今回も古事記ではありません。
草莽崛起カテゴリーです。
古事記は終わる訳ではなく、充電中と言うところです。
しかし、常に根っこは繋がります。
それを意識しながら読んで頂いたら有り難い限りです。
「何故?」の答えは根っこにあります。
是非、それを感じて頂きたいのです。
神風
神風特別攻撃隊
皆さんも当然ご存知ですね?
しかし、我々後世の者はこの「特攻隊」を教えられていません。
特に日本の学者や教育では「特攻は殆ど成果がなかった」といい加減なことを吹き込まれました。
果たして、そうなのでしょうか?
しかし、米軍側が特攻による被害を正確に伝えています。
特攻による死傷者は大戦中の海軍の被害全体の80%に登る
特攻があった為に、日本本土に海軍を進めることができなかった
米軍は特攻による被害を無かった事にしなければならず、その為に敢えて軍船を撤退させなかった
これが事実です。
公式に述べているのです。
神州不滅特別飛行攻撃隊
昭和20年8月19日
ポツダム宣言受諾後の話です。
つまり、終戦4日後にそれは崇高なる博愛を見せ護国の柱となった人がいました。
夫婦で護国の柱となった。
そんな日本人の話です。
谷藤徹夫少尉と二つ年上の姉さん女房朝子さんご夫妻です。
谷藤徹夫少尉
大正12年、青森県下北群田名部生まれです。
田名部とは、現在のむつ市。
恐山の麓辺りだそうです。
谷藤少尉の父は、当時は劇場や映画館、蓄音機を販売したりする店を経営していました。
谷藤少尉はその長男です。
幼い頃の少尉は勉強も運動も抜群でした、しかし華奢な体つきで背も低く、まるで女の子みたいにきれいな少年でした。
勉強は何時も学年でトップ、礼儀正しく物静か。しかし、華奢な体つきもあり必須科目の柔道や剣道は体の大きな少年には歯がたたなかったけれど、運動神経抜群の美しい顔立ちの少年でした。
窓際に座りクラシックを聴くのが好きだったそうです。
昭和17年、谷藤少尉は中央大学の法科を卒業し、青森県に帰省して徴兵検査をうけましたが結果は不合格。
第2種合格。第2種とは予備役です。
現役兵士としては不合格、体が小さいという理由でした。
当時は優秀な若者は兵士か教師か政治家を目指した時代です。
これは大変ショックだった様です。
仕方なく、日本ビクター蓄音機に就職。
営業マンとして毎日忙しく過ごしていました。
その忙しい毎日を過ごす中、ある一枚のポスターを見つけます。
学鷲募集
陸軍が航空戦力の増強を図る為にパイロットの育成をしようと、大卒者を対象に「特別操縦見習士官」の制度を創設しましま。
昭和18年7月の事です。
この制度ならば一年でパイロットになれます。
谷藤少尉は「チャンス」と応募しました。
募集枠は一、ニ期合わせて3,000名。
倍率6倍の狭き門です。谷藤少尉は青森県で唯一の合格者となりました。
昭和18年10月、福岡県の「大刀洗陸軍飛行学校」に入学します。
訓練は大変厳しく、数年掛けて仕込まれる操縦、軍事法規、国際法、航空力学をたった一年で習得しなければなりません。
この頃の谷藤少尉のお母さんが谷藤少尉に手紙を書いています。
「~今の母は、一刻も早く立派な学鷲として大空へ進発し、真珠湾以上の偉勲を立てて下さるよう、ひたすら神に祈っています。
はばたきて
大空翔る姿をば
見るまで母の心もとなき
この歌はつたなきけれど母の真心を思い下されますよう。」
母は偉勲を祈ってくれています。
当時の飛行訓練とは危険極まりないものでした。親なれば「飛行兵だけはなってくれるな…」と、思いました。
シュミレーター等ない時代ですから、訓練中の事故も多く、訓練を終えて戦地に行けば、まず生きては帰れません。
いくら航空兵の親とて人間です。
我が子の無事を祈らぬ親などいません。
その心配を押し殺し我が子の偉勲を祈っているのです。「心もとなき…」我が子への愛と不安を最大限押し殺した表現ではないでしょうか?
