izumishのBody & Soul

~アータマばっかりでも、カーラダばっかりでも、ダ・メ・ヨ ね!~

繰り返し読んでいる、大濱普美子さんの「陽だまりの果て」

2023-04-17 10:36:38 | 本と雑誌

「陽だまりの果て」(大濱普美子著・国書刊行会発行)を、このところ毎晩ベッドに入る前に読んでいる。特に、本のタイトルになっている「陽だまりの果て」は、もう何度となく読み返している。

著者の大濱普美子さんの名前は知らなかったが、タイトルに惹かれた。「第50回泉鏡花文学賞受賞」を受賞していること、発行元が国書刊行会であること、カバーの装画(武田史子さんによる「温室の図書館」という作品)に、どことなく仄かな懐かしさを感じたことも決め手だった。

受賞作の「陽だまりの果て」の他に、「ツメタガイの記憶」、「鼎ヶ淵」、「骨の行方」。それに「連れ合い徒然」「バイオ・ロボ犬」の2作品が収められたこの本は、どれも懐古と眩惑に彩られた幻想的な物語。

 

一番深く心に沁みたのは、「陽だまりの果て」だ。

施設に入居している老人が、窓から射し込む陽射しの中に見る過去の想い出や幻想・・・若くして理不尽にも亡くなった息子への後悔や慟哭、先に亡くなった妻とのあれこれの想い出、もっと昔の子供の時の記憶。。。”行きつ戻りつ繰り返される、老人の記憶の窓に映る追想”の物語りである。といっても文章は重くも暗くもなく、すぅ〜っと胸に入ってくる。皆川博子さんの推薦文の通り「表現は静謐でかろやかでさえあるのに、内在するのは深く重い生と衰と死と哀と慈である」のだった。

「陽だまりの果て」には、何度も同じシーンが描かれている。

(以下、本文より引用)

 「廊下を、部屋を出て左のほうへ進んで、ずっと奥まで辿っていくと、その先は行き止まりになっている。突き当たりにいかにも重たそうな扉が嵌まり、その扉のうえの方に頑丈そうな厚い硝子が嵌め込まれている。手前の床が一部だけ切り抜いたように明るいのは、硝子窓から陽が入ってくるからだ。暖かな陽射しが射し込んで、廊下の外れの床の上に、台形の陽だまりが落ちている。陽だまりのすぐ手前に立ち止まって、そのままそこにたって見下ろすと、少し斜めになった四角い枠の中に木の葉の陰が連なり、ぎざぎざと緑の輪郭を刻んで落ちている。枝葉の影は風に揺れ、濃くなったり薄くなったり、遠ざかって束の間見えなくなってはまだ戻ってきたり、そんな風にして揺れている」

・・・・・その情景がくっきりと見えるだけに、一層胸が締め付けられる。

 

夏休みに1人預けられた郊外にある建物で過ごす少女の日記風の作品「鼎ヶ淵」(かなえがふち)も、夏の光のきらめきやまぶしさ、対照的に涼しい部屋の中の暗がりやひっそりした隙間、かび臭い押し入れに積もる建物と人の記憶など、懐かしく明るい中に表裏をなすように仄かにうっすらと漂う”死”。。。

 

 この本を買ったのは、去年の秋頃、まだ希さんが入院している頃だった。面会禁止で会えない日々の中で、どこかに出かける気持ちにもなれず、本を読む気にもなれず、ずっとそのまま積んであった。今年になって、少し気持ちにゆとりができて読み始めたら引き込まれて、何度も何度も読み返している。哀しさと愛おしさが、喪失感を慰めてくれる思いがするのだった。

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人種差別は色ではないーー1964年の有吉佐和子「非色」に驚愕!

