さて、前回は日本人のルーツについて話しました。
敗戦後教育や敗戦後の定説を瓦解させる、現在の科学的分析。
文献の定説瓦解
日本人のルーツ定説瓦解
今回は『米』についてです。
我々が受けた教育では稲作は朝鮮半島より伝わった!とされて来ました。
しかし、これは明らかにデタラメです。
我々日本人の主食である米の定説を瓦解させてみましょう。
『三国史記』に新羅9代王伐休(パリュ)についての記述があります。
「干ばつや穀物の豊凶を予知し…(中略)人々はこれを聖人と呼んだ」
これは、この伐休が『農業指導者』であったと示しているのです。
伐休は倭種です。倭種とはつまり日本人の血を引く者です。
新羅本紀の中で聖人と呼ばれるのは初代・朴赫居世(パクヒョッコセ)と9代王伐休だけです。
つまり、朝鮮半島の人々に衝撃を与える何かがあったのではないか?
と、考えられるのです。
その衝撃とは朝鮮半島に稲作を含む新しい農法や、気象予想などの対応を指導したのではないか?
それが倭種である王・伐休だったのではないでしょうか?
新羅本紀には『嘉禾』(カッファ)と言う熟語がしばしば出て来るのですが、186年の7月の記述が初出です。
『南新県が嘉禾を献上した』
この嘉禾は「嘉禾とは穂が沢山なる稲の事だ」と言うのが朝鮮の主張です。
しかし、早場米があったわけでもないのに、陰暦の7月に見事な稲穂を献上出来るはずもない。
1984年の記事で、南新県は麦の産地とされていますから、それを踏まえ考えると
嘉禾とは「冬撒きの麦」
と、考えられます。
新羅本紀にも百済本紀にも『農業に力を入れろ』と指導した王はいても『干ばつや豊凶を予知し、聖人と呼ばれた王』は伐休のみ。
三国史記全編を通しても倭種王・伐休しかいません。
また『列伝』と言う個々人の業績を記したものの中にも農業専門家は登場しません。
しかし伐休が朝鮮半島民族に農業指導をしていたとしても、その後も新羅の主食は栗でした。
現代日本人は、いつからか『稲作は半島から渡来人によって伝えられた』と頑なに信じる人々がいます。
これは敗戦後の教育が原因の一つでもあります。
今だに『弥生人は縄文人と渡来人の混血』説がまかり通り、現代日本人はその子孫だと、何らの根拠もない話しを信じる人々の多い事か。
しかし前回示した通り、我々現代日本人は明らかに渡来人との混血がルーツではありません。
しかし、米についても
稲は支那雲南省辺りから南シナ海を経由して九州に到達した
これはDNA解析を駆使して得た研究結果です。
世界的にも『朝鮮半島を経由して稲がやって来た』などという主張は全く通りません。
韓国の学習指導要領にさえ稲作の日本列島への伝播経路を支那南部から東シナ海を経由したと示しているのです。
朝鮮半島の稲はどこから来たのか?