谷藤少尉は訓練中の休暇で福岡の親戚の家を訪ねました。
そこで紹介されたのが、二つ年上の朝子さんでした。
二人は一目惚れでした。
男は美少年、成績優秀で運動も抜群、クラシック音楽を愛し温厚でエリート中のエリート。
女は美人で性格も温厚で明るく働き者。
二人は惹かれ合い結婚の約束をしました。
実は朝子さんのお姉さんは心配でした。
朝子さんのお姉さんのご主人は傷痍軍人でした。大怪我をし普通に働く事さえ困難な体になり恩給を頂いていました。
しかし、パイロットは怪我で帰る事は殆どありません。撃墜されれば生きては帰れません。
そこでお姉さんは朝子さんに「軍人の妻になると言う事はいつ未亡人になるかわからない身の上です。貴女は覚悟が出来ているの?」と聞きました。
朝子さんは「いつか別れが来るでしょう。覚悟はしています。」と答えました。
二度と会えない人になろうと、どうしてもこの男性と一緒になりたい。
其れ程に谷藤少尉を愛していました。
そして昭和19年晴れて結婚し夫婦となりました。しかし谷藤少尉はまだその頃は訓練生。
新居を構える訳にもいかず、休日だけ朝子さんの実家に帰り二人で過ごす、そんな生活をしていました。
卒業
遂に10月、谷藤さんは卒業し陸軍少尉として任官しました。
しかし谷藤少尉に与えられた任務はなんと訓練教官でした。
それも満州で少年飛行兵に基礎操縦を教える任務でした。
少年飛行兵とはいよいよ押し迫る戦線に知覧から飛び立つ特攻員です。
しかもこの時点ではまだ戦場にすらなっていない「満州」です。
谷藤少尉が卒業したのは「特別操縦見習士官」です。
パイロットの即戦力を養成する学校です。
卒業生は、全員南方の激戦地に送られます。
しかし、谷藤少尉に与えられた任務は戦闘地にすらなっていない満州です。
実戦経験もない訓練を終えたばかりのパイロットです。その新米が「教官」です。
これは当時の日本陸軍を考える上で非常に重要です。
谷藤少尉は長男です。更に新婚です。
日本陸軍は、そうした身の上を把握して人事を行っていました。
そして、谷藤少尉らを訓練した教官もまた生徒一人一人の身の上をしっかり把握した上で陸軍省に上申していました。
その上申を基に陸軍省も人事を行っていました。
昨今の民間企業では、単に業績や成績のみを重んじ能力制度だ!と、制度化している。
企業には私生活や個人の事情など関係ない。
しかし、人間は会社だけが全てではなく人それぞれの家庭も事情もあります。
しかし人事とは本来個人の能力や事情をしっかり把握して行う事こそが本来ではありませんかね。
そして、谷藤少尉は其れ等を考慮し更にその人柄や能力、成績などから「南方で死なせるには余りに惜しい」と判断されました。
だからこそ上官は谷藤少尉の私的な事情を考慮し更に上の陸軍人事まで根回し掛け合って谷藤少尉の命を守ろうとしました。
それが当時の日本陸軍では当たり前の事なのです。
本当に優秀な人材は国を挙げて守ろうとしました。それが当時の日本であって決して軍国主義と言うような国ではなく「犠牲」を減らそうとしていました。
任地「満州」へ向かう日がやってきました。
その見送りに来た朝子さんに谷藤少尉は「満州は平穏だそうだから、必ずお前を呼んで一緒に暮らそう。その時まで待っていてくれよ」と言いました。
朝子さんは故郷の福岡を離れ谷藤少尉の実家に向かいました。
谷藤少尉と結婚したからには谷藤家の嫁です。
だから夫のいない青森県の夫の実家で暮らす。
そこで夫に呼ばれる日を待つことにしました。
青森の実家は長男が航空兵として出征しており、まるで家の中は火が消えたようでした。
そこへ兄嫁がやって来た。
谷藤少尉の弟、朝子さんの義弟にあたる勝男さんが「初雪を見ると朝子さんを思い出します。九州育ちの朝子さんは雪国の生活が新鮮だったようですね。」と語ります。
「初雪を見た朝子さんは飛び上がらんばかりに喜んでました。屋根に上がったかと思うとバケツ一杯に雪を集めて皿に盛り砂糖をかけて、おいしいわと食べてました。」
明るく朗らかな性格で笑顔が絶えず、働き者の美人の若奥さん。
家の中はいっぺんに朗らかな様子に変わりました。谷藤家の誰もが朝子さんを好きになりました。
満州へ
昭和20年7月終戦間近となった日、遂に谷藤少尉から「一緒に暮らせる」と便りが届きました。待ち焦がれた便りです。
朝子さんはどれほど嬉しかったでしょう。
一旦、故郷の唐津に戻り下関から釜山行きの船に乗りました。
お母さんは朝子さんに「一生懸命内助の功に尽くしなさい」と朝子さんに言いましたが、娘の身が案じられて仕方ありません。
満鉄を乗り継ぎ、やっと大虎山駅に着いた朝子さんを谷藤少尉は出迎えました。
谷藤少尉は将校服に身を包み最大限の敬意を以って愛する妻を出迎えました。
9か月ぶりの再会に二人はどれほど嬉しかったことでしょうか?