2021-08-16 16:42:34 | 本と雑誌

雨に降り込められ、それ以上に、コロナ感染拡大の緊急事態宣言下で外出は「5割削減を」との尾見会長の声を枯らしての訴えにお応えして(?)、お楽しみ外出はガマンガマン😣の日々。

家の中ではYOU TUBE で陸 瑤先生の八段錦や健身気功十二法、陳式太極拳等々を見ながらお勉強。これにオンラインレッスンでの六字訣が始まって、ワタシはオンタイムでの参加はできず後から動画で自主練習。。アタマの中は太極拳で満杯気味である。

 

他のこともしたいから、本も読む。

8月に読んだ本、まずは高樹のぶ子さんの「伊勢物語」。昔教科書で習った在原業平の和歌の意味を読み解きながら、平安時代を生きた業平の一代記。

いくつかの和歌に添えられた平安時代の絵もいかにも穏やかでその都度読まれる和歌も、その意味を現代の言葉で書いた文章の美しさも、水の流れのように滑らかで美しい。平安の貴族達の自由奔放(?)な通い婚や、顔もハッキリ見えないような夜の情景など、今から見ればこの人たちはいつ仕事してるんだ?とか、心を寄せる女人のこと以外に考えることはないのか?等々、半分呆れながらも、この優美な時の流れ方は本来の日本人の性に合っているのではないだろうかと羨ましくも思えたり。

自然も穏やかで、ほんのり・秘やか・仄暗いと言った言葉や、霧や靄、露、といった穏やかな自然の移り変わりが描かれていて、ここ数年来の気象の激しさは気配もないことにも考えるところがあった。”日本の四季の美しさ”が、そこに確かにあるのだった。

 

もう一冊は、1964年に有吉佐和子が発表した小説「非色」。ブレイディみかこさんが帯に「人を分かつものは色ではない。では何なのか?この小説の新しさに驚いた」と紹介している言葉の通り、1964年にキング牧師が率いた黒人差別に抗議する公民権運動からBLACK LIVES MATTER(黒人の命も大事)運動まで、アメリカに延々の地下水脈のように流れる黒人差別。。。でも、50年以上も前に書かれたこの小説の中で、有吉佐和子はすでに、肌の色が差別を生むのではない、と喝破している。

日本の敗戦と同時に東京に溢れたアメリカ軍の兵士達は、白人だけでなく、黒人、イタリア人、プエルトリコ人・・いろいろな人種の兵士達がいた。

日本に駐留してきた彼らと結婚した日本女性達は”戦争花嫁”と呼ばれ、あるものは夫の住むアメリカに船でアメリカに向かった。そこで出会ったのは、日本では想像もつかなかった徹底的かつ過酷な差別。。。どうしようもない状況でも決して潰されることなく自分自身を見つめ、周囲を見つめ、考えを重ねる主人公には、次第にNYのハーレムで黒人の夫と子供と共に生きることへの強さと覚悟が生まれていく。

斉藤美奈子さんの解説にあるように「ニューヨーク編を読めば、有吉佐和子がこの小説で何を書こうとしたかが分かるはずです。彼女の構想は、戦争花嫁の人生ではなく、個人の人生を破壊する「差別の構造」を描くことだった」。

 

この小説が発表された1964年は、奇しくも東京オリンピックが開かれた年。2020年の東京オリンピックは延期されて今年8月8日に終了した。この小説が長い間の絶版を経て再発行されたのは2020年11月。56年も前に書かれたとは思えない新鮮さと、今もそのままあり続ける問題に驚かされる。

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本3冊を同時進行読書中。。硬くなったり、ほにゃらかになったり。。。

2021-02-17 13:44:52 | 本と雑誌

鹿子裕文著「はみだしルンルン」(東京新聞)と、佐藤優著「世界の古典 必読の名作・傑作200冊」(宝島社)、それに、橋本治著「草薙の剣」(新潮社文庫)の3冊同時進行読書中である。

とはいっても、最初に読み始めた佐藤優著「世界の古典 必読の名作・傑作200冊」は、本文436ページという!(ワタシにとっては)メチャクチャ分厚く重たい本である。

東京新聞(だったかな?)の書評を読み、佐藤優氏監修であることも合わせてamazonで即!注文。大学時代は歴史や古典のお勉強を全くしなかったのであるが、卒業後、ファッション誌の編集の仕事をしながら痛感したのは、「もっと歴史をちゃんと学んでおけばよかった💦」。ファッションも時代と共に変化し社会状況と密接に関連しているから、ヨーロッパの歴史とその時代ごとのファッションは、必然的にリンクしていることが分かるのであった。。

この本は、「生きること、人間の本質を考える」、「世の中の仕組みを俯瞰する」、「政治・経済・社会の本質を知る」、「日本という国を見渡す力をつける」、そして、「物語を味わいながら世界を感じる」の5章からなり、それぞれの章に今や古典となっている世界中の著名な書物の概略とオススメポイントが見開きごとに書かれている。その数200冊❗️読んだことがある本もなくはないが、ほとんど”タイトルだけは知ってる”だけの本。