これには
山東半島や遼東半島経由で伝播した
この様に韓国『高等学校国定国史』に書かれてあります。
近年の考古学研究によれば、馬韓地域には3500年前には米があった事はわかっています。
『三国史記』の記述に出て来ます。
しかし、かなり特殊な米だと思われます。
それが先に述べた嘉禾(カッファ)という冬撒きの麦です。
遺伝子工学の研究結果からわかっているのは、米には品種特性を決定付ける遺伝子が7種類あります。
このうち、古代から現代に至るまでの日本で発見された米の遺伝子は二つです。
これは
温帯ジャポニカ
熱帯ジャポニカ
この二種類です。
水稲と陸稲の二種類。
熱帯ジャポニカは陸稲と言って畑で育てる米です。
稲にはガラス質で覆われたプラントオパールと言うものがあります。
これは実に強靭な細胞で、稲が腐食しようと焼かれ様と残ります。
これが約6000年前の縄文初期の地層から大量に発見されました。
このプラントオパールは朝鮮半島からは一粒しか見つかっていません。
熱帯ジャポニカは支那朝鮮では分布せず、東南アジア辺りに広く分布しています。
近年の炭素14測定法による年代測定で、朝鮮半島よりも日本の方が稲作は遥かに古いことがわかって来ました。
日本の稲作開始は、陸稲栽培で6700年、水稲栽培で3200年程度まで遡ることが判明
これに対して朝鮮半島では1500年した遡ることが出来ません。
また朝鮮半島の稲作は九州北部の栽培法と酷似しており、遺伝子学的にも日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多い事もわかりました。
この結果から
水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で伝播した
これは支那政府の調査機関でも調査が進み間違いないと結論が出ています。
日本で出土した米は朝鮮半島に存在しない品種もあるのです。
日本の米は熱帯ジャポニカ、温帯ジャポニカが自然交配して早生品種が出来たと考えられます。
また、前回述べた様に南回りで日本列島に辿り着いた日本人の祖先は既に熱帯ジャポニカを携えて渡って来たとも考えられます。
そもそも昔も今も支那朝鮮では『田』は『畑』を意味しています。
例えば百済本紀に出て来る『稲田』は水田ではなく陸稲を指していると考えられます。
陸稲の前に水稲が存在するはずもなく、これは畑で栽培する稲と言うことでしょう。
我が国は農業国家です。
古くから農業を行なって来ました。
天孫降臨の際に、天照大御神は邇邇芸命に神勅を与えました。
それは
豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく邇皇孫就きて治せ。
これは豊葦原中国、つまり地上世界は瑞穂、つまり稲穂が実る国だと言っているのです。
この日本という国は米がたわわに実る国だと言っているのです。
何を食べるのか?
これはその民族にとって一番重要なことです。
日本人にとっての米は大変重要なものです。
だからこそ『主食』足り得たのでしょう。
我々日本人にとっての米は、神話に記される程に切っても切れないもの。
今一度、農業国家日本を根っこから見つめ直すべき時ではないでしょうか?
敗戦後教育や敗戦後の定説を瓦解させる、現在の科学的分析。
文献の定説瓦解
日本人のルーツ定説瓦解
今回は『米』についてです。
我々が受けた教育では稲作は朝鮮半島より伝わった!とされて来ました。
しかし、これは明らかにデタラメです。
我々日本人の主食である米の定説を瓦解させてみましょう。
文献にもあるじゃないか
『三国史記』に新羅9代王伐休(パリュ)についての記述があります。
「干ばつや穀物の豊凶を予知し…(中略)人々はこれを聖人と呼んだ」
これは、この伐休が『農業指導者』であったと示しているのです。
伐休は倭種です。倭種とはつまり日本人の血を引く者です。
新羅本紀の中で聖人と呼ばれるのは初代・朴赫居世(パクヒョッコセ)と9代王伐休だけです。
つまり、朝鮮半島の人々に衝撃を与える何かがあったのではないか?
と、考えられるのです。
その衝撃とは朝鮮半島に稲作を含む新しい農法や、気象予想などの対応を指導したのではないか?
それが倭種である王・伐休だったのではないでしょうか?