いよいよ官舎で新婚生活が始まりました。
当時の様子を第五練習飛行隊長箕輪三郎中尉の奥さんが「二人は本当に仲睦まじくて、谷藤さんが出て行くときに奥さんが投げキッスをするんです、それを見ていたうちの子が『谷藤のおばちゃんのアレは何?』と聞くので、行ってらっしゃいの合図だと教えると主人が出かける時に真似して投げキッスをしてましたよ」と話しています。
谷藤少尉が勤務していた第五練習飛行隊は知覧から飛び立つ特攻隊員を育てる訓練をしていました。
訓練はもっぱら急降下ばかり。特攻を意識した操縦法です。
当時訓練生だった前田多門さんが「温厚で教え方も丁寧で優しい教官でした。日本国内の訓練では下士官上がりの教官にはしょっちゅう殴られましたが、大虎山では一度も殴られなかった。操縦は上手い教官ではありませんでしたが立派な人格者でした。」と谷藤少尉について話しています。
箕輪三郎中尉の奥さんは「谷藤さんは主人の副官をしていましたが、よく主人は『谷藤には教えられることが多い』と話してました。少年兵がミスをすると主人はカッとなり怒鳴っていたそうですが後から谷藤さんに『人前では直ぐに怒らずに、こっそり部屋に呼んで諭した方が良い』と言われて素直に聞き入れたそうですよ」と話しています。
しかし育てるのは特攻隊員です。卒業すれば体当たりの攻撃をする。生きては帰れません。
「必ず後から行く」と生徒全員に話していたそうです。
しかし、谷藤少尉に特攻出撃の命令はありませんでした。
ソ連
昭和20年8月9日
ポツダム宣言受諾をし事実上終戦を迎えた後、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄。
満州に侵攻してきました。
8月18日、第五練習飛行隊二宮准尉が大虎山から300kmほど離れた赤峰でソ連軍を偵察飛行して確認していました。報告によると「兎の様に逃げ回る邦人をソ連軍は機関銃で撃ち殺し戦車で轢き殺していた」と言うものでした。
そしてその日司令部から「武装解除し航空機全機を錦県の航空基地に移しソ連軍に引き渡せ」と命令が下りました。
飛行場の近くの小料理屋「伊予屋」に飛行隊有志が集まり「戦わずに降伏なんかできるか!」と気炎をあげていました。
しかし、空からソ連軍を攻撃する爆弾など装備がありません。
唯一の戦法はソ連軍戦車への体当たり。
爆弾など装備しない体当たりでは大した損害を与えることは出来ません。
しかし、「特攻」を受けたことがないソ連軍への精神的ダメージは多大です。
それにより少しでも多くの日本人居留民が帰還する時間稼ぎにはなります。
彼らは決心しました。
そして自らの特攻隊を神州不滅特別攻撃隊と名付けました。
自分達が亡き後も祖国が未来永劫栄えてもらいたい一心で命名しました。
一夜明け19日早朝、11名のパイロット達は将校集会所に集まりました。
最後の作戦会議です。
そこへ偶然、箕輪隊長が入って来ました。
黒板に書かれた文字、図、只ならぬ気配を察しました。
「コイツら命令を無視してソ連軍に特攻するつもりだな…」
箕輪隊長に打ち明けました。
箕輪隊長は「それならば俺が行く!」と言いました。しかし谷藤少尉はそれを諫めました。
「他にも隊員がいます。隊長には他の大勢の部下をまとめて頂きたい。見て見ぬふりをして下さい」
箕輪隊長は断腸の思いで「成功を祈る…」と告げました。
昭和維新の魁たんらんと
いよいよ出発の時。
11名の隊員は箕輪中尉の前に整列しました。
箕輪中尉はこう言った。
「これが諸君らの最後の任務である。残った兵士は陸路錦県に向かう、向こうで合流する」
もちろん彼らが錦県に行かない事は知っています。しかし、公式にはそう言わざるを得ない。
箕輪中尉はその様に激励しながら、こみ上げる思いを抑え切れず嗚咽する程でした。
11機の飛行機、11名の隊員。
その時、見送りの人達の中から谷藤少尉の飛行機に白いワンピース姿の朝子さんが現れ谷藤少尉の機の後部席に乗り込みました。
大蔵巌少尉の機には前日、打ち合わせにに使った伊予屋の女中スミ子さんが、これまた白いワンピース姿で乗り込みました。
エンジンが始動し、爆音と共に離陸。
一番機は谷藤少尉です。
そして次々と離陸しました。
飛行場の上で旋回し隊列を組みました。
この時、伴少尉の機体がエンジントラブルで近くに墜落しました。