最初から読み始めてしまったので(!?)、最初のうちはう〜っ、むむむっ、難しそうな本ばっかりだ。。。😂でも、「・・・・古典を読むことは、「今」を俯瞰して考える力をつけることに他ならない。現在、さも真実のように声高にいわれている主張があったとしても、その思想体系を知り、相対化して考えることができる力。そのうえで、自分自身にとっての正しさを追究し続ける知的体力と、一方で他者の正しさも複数並存しているのだということを認識する力。これらこそ「古典」が持つ底力である。」という言葉に納得し、「すべてを読み込もうとする必要はない。」という言葉に励まされつつ、やっと頭イタクなる章を読み終えて物語の章に入ってきたところであります。

この本はどちらかといえば若者向き。歴史を知って、本質を見分ける目を養って、明るい未来像をイメージして欲しい、という気持ちがこめられているのだと思う。

 

佐藤優氏のあまりの知力に頭クラクラしてきたので、脱力系の本が読みたい!で、1月31日に発売されたばかりの鹿子裕文著「はみだしルンルン」を購入!

前回の著書「へろへろ〈雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々〉」と同様、前書きにあるように、『この本はとても「ゆるい読み物」である。ゆるすぎてゆるすぎて、パンツのゴムが切れてしまったような気分になる本である』。そのため、読むとぼんやりする、細かいことはどうれもよくなるなどの症状が出ることも「ない」とは言えない。どちらかと言えば「ある」ような気がする。・・・』と、実にいい加減な(?)スタンスが表明されているのだが、ただそれだけでなく、本は無限大の包容力を感じさせる(?)フンワリした柔らかい力に満ちている。

"人生へろへろ"、"はみだしルンルン"、"どうにもニャン太郎"の3部構成からなるエッセイはどれも、なんだか気持ちが温かくほぐれて、読みながら笑いながらジーンとしてくるものばかり。

結婚を申し込んだ時に無職だった鹿子さんに対して「大きな猫がいると思えば腹も立たない」と応じた奥さんと「お酒を飲まないということだけがありがたい!」と受け入れた義理の母親の度量の深さ!ーー何でもあり!それでいいのだ!である。

鹿子裕文氏のコラムは毎月第2火曜日の東京新聞に掲載されていた。本のあとがきに、「無力な僕にできることがあるとすれば、それは火曜日のネジをゆるめることだった。そういう原稿を書くことで、読む人の頭やこころのネジを(ほんの少しかもしれないけれど)ゆるめられたらいいなと思ったのだ。」とある。まさしく、この本を読むと、日々のルーティンやら仕事やらに固められがちなアタマがゆるゆると解けるような感じがする(太極拳でいうところの”放松(ファンソン)"であるね)。

 

橋本治著「草薙の剣」はまだ第1章を読み終えたあたりである。

2019年に亡くなった橋本治氏は、古今東西の文学を抜群のユーモアで縦横無尽に行き交い独自の橋本ワールドを繰り広げた作家。独特の言語で改訳したシェオクスピアの「ハムレット」や清少納言の「枕の草子」の面白さなど、他に類を見ない巨人である。東大紛争時のポスターの強烈なイメージが今だに記憶に残るが、「役に立たないことの大切さ」という講演も行なっている、知力と脱力の両端をカバーする大きさ、広さがある。

三種の神器の一つであり、ヤマトタケルのミコトが剣で草を薙ぎ払い、火を点じ、敵を迎え撃ったというエピソードを持つ「草薙の剣」。日本最古典でもある「草薙の剣」を下に、”6人の男とそれぞれの父母、祖父母が体験した、戦前、戦後、学生運動、オイルショック、バブル、オウム事件、2回の震災、そして現代まで、そこに生きる人間をつぶさに描くことで、「時代」という巨大な何かを立ち上がらせた奇跡の長編小説”である。・・・・とはいえ、まだ第1章の「息子達」を終わって第2章「終わってしまった時代」に入ったばかり。各章ごとに物語が始まり終わり、「第5章 草薙の剣」まで、まだまだ先は長い。”ヤマトタケルのミコトが剣で草を薙ぎ払い、火を点じ、敵を迎え撃つエピソードが終盤に挿入される”らしいが、今のところそんな気配なし。全体の輪郭すら表れていない。。。

でもね、時代を顧みながら一つ一つの物語を読むのは(その時代を共有できる世代でもあり)、楽しくも懐かしい。物語がどういう大団円を結んでいくのか、それとも大団円はないのか。。。

 

「はみだしルンルン」を読み終えて、今は「世界の古典 〜」と2冊を同時進行で読破(?)中。緊急事態宣言発令中で太極拳教室以外はほとんどお出かけなしの1月2月だけれど、読書の日々も悪くないと思うのであります。

 

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佐藤亜紀の「天使・雲雀」は脳みそがグチャグチャ?!やがてワクワクゾクゾク!!

