腕をまわして肩を動かし、踝を回して腿を動かし、腰を動かして背を動かす。螺旋連貫が一致した太極勁をもって、あらゆる動作中に注ぎ込ませる。
このように、動かざれば止まり、動けば自然に鼓動の勢いを形成する。それが意気運動の動作の核心となるのである。
特長第四 虚実の調整
これは意気の自在なる変換。それは珠のごとく円滑な感覚の元を生み出させ、鼓動の動力の根源ともなるものである。
上が下に従い、下が上に従うという虚実の変換は、神気と身法を生き生きさせ、滞らせないよう促すことができ、神気の鼓動もこれにより生じてくる。もし上下が相随でなければ虚実の調整もできず、内勁が偏れば内勁と身法は一方へ傾き、八方を支えるという要求は失われてしまう。
もし内勁の一方が下の方へ傾くとすると、神気が鼓動を得られるのは容易なことではない。