残る10機は大空を錦県の方角ではなく北の赤峰に向かい消えて行きました。
前日の打ち合わせで谷藤少尉から「妻も…」と皆に告げたのかもわかりません。
しかし、そうならばそれ以前に谷藤少尉と朝子さんは「一緒に死のう」と約束を交わしていたはずです。
朝子さんは夫の只ならぬ表情に谷藤少尉の覚悟を感じとっていたのかもわかりません。
そして朝子さんは「自分もお供する」と言ったのでしょう。
谷藤少尉も止めたはずです。
しかし朝子さんに折れたのかもわかりません。
仲睦まじい二人が大ゲンカをしたかもしれない。しかし、ついて行くと言って聞かなかったのかもしれません。
特攻機に女を乗せるなどありません。
しかし、蛮行振る舞うソ連軍が来れば朝子さんはどうなるかわかりません。
だから谷藤少尉も一緒に行くと決めたのでしょう。
一緒に特攻された岩佐少尉は出撃の日、許嫁とその母を失っています。
出撃の朝、最後の別れを挨拶しようと訪れたら、許嫁とその母は白装束に身を包み「今から自刃します」と告げた。
その母娘は岩佐少尉の介錯で見事自決しました。
伊予屋のスミ子さんは名前しかわかりません。
しかし彼女は前日に谷藤少尉の奥さんが一緒に行くと知り「自分も連れて行ってくれ」と頼み込んだそうです。
そして大蔵少尉が乗せる事になりました。
11機が飛び立ったあと、小出宏少尉は今田達夫少尉から受け取っていた包みを開けました。
そこには封筒と短刀がありました。
封筒の中には「檄文」がありました。
戦い得ずして戦わざる空の勇士11名、生きて虜囚の汚辱をうけるを忍び難し、此処に神州特別攻撃隊を編成し昭和維新のさきがけたらんとす
大虎山を飛び立った10機は一路、赤峰ソ連軍戦車隊を目指しました。
しかし宮川次郎少尉の機体がエンジントラブルで墜落、地元民に救助された後、錦県に帰還。
その後シベリア抑留となりました。
谷藤少尉以下残る機体はどうしたのか?
今もよくわかりません。
恐らくは見事特攻に成功しソ連軍戦車隊を粉砕したことでしょう!
飛行場で墜落した伴少尉、途中墜落した宮川少尉、箕輪中尉など生き残った関係者はその後シベリア抑留となりました。
伴少尉はシベリア抑留中に落命されました。
彼らの抑留中、日本政府は最後の特攻をした11名について「正式な命令でなく、独断による特攻」として正式な調査もせず、また靖国に合祀もされませんでした。
シベリアから帰還した箕輪中尉はこのことを厚生省と粘り強く交渉し続け、昭和32年にやっと彼らを戦没者として認めさせ、靖国にも正式に合祀させました。
更に箕輪中尉は募金を集め昭和42年5月、東京世田谷の世田谷観音に神州特別攻撃隊顕彰碑を建立しました。
碑文には「谷藤少尉の如きは新婚間もない妻朝子夫人を後ろに乗せて」の一分が刻まれました。
朝子さんの白いワンピースはせめてもの「死装束」だったのかもわかりません。
本当に谷藤少尉と朝子さんは愛し合っていたのです。
どこまでも、どこまでも夫と一緒にいたい。
例え肉体は朽ち果てても魂は夫と共にありたいと思っていたのでしょう。
古来日本は肉体は失うとも魂は永遠に続くと考えていました。
だから、次に新しい肉体を持って生まれて来ようと魂は同じ。
前世の行いもまた持って生まれ変わるのだと。
そして転生する時には二つの魂が一つになり転生することもあると考えていました。
だから離れてはいけない。死出の旅も共にありたいと。愛する人と肉体から離れて魂が重なり合い一つになるのだと。
神州不滅特別攻撃隊とは神州、つまり我々の祖国日本が永遠に不滅であると信じた、その一念です。
祖国の不滅を信じ、だから彼らはその身を祖国に捧げたのではないでしょうか?
その不滅の祖国を後世の我々に託し自らは純粋なる魂を以って護国の柱となる。
神州を復興する人々、つまり後世我々を信じ神州を託したのです。
アメリカはこの純粋にして崇高なる自己犠牲を認めることができませんでした。
それは自分達が最高の「愛国者」だと信じていたからです。
自分達以上の愛国者など、存在しないと。
しかし、それは間違いでした。
死を恐れず、真っ直ぐに忠誠心を、愛国心を見せる民族がいた!
ただ純粋に愛する者を最高の自己犠牲で守る民族がいた。
高潔にして崇高なる気高い民族がいた。
世界最古の歴史を持つ国の、本当の愛国者を認める訳にはいかなかった。
だからこそ特攻による被害を隠したのです。
これが我々の先達です!
