「陽だまりの果て」(大濱普美子著・国書刊行会発行)を、このところ毎晩ベッドに入る前に読んでいる。特に、本のタイトルになっている「陽だまりの果て」は、もう何度となく読み返している。
著者の大濱普美子さんの名前は知らなかったが、タイトルに惹かれた。「第50回泉鏡花文学賞受賞」を受賞していること、発行元が国書刊行会であること、カバーの装画(武田史子さんによる「温室の図書館」という作品)に、どことなく仄かな懐かしさを感じたことも決め手だった。
受賞作の「陽だまりの果て」の他に、「ツメタガイの記憶」、「鼎ヶ淵」、「骨の行方」。それに「連れ合い徒然」「バイオ・ロボ犬」の2作品が収められたこの本は、どれも懐古と眩惑に彩られた幻想的な物語。
一番深く心に沁みたのは、「陽だまりの果て」だ。
施設に入居している老人が、窓から射し込む陽射しの中に見る過去の想い出や幻想・・・若くして理不尽にも亡くなった息子への後悔や慟哭、先に亡くなった妻とのあれこれの想い出、もっと昔の子供の時の記憶。。。”行きつ戻りつ繰り返される、老人の記憶の窓に映る追想”の物語りである。といっても文章は重くも暗くもなく、すぅ〜っと胸に入ってくる。皆川博子さんの推薦文の通り「表現は静謐でかろやかでさえあるのに、内在するのは深く重い生と衰と死と哀と慈である」のだった。
「陽だまりの果て」には、何度も同じシーンが描かれている。
(以下、本文より引用)
「廊下を、部屋を出て左のほうへ進んで、ずっと奥まで辿っていくと、その先は行き止まりになっている。突き当たりにいかにも重たそうな扉が嵌まり、その扉のうえの方に頑丈そうな厚い硝子が嵌め込まれている。手前の床が一部だけ切り抜いたように明るいのは、硝子窓から陽が入ってくるからだ。暖かな陽射しが射し込んで、廊下の外れの床の上に、台形の陽だまりが落ちている。陽だまりのすぐ手前に立ち止まって、そのままそこにたって見下ろすと、少し斜めになった四角い枠の中に木の葉の陰が連なり、ぎざぎざと緑の輪郭を刻んで落ちている。枝葉の影は風に揺れ、濃くなったり薄くなったり、遠ざかって束の間見えなくなってはまだ戻ってきたり、そんな風にして揺れている」
・・・・・その情景がくっきりと見えるだけに、一層胸が締め付けられる。
夏休みに1人預けられた郊外にある建物で過ごす少女の日記風の作品「鼎ヶ淵」(かなえがふち)も、夏の光のきらめきやまぶしさ、対照的に涼しい部屋の中の暗がりやひっそりした隙間、かび臭い押し入れに積もる建物と人の記憶など、懐かしく明るい中に表裏をなすように仄かにうっすらと漂う”死”。。。
この本を買ったのは、去年の秋頃、まだ希さんが入院している頃だった。面会禁止で会えない日々の中で、どこかに出かける気持ちにもなれず、本を読む気にもなれず、ずっとそのまま積んであった。今年になって、少し気持ちにゆとりができて読み始めたら引き込まれて、何度も何度も読み返している。哀しさと愛おしさが、喪失感を慰めてくれる思いがするのだった。