新羅本紀には『嘉禾』(カッファ)と言う熟語がしばしば出て来るのですが、186年の7月の記述が初出です。
『南新県が嘉禾を献上した』
この嘉禾は「嘉禾とは穂が沢山なる稲の事だ」と言うのが朝鮮の主張です。
しかし、早場米があったわけでもないのに、陰暦の7月に見事な稲穂を献上出来るはずもない。
1984年の記事で、南新県は麦の産地とされていますから、それを踏まえ考えると
嘉禾とは「冬撒きの麦」
と、考えられます。
新羅本紀にも百済本紀にも『農業に力を入れろ』と指導した王はいても『干ばつや豊凶を予知し、聖人と呼ばれた王』は伐休のみ。
三国史記全編を通しても倭種王・伐休しかいません。
また『列伝』と言う個々人の業績を記したものの中にも農業専門家は登場しません。
しかし伐休が朝鮮半島民族に農業指導をしていたとしても、その後も新羅の主食は栗でした。
とっくの昔に
現代日本人は、いつからか『稲作は半島から渡来人によって伝えられた』と頑なに信じる人々がいます。
これは敗戦後の教育が原因の一つでもあります。
今だに『弥生人は縄文人と渡来人の混血』説がまかり通り、現代日本人はその子孫だと、何らの根拠もない話しを信じる人々の多い事か。
しかし前回示した通り、我々現代日本人は明らかに渡来人との混血がルーツではありません。
しかし、米についても
稲は支那雲南省辺りから南シナ海を経由して九州に到達した
これはDNA解析を駆使して得た研究結果です。
世界的にも『朝鮮半島を経由して稲がやって来た』などという主張は全く通りません。
韓国の学習指導要領にさえ稲作の日本列島への伝播経路を支那南部から東シナ海を経由したと示しているのです。
朝鮮半島の稲はどこから来たのか?
これには
山東半島や遼東半島経由で伝播した
この様に韓国『高等学校国定国史』に書かれてあります。
近年の考古学研究によれば、馬韓地域には3500年前には米があった事はわかっています。
『三国史記』の記述に出て来ます。
しかし、かなり特殊な米だと思われます。
それが先に述べた嘉禾(カッファ)という冬撒きの麦です。
遺伝子
遺伝子工学の研究結果からわかっているのは、米には品種特性を決定付ける遺伝子が7種類あります。
このうち、古代から現代に至るまでの日本で発見された米の遺伝子は二つです。
これは
温帯ジャポニカ
熱帯ジャポニカ
この二種類です。
水稲と陸稲の二種類。
熱帯ジャポニカは陸稲と言って畑で育てる米です。
稲にはガラス質で覆われたプラントオパールと言うものがあります。
これは実に強靭な細胞で、稲が腐食しようと焼かれ様と残ります。
これが約6000年前の縄文初期の地層から大量に発見されました。
このプラントオパールは朝鮮半島からは一粒しか見つかっていません。
熱帯ジャポニカは支那朝鮮では分布せず、東南アジア辺りに広く分布しています。
近年の炭素14測定法による年代測定で、朝鮮半島よりも日本の方が稲作は遥かに古いことがわかって来ました。
日本の稲作開始は、陸稲栽培で6700年、水稲栽培で3200年程度まで遡ることが判明
これに対して朝鮮半島では1500年した遡ることが出来ません。
また朝鮮半島の稲作は九州北部の栽培法と酷似しており、遺伝子学的にも日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多い事もわかりました。
この結果から
水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で伝播した
これは支那政府の調査機関でも調査が進み間違いないと結論が出ています。
日本で出土した米は朝鮮半島に存在しない品種もあるのです。
日本の米は熱帯ジャポニカ、温帯ジャポニカが自然交配して早生品種が出来たと考えられます。
また、前回述べた様に南回りで日本列島に辿り着いた日本人の祖先は既に熱帯ジャポニカを携えて渡って来たとも考えられます。
そもそも昔も今も支那朝鮮では『田』は『畑』を意味しています。
例えば百済本紀に出て来る『稲田』は水田ではなく陸稲を指していると考えられます。
陸稲の前に水稲が存在するはずもなく、これは畑で栽培する稲と言うことでしょう。
古事記
我が国は農業国家です。
古くから農業を行なって来ました。
天孫降臨の際に、天照大御神は邇邇芸命に神勅を与えました。
それは
豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく邇皇孫就きて治せ。
これは豊葦原中国、つまり地上世界は瑞穂、つまり稲穂が実る国だと言っているのです。
この日本という国は米がたわわに実る国だと言っているのです。
何を食べるのか?
これはその民族にとって一番重要なことです。
日本人にとっての米は大変重要なものです。
だからこそ『主食』足り得たのでしょう。
我々日本人にとっての米は、神話に記される程に切っても切れないもの。
今一度、農業国家日本を根っこから見つめ直すべき時ではないでしょうか?