我々後世はこのような先達のお陰で今を生きているのです。
皆様、ゆめお忘れなき様。
草莽崛起カテゴリーです。
古事記は終わる訳ではなく、充電中と言うところです。
しかし、常に根っこは繋がります。
それを意識しながら読んで頂いたら有り難い限りです。
「何故?」の答えは根っこにあります。
是非、それを感じて頂きたいのです。
神風
神風特別攻撃隊
皆さんも当然ご存知ですね?
しかし、我々後世の者はこの「特攻隊」を教えられていません。
特に日本の学者や教育では「特攻は殆ど成果がなかった」といい加減なことを吹き込まれました。
果たして、そうなのでしょうか?
しかし、米軍側が特攻による被害を正確に伝えています。
特攻による死傷者は大戦中の海軍の被害全体の80%に登る
特攻があった為に、日本本土に海軍を進めることができなかった
米軍は特攻による被害を無かった事にしなければならず、その為に敢えて軍船を撤退させなかった
これが事実です。
公式に述べているのです。
神州不滅特別飛行攻撃隊
昭和20年8月19日
ポツダム宣言受諾後の話です。
つまり、終戦4日後にそれは崇高なる博愛を見せ護国の柱となった人がいました。
夫婦で護国の柱となった。
そんな日本人の話です。
谷藤徹夫少尉と二つ年上の姉さん女房朝子さんご夫妻です。
谷藤徹夫少尉
大正12年、青森県下北群田名部生まれです。
田名部とは、現在のむつ市。
恐山の麓辺りだそうです。
谷藤少尉の父は、当時は劇場や映画館、蓄音機を販売したりする店を経営していました。
谷藤少尉はその長男です。
幼い頃の少尉は勉強も運動も抜群でした、しかし華奢な体つきで背も低く、まるで女の子みたいにきれいな少年でした。
勉強は何時も学年でトップ、礼儀正しく物静か。しかし、華奢な体つきもあり必須科目の柔道や剣道は体の大きな少年には歯がたたなかったけれど、運動神経抜群の美しい顔立ちの少年でした。
窓際に座りクラシックを聴くのが好きだったそうです。
昭和17年、谷藤少尉は中央大学の法科を卒業し、青森県に帰省して徴兵検査をうけましたが結果は不合格。
第2種合格。第2種とは予備役です。
現役兵士としては不合格、体が小さいという理由でした。
当時は優秀な若者は兵士か教師か政治家を目指した時代です。
これは大変ショックだった様です。
仕方なく、日本ビクター蓄音機に就職。
営業マンとして毎日忙しく過ごしていました。
その忙しい毎日を過ごす中、ある一枚のポスターを見つけます。
学鷲募集
陸軍が航空戦力の増強を図る為にパイロットの育成をしようと、大卒者を対象に「特別操縦見習士官」の制度を創設しましま。
昭和18年7月の事です。
この制度ならば一年でパイロットになれます。
谷藤少尉は「チャンス」と応募しました。
募集枠は一、ニ期合わせて3,000名。
倍率6倍の狭き門です。谷藤少尉は青森県で唯一の合格者となりました。
昭和18年10月、福岡県の「大刀洗陸軍飛行学校」に入学します。
訓練は大変厳しく、数年掛けて仕込まれる操縦、軍事法規、国際法、航空力学をたった一年で習得しなければなりません。
この頃の谷藤少尉のお母さんが谷藤少尉に手紙を書いています。
「~今の母は、一刻も早く立派な学鷲として大空へ進発し、真珠湾以上の偉勲を立てて下さるよう、ひたすら神に祈っています。
はばたきて
大空翔る姿をば
見るまで母の心もとなき
この歌はつたなきけれど母の真心を思い下されますよう。」
母は偉勲を祈ってくれています。
当時の飛行訓練とは危険極まりないものでした。親なれば「飛行兵だけはなってくれるな…」と、思いました。
シュミレーター等ない時代ですから、訓練中の事故も多く、訓練を終えて戦地に行けば、まず生きては帰れません。
いくら航空兵の親とて人間です。
我が子の無事を祈らぬ親などいません。
その心配を押し殺し我が子の偉勲を祈っているのです。「心もとなき…」我が子への愛と不安を最大限押し殺した表現ではないでしょうか?
