クドいけれど、希直さんの思い出。。。。
初めて希直さんに会ったのは、ワタシが大学2年生頃のこと。希直さんはすでに大学を卒業していたものの就職せず、父親が経営していたアイススケート靴店で仕事をしていた。後から聞くと、卒業論文のテーマについて、指導教授から「君は変わってるから、ユダについて書いたら?」と言われ、それが気に入らず(?)江ノ島水族館に就職が決まっていたが、卒業せず留年したのだとか(*゚Д゚)。優しいけれど、素直なワケではないのであった。
ちょうどその頃、たまたまその隣りで私の母が喫茶店を初め、ワタシは大学の空き時間に都立大学から東神奈川まで通い、店を手伝っていた。
初めて希直さんに会った時、すぐに、「私はこの人と結婚する!」と強く感じたことを今でもよく覚えている。
大学卒業後、私は東京であるファッションデザイナーの企業に就職し、編集部に勤務。撮影やら原稿書きやら、配本やら、今では考えられない仕事の日々で希直さんとは何年も会わない時期があった。ある日、数年ぶりに電話があり、すぐに結婚。1975年、希直32歳、いづみ26歳の秋だった。
希直さんはこれまで会社勤めや仕事をしたことがなく、ちょっとヘソ曲がりな面はあっても、他人に対して決して悪意をもたない人だった。「こんにちは!と言われて怒る人はいないんだから、誰にでも挨拶するように」と、私は希直さんから学んだ。それまでは、知らない人に挨拶するのは苦手だったのだ。(今は誰彼なく「こんにちは!」と言える。希直さんを見習ってかもしれないし、ただ単にワタシが歳を取ったせいかもしれない)。
とにかく優しい人だった。やることは丁寧で繊細、雑なところは一切無し。毎日の食器洗いは希直さんがやっていたが、最後のゴミ処理も何一つ残さないように手で集めて捨てる。。誰もが口を揃えて言うのはとにかく「優しい人だった」。結婚してから今までずっ〜と「いづみさん」と“さん”付けで呼ばれ、友人からは「あなたは幸せね」と言われたものだ。
1980年代後半、どこもかしこもバブル景気で、フリーランスでの仕事は多く、私は東京で忙しくて帰りも遅く、それでも一言も文句を言わず、やりたいことを自由にやらせてくれて、いつもいつも待っていてくれた希直さん。友だちは、「夜、電話するとアナタがいなくても希直さんが出るとなんだか安心するのよね」と言ったが(ケイタイがまだない頃である)、私の友だち誰からも好かれ、誰でも受け入れる人だった。
30歳で始めた太極拳を学びに、毎年のように訪中していた頃、一緒に行っていたワタシの指導者のご主人が「昔、訪中したあなた達を迎えにワイキャットで待っている時、2〜3度お会いして話をしました。風流な方とお見受けして、いづみさんの理解者と勝手に受け取りました。物腰の柔らかい穏やかな方でしたね」と言ってくれました。「この方はいづみさんの応援団なんだと思った。すぐに分かりましたよ」と。誰からも好感を寄せられ「希直さん、希直さん」と呼ばれる人だった。
今から思い返すと、2年前にコロナワクチンの副反応で腰椎圧迫骨折。手術後に、感染症にかかって再入院・手術。コロナの最中で面会も出来ず、ストレスで十二指腸潰瘍を発症し、さらに入院が延びて3ヶ月ほど会えない時期があった。この時は辛かった。会いたくて、毎日毎日、泣いていたっけなぁ〜。コロナ憎し!
それまでは病院にかかることもなく、ヒマに任せて二人であちこち出かけていたのだが、入院中にすっかり足が弱くなり、退院した時は、車椅子生活。ベッドで過ごす時間が長かったが、今思えばこの退院後の2年弱がこれまでで一番長い時間を一緒に過ごし、穏やかに、向き合って、幸せに、安らかに日々を過ごせていたと思う。あるとき、(何かをしていたワケでもなかったはずだが)「今が天国のようだな😊」と嬉しそうな顔をして言ったことがあった。希直さんと、もっともっと一緒にいる時間を作っていたらよかった。。😭