前回3月6日掲載から3ヶ月以上経ってしまった(!)。攬擦衣の内勁運行の続き。
当時は何を言ってるのかまったく理解できなかったが、今読み返すと陳正雷老師や王西安老師がその都度語っていたことがここにある(思い出す)。
伝統太極拳を学ぶ道は深くて遠い。。。ここまででやっと攬擦衣の解説が終わった。。。ふぅ〜。。。。
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(前回より続く)
即ち上図のような態勢が大切で、常にこの心掛けを忘れないで欲しい。肩から外をまつわり、中指の爪に到り、中指から手甲の外を経、内側を回って肩に入るのを引勁といい、即ち遠くから近くに引き寄せるのであるが、初めのスタートは進行勁を使い、内側に収めるのを退行勁とする。
下体の腿部勁は足指から腿の付け根に向かって進行または退行させる。腕と違う点は、自分で練習するときも足を移動してはならず、敵と手を交わす場合も先に引き寄せ、後に進行するが、足を移動させてはならない。右手を九分まで運行させて気を停止させれば十分に貫通することが出来、理想的な境地が得られる。ここは形容し難い急所で、始めから終わりまで緩やかに運行させ、出来るだけ速度を落とし、十分に緩やかに運行して初めて十分な霊気を体得できるもので、十分な火加減があれば敵の追従を許さない。敵は不思議に思うが、これが先難の功とは知るよしもない。また、全体をまず斜めにして、後に真っ直ぐにする外斜内正とは、姿勢を正しく保つ法で、姿勢が正しい者は心の中気に精進している証拠で、これを四肢に運行させているのを外からは見いだすことが出来ない独知の境時である。常に心気の正しさを失わず、姿勢に注意をすれば、時間を経ると共に手足の運行も規則正しくなり、散漫なものではなくなる。規則が正しければ精神が集中し、散漫であれば精神も締まりがない。詰まるところ、身体は心の命令に従い、心に敬があれば手足も自ずとその通りに行動する。
肩を落とし、肘を下げ、右手でリードし、左手を腰に据え、腕を曲げる。これが最も基本的な姿勢で、眼は右手に従って運行し、右手は眼が従うように動かす。右手の至るところ眼も右手の爪に注視し、中指を注視の的とする。肩や頭骨の隙間は初めのうちは開かせず、無理に開かせないようにする。修練が足りない時には気持ちの上では開かせたい一心だが、まだ開く時期には到達しない。そして練習を積み重ね、月日の累積により開く日が来る。これが一旦開かれると腕全体の往来、屈伸は風が楊柳を吹くが如く天機動蕩として活発化し、少しの滞泥もない。これは樞(=枢)紐が動き始めた証拠である。
右手と肩を平らにするが、あまり低すぎないよう、またあまり高くならないよう、中気の運行は非常に難しく、高すぎれば無力となり、とにかく中を得ることを貴しとする。頂精(頭部)をきちんと据え、頂精は百会穴にあり、首は何処にも偏らないよう、然しあまり力を入れ過ぎない。気を入れ過ぎると立つ姿勢も不安定となり、ここは全身関鍵中気の通ずるところであるから、時に気をつけなければならない。上は百会穴に通じ、下は二十椎に通ずる。ここが通ずれば上下相通じ、全体の気脈は総て流通するので、倒れることもない。後頭部の支脈は中気物を助けるもので、二支脈間無脈の位置が中気の上下に流通する道で、下は背骨の中を経て二十一椎に到る。即ち前後仁督二脈も総て中気を助けるもので、中気の通過する路は最も摑みにくく、それは形にも現れず音もしない。只、長期的修練により初めて会得するものである。故に何処にも偏らず、形にも現れず、これを神通力とでも言おうか、自然の中に得るものである。四支を運航する中気もこの中気の支流であり、他に中気があるわけではない。
中気が支体に流れるのも同じ中気を源にしたもので、神通じて明らかとなるものである。故に端正に立ち、柱の如く前にも後にも偏らず、左へも右へも傾かない。こうして初めて此の形勢を会得することができる。右手運行の際は右をポイントとし、右に向かって敵に応対する。右手は陰に属し、運行すれば陰中の陽となり、運行する者は主宰の者である。左手の拳を曲げ、左足は不動で右手を賓に切り替え、事実上賓中の主として全体の基礎を守るものとする。
左手は陽に属し、その運行の勢いは陽中の陰で、陽中の陰たる者は主宰の者である。この理論に基づき陰と陽は同根のものであり、二つに分かれてはならない。右肘を例に取れば、右半身は総て陰に属し、内勁は肩の外からまつわり、爪に到り、爪外から内側をまつわる。陰陽は二勁に分かれているかのように思われるが、実際には同時に帰落するもので、ここれも陰陽互いに同じ根より発することが理解できる。例えば敵と手向かう時、敵が手を出せば我は手で其れを引き、敵を誘い込みながら其れを撃ち、決して誘い込んだ後に一気に打つようなことはしない。これが陰陽交互の理である。
拳の道は進退のコントロールであり、神気を貫き、決して断えることがない。ある者は拳を弄するのに、まだ手も上がらない内から停止をする。然し停止をすればその気は絶え、神
は散じることを知らない。一つの動作が終わらぬうちに他の動作に移り、他の動作もまだ終わらぬうちに、また其の次の動作を始めようとする。このように急いでやろうと思えば、どうしても細心に内勁の起落と洞察することは出来なくなる。焦る者は往々にしてこのような欠陥に陥りやすいので、成功を見ないままに終わることが多い。拳を成す者すべからく情理を落ち着かせ黙々と覚えて行くことが肝要で、上の姿勢を終えてから下の姿勢に入るように心掛け、骨接の位置から脈を通らせ、脈を通過する時には如何にして血脈を貫かせるかを思慮し、決して中断しないようにする。上の姿勢が終わったら神気が十分に充実するまで待ち、その余韻を下の姿勢に続けるようにする。というのは、上勢が充足すれば、余韻は界外に流れるので、これは下勢の機となり、上勢の末は下勢に接続され、下勢の筍は上勢の筍と相合わされる。この場合、勢が合わさるばかりでなく、神も通じ合なければならない。神気と上勢には隙間を入れない。これが即ち勢より脈を獲得することであり、脈は下勢より得られ破竹の勢も此の勢から得られるもので、ここは非常に大事なところである。以上、再三にわたりここのポイントを繰り返したのは、ここの急所を教えることを旨とした。
2019,6,21