陳式太極拳を学び始めて40年近くになる。
その昔、まだ習いたてて何も分からなかった頃に、資料として舘長から渡された(正しくは”買わされた“)陳 鑫著「陳氏太極拳図解」。
B5の横綴じで、22枚目まではワープロ打ちされているが、その後は原稿用紙に手書きのコピー。
字ばっかりで書いてあることもよく理解できず、そのまま、ほっとかれたまま。。。
陳 正雷老師の著書や他にいろいろな資料や本も手に入るようになり、ほとんど忘れられた状態であったが、部屋の引っ越しや仕事の整理も終わり、あらためて手に取ってみると、あ、これ、今なら分かる!ことがいろいろ。
序章から長いのであるが、取りあえず、本文の最初からだけでも読み込んで打ち込もう!と思ったのが今年の始め頃。
先は長いが、少しずつ打ち込んだ分からアップしておこう!の第1回目。
図版が、陳式太極拳のイメージを掴みやすく、とてもとても参考になるのであります。
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陳氏太極拳図解
陳 鑫 著・華 厳峰 校
無極とは何者も存在しないことを言い、太初以前混沌とした、所謂、大混沌を指し、学ぶ者道場に上がって拳を打つ時には端正に直立し、目を閉じ、息を吞み、両手を脇に垂らし、両足を揃え、心中に何事をも置かず、何事をも考えない、丁度渾然とした太混沌の無極の光景のようで、それは形容しがたい。この境地を無極象形という。
太極は無極より生じ、それには形や音が伴うものだろうか。いや、形や音などはない。形や音のないのは無極ではなかろうか。太極もそれと同じなのであろうか。然り。太極は無形無声ではあるが、すでに兆候が現れている状態で果実の生機が動じ始めようとするが未だ動ぜず、生機が足りずにまだ殻からでない状態に例えようか。
さもなくば、天地は何処から生ずるだろうか。大混沌後陰陽未だはっきりしないが、その機はすでに動いており、一旦はっきりすると清気が上昇して天濁気となり、降りれば地の土となる。ただしこの清気が未だ濁気として上昇せず下降にも至らないので太極となる。即ち、陰陽五行の機が未だに生まれず、天地にこれと名付ける名がないのを太極と言い、陰陽五行が備わり道場に上がって拳を打つ時、手足はまだ動かさず、端然と直立した時、陰陽開合の機、消息盈霊数己へ渡るが、それは形に表れないので、太極と言う。
学ぶ者、初めて道場に上がった時には、心を洗い、思慮をゆすいで妄念を除き、平心静気、動を待つようにする。これが出来て後、拳を学ぶことが出来る。
① 左手首上に向け、鼻梁と上下相対させる。
② 左肘を落とし、軽く支える。
③ 心は平和を保ち、平であれば気は静かとなり、心が平であれば気は和らぐ。
④ 左肩を落とし、上へ突っ張らない。
⑤ 目は脇見せず。脇見をすれば分心して志を乱す。
⑥ 全身の精神は頭部にある。頭部が充実しているもそれを形には表さない。
⑦ 耳は何をも聞かない。聞かなければ専心できる。
⑧ 首は真っ直ぐにする。
⑨ 右肩は軽く落とす。
⑩ 右肘を下げ、いささかも上へ釣り上げない。
⑪ 右拳を左掌中に入れ、胸下5〜6寸の場所に置く。
⑫ 気はすべて丹田に帰す。
⑬ 腰を落とし、腰は堅実であるのがよい。
⑭ 左膝をやや曲げる。曲げないと股が開かない。
⑮ 左足と右足を揃え、正しく置く。
⑯ 足全体にやや力を入れて地を踏む。
⑰ 腎囊の両側を股(月ヘン+當)と呼び、円く開いて締め付けないようにする。
⑱ 右膝をいささか曲げる。曲げないと股が開かない。
普段、拳を打つ時はその場に応じ、別段方向にこだわったり、一定の位置を守ったりする必要はない。だが、北辰、北斗、皆北方になるため、学ぶ者も心をその方角に向けて天機を仰げば人間の中気も正しくなる。図解の場合も常に顔を北に向け、南を背に、右側は東、左側が西であるのを基準とする。
立天の道を陰と陽と言い、立地の道を柔と剛と言う。立人の道を仁と義と言う。
足は重さを容れ、頭は直を入れ、目は粛を容れ、手は恭いを容れ、座れば屍の如く、立てば齋の如し。
孔子曰く「非礼見るべからず、非礼聴くべからず、非礼言うべからず、非礼動するべからず」、打拳の時は敬いを以て事に当たるから自然に規則を守り、見る、聴く、言う、動く事が総て規則に当てはまるようになる。打拳の前は心を平に保ち、気を和やかにし、渾然と合一させる。
これが太極の気象で、打拳の時、心は穏やかで気も静かであるから、手足を動かす方向も悠然と正確さを保ち、これは太極拳の中の自然の天機であり、悠然の中に礼儀に叶う。
礼曰く「怠惰の気を身体に宿してはならぬ」。一度身体に怠慢が宿ると、動作は規則からはみ出て百痛が生じる。礼は敬を主とし、楽は和を主とする。敬と和に徹して初めて太極拳を習うことが出来る。
或者は、太極拳は藝である。孔子の言葉に従うなどあまりにも厳格だ、聖人や賢人の修業すらこの位ではないか。仔細な藝でこうする必要はなかろうと言う。だがそうではない。打拳も修身の一つ。命を護衛する学問である。孟子曰く「規則がなければ何事も達成し難い」、打拳の道は終始敬という時の外ならない。敬を以て専心に志を通せば達成できない事はない。
拳中の法は、次の通りである。
左陽右陰図、運動気機図、手足纏糸勁図。
左右の誤字とか、ワタシの線引きなどお見苦しい点はご容赦を。書き込みは、最初に読んだ(多分)30年以上前のものであります。