2021-01-24 14:16:34 | 本と雑誌

緊急事態宣言が出て2週間。感染者数はビミョーに減ってきているようだが、昼間の人出はあまり変わらないように思える。

今回は前回と違って横浜市内スポーツ施設は閉鎖にならず、太極拳教室は休講なしで継続中。入館時の検温、手の消毒、利用後の掃除と更衣室は触ったところをアルコール消毒。終了後のお茶は控えめでアルコールなし。黙々とお茶をして、マスクしてちょこっとお喋りして帰る。。。😞

暮れの感染者数(急増!!)を見てさすがに気持ちが悪くなり、このところは不織布マスクの上にさらに布マスクを重ねてのマスク二重付けである。そのせいかどうか、唇が荒れてきた😅週に3〜4日、それもせいぜい半日くらいの着用でこれだから、毎日フルタイムで働いている人たちはこんなものじゃないんだろう。。。

 

年明けこの方お出かけなしのお籠り状態で、出費は減った。。ヒマである。。。

PCを買い替えてセットし直しも何とか終わり、時間ができたので積んでおいた本を読む日々。まず手に取ったのは佐藤亜紀の「天使・雲雀」であった。

時代は第1次世界大戦前後のヨーロッパを舞台に、”他者の脳に入ってその思考を読み、さらには操ることができる(!?)”という特殊な才能(感覚を備えた者)を持つ主人公(ジェルジュ)が間諜として育てられ、彼を軸に、ドイツ、オーストリア、ロシアなどの一触即発の政治状況の中で、同じ才能を持つ登場人物が政治的な駆け引き、騙し合い、闘いを繰り広げる壮大な物語。そこに個人的な憎しみ、愛などが重なっているので、最初は”感覚”という言葉の使われ方が分からず???(感覚を開いたり閉じたり、つまりは他人の頭の中に入ったり自分の頭に入られることを(閉じて)防ぐ、ということであります)。

オーストリアの皇太子が暗殺され、それが第1次世界大戦の引き金となった時代は、歴史の授業でよりも映画を通じて知ったことが多い。ルードヴィッヒや、暗殺されたオーストリア皇太子妃であるその従姉シシー。さらにはその時代に生きた音楽家や画家達。。。。

それまでの貴族社会が崩れ、帝国が崩壊し始め、社会が混乱しつつあるこの時代。どことなく退廃的な美意識が漂う当時の映像や暗さが本を読みながら拡がる。とっつきにくい本だが、読み始めてこの本の世界に入り込むと後は、ゾクゾクワクワク!の連続(^O^)

巻末の解説はいつも絶対的に信頼している書評家・豊崎由美さんが書いているのだが、その一節がこの本の素晴らしさを見事に紹介している。以下に勝手に引用させていただきます。

ーーー選ばれし者の恍惚と孤独。帝国と名家の栄光と没落。その悲哀と諦観。エスピオナージュ(諜報)小説の不穏と、歴史小説の教養と、ビルドゥングスロマンの快感と、恋愛小説の甘美と、サイキックウォーの興奮を備えた『天使』と『雲雀』・・・・ーーーー

 

 

 

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「霧の彼方 須賀敦子」若松英輔・著を読んで考える、”たましい”のこと

2020-12-08 10:42:16 | 本と雑誌

「コルシア書店の仲間たち」、「ミラノ 霧の風景」、「ユルスナールの靴」、「時のかけらたち」・・・・。本棚に並ぶ須賀敦子の著作。

キラリと小さな光を放つ宝石のように、ひっそりと仄かに心の奥深くに仕舞われているその言葉や、そこに描かれる街や風景が、ふとした時に気持ちを鎮めてくれる。

 