谷藤少尉は訓練中の休暇で福岡の親戚の家を訪ねました。
そこで紹介されたのが、二つ年上の朝子さんでした。
二人は一目惚れでした。
男は美少年、成績優秀で運動も抜群、クラシック音楽を愛し温厚でエリート中のエリート。
女は美人で性格も温厚で明るく働き者。
二人は惹かれ合い結婚の約束をしました。
実は朝子さんのお姉さんは心配でした。
朝子さんのお姉さんのご主人は傷痍軍人でした。大怪我をし普通に働く事さえ困難な体になり恩給を頂いていました。
しかし、パイロットは怪我で帰る事は殆どありません。撃墜されれば生きては帰れません。
そこでお姉さんは朝子さんに「軍人の妻になると言う事はいつ未亡人になるかわからない身の上です。貴女は覚悟が出来ているの?」と聞きました。
朝子さんは「いつか別れが来るでしょう。覚悟はしています。」と答えました。
二度と会えない人になろうと、どうしてもこの男性と一緒になりたい。
其れ程に谷藤少尉を愛していました。
そして昭和19年晴れて結婚し夫婦となりました。しかし谷藤少尉はまだその頃は訓練生。
新居を構える訳にもいかず、休日だけ朝子さんの実家に帰り二人で過ごす、そんな生活をしていました。
卒業
遂に10月、谷藤さんは卒業し陸軍少尉として任官しました。
しかし谷藤少尉に与えられた任務はなんと訓練教官でした。
それも満州で少年飛行兵に基礎操縦を教える任務でした。
少年飛行兵とはいよいよ押し迫る戦線に知覧から飛び立つ特攻員です。
しかもこの時点ではまだ戦場にすらなっていない「満州」です。
谷藤少尉が卒業したのは「特別操縦見習士官」です。
パイロットの即戦力を養成する学校です。
卒業生は、全員南方の激戦地に送られます。
しかし、谷藤少尉に与えられた任務は戦闘地にすらなっていない満州です。
実戦経験もない訓練を終えたばかりのパイロットです。その新米が「教官」です。
これは当時の日本陸軍を考える上で非常に重要です。
谷藤少尉は長男です。更に新婚です。
日本陸軍は、そうした身の上を把握して人事を行っていました。
そして、谷藤少尉らを訓練した教官もまた生徒一人一人の身の上をしっかり把握した上で陸軍省に上申していました。
その上申を基に陸軍省も人事を行っていました。
昨今の民間企業では、単に業績や成績のみを重んじ能力制度だ!と、制度化している。
企業には私生活や個人の事情など関係ない。
しかし、人間は会社だけが全てではなく人それぞれの家庭も事情もあります。
しかし人事とは本来個人の能力や事情をしっかり把握して行う事こそが本来ではありませんかね。
そして、谷藤少尉は其れ等を考慮し更にその人柄や能力、成績などから「南方で死なせるには余りに惜しい」と判断されました。
だからこそ上官は谷藤少尉の私的な事情を考慮し更に上の陸軍人事まで根回し掛け合って谷藤少尉の命を守ろうとしました。
それが当時の日本陸軍では当たり前の事なのです。
本当に優秀な人材は国を挙げて守ろうとしました。それが当時の日本であって決して軍国主義と言うような国ではなく「犠牲」を減らそうとしていました。
任地「満州」へ向かう日がやってきました。
その見送りに来た朝子さんに谷藤少尉は「満州は平穏だそうだから、必ずお前を呼んで一緒に暮らそう。その時まで待っていてくれよ」と言いました。
朝子さんは故郷の福岡を離れ谷藤少尉の実家に向かいました。
谷藤少尉と結婚したからには谷藤家の嫁です。
だから夫のいない青森県の夫の実家で暮らす。
そこで夫に呼ばれる日を待つことにしました。
青森の実家は長男が航空兵として出征しており、まるで家の中は火が消えたようでした。
そこへ兄嫁がやって来た。
谷藤少尉の弟、朝子さんの義弟にあたる勝男さんが「初雪を見ると朝子さんを思い出します。九州育ちの朝子さんは雪国の生活が新鮮だったようですね。」と語ります。
「初雪を見た朝子さんは飛び上がらんばかりに喜んでました。屋根に上がったかと思うとバケツ一杯に雪を集めて皿に盛り砂糖をかけて、おいしいわと食べてました。」
明るく朗らかな性格で笑顔が絶えず、働き者の美人の若奥さん。
家の中はいっぺんに朗らかな様子に変わりました。谷藤家の誰もが朝子さんを好きになりました。
満州へ
昭和20年7月終戦間近となった日、遂に谷藤少尉から「一緒に暮らせる」と便りが届きました。待ち焦がれた便りです。
朝子さんはどれほど嬉しかったでしょう。
一旦、故郷の唐津に戻り下関から釜山行きの船に乗りました。
お母さんは朝子さんに「一生懸命内助の功に尽くしなさい」と朝子さんに言いましたが、娘の身が案じられて仕方ありません。
満鉄を乗り継ぎ、やっと大虎山駅に着いた朝子さんを谷藤少尉は出迎えました。
谷藤少尉は将校服に身を包み最大限の敬意を以って愛する妻を出迎えました。
9か月ぶりの再会に二人はどれほど嬉しかったことでしょうか?
