犬神スケキヨ~さざれ石

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『死』を見つめる

2017-02-01 21:30:12 | 草莽崛起
いきなり何というタイトルか!

と、思われた方もおられますかね。

まぁ、いきなりこんなタイトルですが、私自身の死に対する意識や考えを話してみようかと思います。

恐怖心はない

私は死に対する恐怖心が殆どありません。

死を恐怖するより、好奇心の方が強い。

まあ、チョット変わっているかもしれないけれど死に対する恐怖心はない。
これが私自身です。

何故、恐怖心がないのかと言えば
人は全て死から逃れることは出来ず、必ず死ぬ
そういうことだからです。

死は自然であり、常に死がそこかしこにある。

逃れることが出来ないならば、恐怖心は無意味です。

他人の死は幾つも見て来たけれど、自身の死は未だ体験していません。
ですから、恐怖心より好奇心が勝るのです。

しかしそれだけではありません。

私とて、今は死への恐怖心が殆どありませんが、若い頃には死への恐怖心を感じたものです。

しかし、死を自ら受け入れてしまえば、なんて事はありません。

我々は自然

以前に古事記で話しましたが、我々日本人は神話と系譜が地続きという世界にも稀な民族です。

古事記には様々な神が登場します。

その古事記に登場する神々はどこから生まれたのか?

神々は自然から生まれた

神道の神々は他の宗教とは違うのです。

そもそも神道は宗教ではないのです。

神道は信仰ではあるけれど宗教ではない。

例えば、キリスト教などは唯一絶対の神が存在し、その神がこの世界を作り出した。
そうなっています。

しかし、我々日本の神々は自然の中から最初の神が生まれ、そして様々な神々が次々生まれた。

古事記には神々の振る舞いや、系譜を示しており、その物語の中に日本人の生き方を込めてあるのです。

古事記に触れ、死を恐怖する事から変わった
と、これが結論とも言えます。

古事記は言わば、日本の成り立ちを記しています。

我々が暮らす日本は伊邪那岐命・伊邪那美命の国生みにより出来たと古事記にあります。

我々が暮らす日本は言わば神々が創りたもうた国なのです。

その神々はどこから生まれたかと言えば自然から生まれたわけです。

例えば、東京や大阪のど真ん中に熊が出たとして、その熊を捕獲したり或いは射殺するかもしれないけれど、幾ら都会の真ん中に熊が出たからとて『熊を絶滅させてしまえ!』とは考えません。

兵庫県の神戸辺りは、しょっちゅう猪が住宅地などの人が暮らす場所に出没します。

突進されたり、噛まれたりとケガ人が出ます。

しかし、山に分け入って『猪を絶滅しよう』とはなりません。

それは、日本という土地は神々が創りたもうたからで、その神々は自然から生まれた
猪は日本に暮らす動物です。
その日本は神々が創りたもうた。
日本を創りたもうた神々は自然から生まれた。
神々を生んだ自然とは猪が暮らす場所。

だから我々日本人には猪を絶滅させてしまえなんて事は思いません。

その自然から生まれた神々の系譜はそのまま初代天皇である神武天皇に繋がるのです。

そして神武天皇は2677年の時を経て
125代今上陛下へと続く

その御上の臣民であり大御宝の我々日本人。

その日本人は全て皇室と何がしかの血縁を持つのです。

抱かれている

天皇とは正にその様な存在なのです。

自然から生まれた神々、その系譜を継ぐ今上陛下と我々日本人。

つまり我々は、いや私は
自然に抱かれている

私はそう考えます。

生も死も自然です。
自然の営みです。

全てはこの宇宙に必要な営みです。

死は私の影を踏むのでもなく。
死は私に迫って来るのでもなく。
死は私の隣にいるのでもなく。
死は私と背中合わせでもなく。

死は私の中に常に存在し、それは自然の営みで、私自身はその自然に抱かれている

戦前の日本人は古事記を習いました。

古事記を習った日本人は何をしたか?

自らの命と引き換えに後世の我々へと命を繋いだのです。

例えば、特攻隊員は何故、死を受け入れたのか?

私は、その答えは『自らの中に自然にある死を見つめる事が出来たから』ではないか?
そんな風にさえ思えます。

本当に必要な場面で死の恐怖を脱し、死を受け入れれたのはやはり、その根っこを知っていたからではないでしょうか?

その根っことは神々や神話と地続きの系譜をもつ民族であるということ。

しかし私は決して『死ね』と言っているのではありません。

死ぬ理由を考えると言う事です。

人は死ぬ。

死ねば何もない。

ただ土に還るだけ。

だからこそ死ぬ理由を考えなければならない。

あなたの死ぬ理由はなんでしょうか?

愛する家族の為、子供の為。

死ぬ理由こそが生きる意味

私はそう思います。

愛する人の為に死ねるなら、それこそが生きる意味です。

私はいつ死ぬかは解りません。

しかし確実に死ぬ。

死は私の外にあるのではなく、私の中にあり、死は自然の営み。

その自然に抱かれているのですから、死は恐怖ではなく、私へのこの宇宙からの最後の回答なのではないでしょうか。