2020年6月に発行された若松英輔による「霧の彼方」は、須賀敦子の世界をより深く理解する一助となる本であった。

帯に「信仰と書物。」とあるように、この本は、1947年にキリスト教の洗礼を受け、聖心女子大学に進学し、信仰や祈りに日常的に接していた須賀敦子が、1960年に初めてミラノを訪れコルシア書店に深く関わることになったその足跡と翻訳家を経て著作家となっていく過程を辿りながら、須賀敦子の生きてきた時代と作品の評伝である。

 

コルシア書店で知り合った夫ペッピーノへの手紙の中に書かれたことについて、「彼女(須賀敦子)が重要だと考えたのは、何かをすること(doing)ではなく、その人間が存在すること(being)だった。これまでは、何をするべきかばかりを考え、彷徨い続けてきた。しかしこれからは、自分が「精一杯生き」うるところに身を置きたい、それが自分にとってはコルシア書店であることを、熱をこめて述べている。」とあるが、これを読んで我が意を得たり!!の気分。

これはワタシが最近太極拳を続ける中で感じたことに通じるものだ。

ワタシが考える太極拳運動は、ひとりで行う徒手の動きや形にしても相手と組んでの推手にしても、自分が「やる」じゃなく自然に「なる」もの。自然に「なる」まで練習を重ねて「やる」。多分、文章を書くという行為も、頭でアレコレ考えて作り上げるというよりも、心の奥から立ち上がってくる念いが言葉になり、それが文字となって小説や詩(翻訳もまたしかり)となって表現されるものなのだろう(宗教についても同様に)。

 

ある箇所では、身体と精神、神、たましいについての考察もある。

  「身体」、「精神」、「たましい」それらが人間を構成している。身体は精神とたましいとの器である〜〜〜中略〜〜須賀がーあるいはユルスナールがー考える「たましい」は「精神」と同じではない。「精神」を司るのは人間だが、「たましい」の主は人間ではない。人間を超えた者、ユルスナールがいう「おん者Celui」、キリスト者たちが「神」と呼ぶ者にほかならない。」〜これも共感するところが大いにある。そうそう納得!!なのであった。

この本の中で、著者の若松英輔はこう書いている。「思ったことを書くのではない。書くことで「思い」の奥にある「念い」と呼ぶべきものを確かめようとしているようでもある。」

”思いの奥にあるもの”。。。。静かに深く、でも強く発する何か言葉では表現できないもの、存在を感じることはできるが、確かめることのできないもの。。。それを神というのか、たましいというのか、信念というのか、人それぞれ拠り所とするものは違うだろう。

 

須賀敦子が暮らしたミラノは、まだ第2次大戦の記憶が残る時代である、

ミラノはドイツの「占領」がもっとも長く続いた街のひとつで、”ロレート広場は、ファシスト政権によるパルチザンの処刑が行われた場所であり、その九ヶ月後にはパルチザンによって捕らえられ、処刑されたムッソリーニの遺体が吊された場所でもある”という記述がある。今日ではファッションの聖地として知られる街には、この時代の戦いと悲劇の記憶が見えないかたちで残っている。そんな時代に暮らした須賀敦子が見て、体験して、感じ、考えた様々なことが、彼女の著作に凝縮されているのだろう。

 

今年のコロナ第一波が広がっていたちょうどイースターの時、イタリアのテノール歌手アンドレア・ボッティチェッリが誰もいない大聖堂で「Ave Maria」と「Amazing Grace」を歌ったシーンが忘れられない。YOU TUBEで放映された映像には、人っ子ひとりいない世界中の大都市(ミラノ、ローマ、パリ、ロンドン、ワルシャワ、北京、N.Y・・・)の光景が次々と映し出されて、胸が痛くなった。その光景を思い出しながら、本棚に並ぶ須賀敦子の本をもう一度読み直してみようと思うのであった。

ザワザワと気持ちが波立つことの多いコロナの時代に、須賀敦子の美しい文章と、静かに人生を貫く”たましい”と強い信念の源を知ると、孤独であることの大切さ、自分自身を保つことの意味などを考えずにはいられない。

 

それにしても500ページ弱になる本を読み込むのは数年ぶり。しかも物語ではなく”評伝”である。文章を考えながら読み進むのは結構しんどかった💦💦頑張った!ワタシ\(^_^)/でありました。

若松英輔著・集英社刊

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