いよいよ官舎で新婚生活が始まりました。
当時の様子を第五練習飛行隊長箕輪三郎中尉の奥さんが「二人は本当に仲睦まじくて、谷藤さんが出て行くときに奥さんが投げキッスをするんです、それを見ていたうちの子が『谷藤のおばちゃんのアレは何?』と聞くので、行ってらっしゃいの合図だと教えると主人が出かける時に真似して投げキッスをしてましたよ」と話しています。
谷藤少尉が勤務していた第五練習飛行隊は知覧から飛び立つ特攻隊員を育てる訓練をしていました。
訓練はもっぱら急降下ばかり。特攻を意識した操縦法です。
当時訓練生だった前田多門さんが「温厚で教え方も丁寧で優しい教官でした。日本国内の訓練では下士官上がりの教官にはしょっちゅう殴られましたが、大虎山では一度も殴られなかった。操縦は上手い教官ではありませんでしたが立派な人格者でした。」と谷藤少尉について話しています。
箕輪三郎中尉の奥さんは「谷藤さんは主人の副官をしていましたが、よく主人は『谷藤には教えられることが多い』と話してました。少年兵がミスをすると主人はカッとなり怒鳴っていたそうですが後から谷藤さんに『人前では直ぐに怒らずに、こっそり部屋に呼んで諭した方が良い』と言われて素直に聞き入れたそうですよ」と話しています。
しかし育てるのは特攻隊員です。卒業すれば体当たりの攻撃をする。生きては帰れません。
「必ず後から行く」と生徒全員に話していたそうです。
しかし、谷藤少尉に特攻出撃の命令はありませんでした。
ソ連
昭和20年8月9日
ポツダム宣言受諾をし事実上終戦を迎えた後、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄。
満州に侵攻してきました。
8月18日、第五練習飛行隊二宮准尉が大虎山から300kmほど離れた赤峰でソ連軍を偵察飛行して確認していました。報告によると「兎の様に逃げ回る邦人をソ連軍は機関銃で撃ち殺し戦車で轢き殺していた」と言うものでした。
そしてその日司令部から「武装解除し航空機全機を錦県の航空基地に移しソ連軍に引き渡せ」と命令が下りました。
飛行場の近くの小料理屋「伊予屋」に飛行隊有志が集まり「戦わずに降伏なんかできるか!」と気炎をあげていました。
しかし、空からソ連軍を攻撃する爆弾など装備がありません。
唯一の戦法はソ連軍戦車への体当たり。
爆弾など装備しない体当たりでは大した損害を与えることは出来ません。
しかし、「特攻」を受けたことがないソ連軍への精神的ダメージは多大です。
それにより少しでも多くの日本人居留民が帰還する時間稼ぎにはなります。
彼らは決心しました。
そして自らの特攻隊を神州不滅特別攻撃隊と名付けました。
自分達が亡き後も祖国が未来永劫栄えてもらいたい一心で命名しました。
一夜明け19日早朝、11名のパイロット達は将校集会所に集まりました。
最後の作戦会議です。
そこへ偶然、箕輪隊長が入って来ました。
黒板に書かれた文字、図、只ならぬ気配を察しました。
「コイツら命令を無視してソ連軍に特攻するつもりだな…」
箕輪隊長に打ち明けました。
箕輪隊長は「それならば俺が行く!」と言いました。しかし谷藤少尉はそれを諫めました。
「他にも隊員がいます。隊長には他の大勢の部下をまとめて頂きたい。見て見ぬふりをして下さい」
箕輪隊長は断腸の思いで「成功を祈る…」と告げました。
昭和維新の魁たんらんと
いよいよ出発の時。
11名の隊員は箕輪中尉の前に整列しました。
箕輪中尉はこう言った。
「これが諸君らの最後の任務である。残った兵士は陸路錦県に向かう、向こうで合流する」
もちろん彼らが錦県に行かない事は知っています。しかし、公式にはそう言わざるを得ない。
箕輪中尉はその様に激励しながら、こみ上げる思いを抑え切れず嗚咽する程でした。
11機の飛行機、11名の隊員。
その時、見送りの人達の中から谷藤少尉の飛行機に白いワンピース姿の朝子さんが現れ谷藤少尉の機の後部席に乗り込みました。
大蔵巌少尉の機には前日、打ち合わせにに使った伊予屋の女中スミ子さんが、これまた白いワンピース姿で乗り込みました。
エンジンが始動し、爆音と共に離陸。
一番機は谷藤少尉です。
そして次々と離陸しました。
飛行場の上で旋回し隊列を組みました。
この時、伴少尉の機体がエンジントラブルで近くに墜落しました。
残る10機は大空を錦県の方角ではなく北の赤峰に向かい消えて行きました。
前日の打ち合わせで谷藤少尉から「妻も…」と皆に告げたのかもわかりません。
しかし、そうならばそれ以前に谷藤少尉と朝子さんは「一緒に死のう」と約束を交わしていたはずです。
朝子さんは夫の只ならぬ表情に谷藤少尉の覚悟を感じとっていたのかもわかりません。
そして朝子さんは「自分もお供する」と言ったのでしょう。
谷藤少尉も止めたはずです。
しかし朝子さんに折れたのかもわかりません。
仲睦まじい二人が大ゲンカをしたかもしれない。しかし、ついて行くと言って聞かなかったのかもしれません。
特攻機に女を乗せるなどありません。
しかし、蛮行振る舞うソ連軍が来れば朝子さんはどうなるかわかりません。
だから谷藤少尉も一緒に行くと決めたのでしょう。
一緒に特攻された岩佐少尉は出撃の日、許嫁とその母を失っています。
出撃の朝、最後の別れを挨拶しようと訪れたら、許嫁とその母は白装束に身を包み「今から自刃します」と告げた。
その母娘は岩佐少尉の介錯で見事自決しました。
伊予屋のスミ子さんは名前しかわかりません。
しかし彼女は前日に谷藤少尉の奥さんが一緒に行くと知り「自分も連れて行ってくれ」と頼み込んだそうです。
そして大蔵少尉が乗せる事になりました。
11機が飛び立ったあと、小出宏少尉は今田達夫少尉から受け取っていた包みを開けました。
そこには封筒と短刀がありました。
封筒の中には「檄文」がありました。
戦い得ずして戦わざる空の勇士11名、生きて虜囚の汚辱をうけるを忍び難し、此処に神州特別攻撃隊を編成し昭和維新のさきがけたらんとす
大虎山を飛び立った10機は一路、赤峰ソ連軍戦車隊を目指しました。
しかし宮川次郎少尉の機体がエンジントラブルで墜落、地元民に救助された後、錦県に帰還。
その後シベリア抑留となりました。
谷藤少尉以下残る機体はどうしたのか?
今もよくわかりません。
恐らくは見事特攻に成功しソ連軍戦車隊を粉砕したことでしょう!
飛行場で墜落した伴少尉、途中墜落した宮川少尉、箕輪中尉など生き残った関係者はその後シベリア抑留となりました。
伴少尉はシベリア抑留中に落命されました。
彼らの抑留中、日本政府は最後の特攻をした11名について「正式な命令でなく、独断による特攻」として正式な調査もせず、また靖国に合祀もされませんでした。
シベリアから帰還した箕輪中尉はこのことを厚生省と粘り強く交渉し続け、昭和32年にやっと彼らを戦没者として認めさせ、靖国にも正式に合祀させました。
更に箕輪中尉は募金を集め昭和42年5月、東京世田谷の世田谷観音に神州特別攻撃隊顕彰碑を建立しました。
碑文には「谷藤少尉の如きは新婚間もない妻朝子夫人を後ろに乗せて」の一分が刻まれました。
朝子さんの白いワンピースはせめてもの「死装束」だったのかもわかりません。
本当に谷藤少尉と朝子さんは愛し合っていたのです。
どこまでも、どこまでも夫と一緒にいたい。
例え肉体は朽ち果てても魂は夫と共にありたいと思っていたのでしょう。
古来日本は肉体は失うとも魂は永遠に続くと考えていました。
だから、次に新しい肉体を持って生まれて来ようと魂は同じ。
前世の行いもまた持って生まれ変わるのだと。
そして転生する時には二つの魂が一つになり転生することもあると考えていました。
だから離れてはいけない。死出の旅も共にありたいと。愛する人と肉体から離れて魂が重なり合い一つになるのだと。
神州不滅特別攻撃隊とは神州、つまり我々の祖国日本が永遠に不滅であると信じた、その一念です。
祖国の不滅を信じ、だから彼らはその身を祖国に捧げたのではないでしょうか?
その不滅の祖国を後世の我々に託し自らは純粋なる魂を以って護国の柱となる。
神州を復興する人々、つまり後世我々を信じ神州を託したのです。
アメリカはこの純粋にして崇高なる自己犠牲を認めることができませんでした。
それは自分達が最高の「愛国者」だと信じていたからです。
自分達以上の愛国者など、存在しないと。
しかし、それは間違いでした。
死を恐れず、真っ直ぐに忠誠心を、愛国心を見せる民族がいた!
ただ純粋に愛する者を最高の自己犠牲で守る民族がいた。
高潔にして崇高なる気高い民族がいた。
世界最古の歴史を持つ国の、本当の愛国者を認める訳にはいかなかった。
だからこそ特攻による被害を隠したのです。
これが我々の先達です!
我々後世はこのような先達のお陰で今を生きているのです。
皆様、ゆめお忘れなき様。