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大日本帝国の国家戦略7

2016-09-21 21:00:13 | 大日本帝国
随分と間が空いてしまいました。
前回は明治の世を迎えた日本で行われたインフラ整備の要『鉄道』について話しました。

おさらいはここです。

今回は海運業について話してみたいと思います。

駆逐

明治新政府は鉄道だけではなく海運業の充実にも力を入れて来ました。

岩倉使節団で欧米を見聞した政府高官達は、海運業が一国の経済の発展に不可欠だと気づくのでした。

なかでも大久保利通は大英帝国の栄光が海運業の発展と共にあることを知り「海運業のあり方を英国に学ぶべきだ!」と考えるのでした。

英国では17世紀に航海条例というものが作られていました。

これは1951年に英国イングランドで制定された法律です。当時、貿易で大きな比重を占めていたオランダ船を締め出す目的で作られた法律で、英国の植民地における外国船の交易が禁じられる事になるのです。

つまり、当時海運業で圧倒的な力を持っていたオランダに対抗する為に、入港船の船籍を限定するなどして、自国の海運業を保護したのです。

この航海条例は200年間続き、海の大国イギリスをつくる上で大きな役割を担ったのです。

大久保利通らは、この英国の航海条例に学び海運業者の保護育成に乗り出すのです。

締め出し

幕末から明治初年にかけて、日本沿岸の船舶輸送というのは英米国が大半を握っていたのです。

明治維新期には、日本の民間人には西洋船の所有が禁じられていました。
それにより競争のしようもなかったのです。

そのため新政府は明治2年(1869)に日本の民間人による西洋船の所有を解禁したのです。

続いて明治4年(1871)駅逓頭の前島密が政府肝いりによる運輸会社の設立を画策するのです。

駅逓(えきてい)とは、郵便事業などを司る明治初期の官庁です。そこの頭とは今で言う『長官』にあたります。

その運輸会社が日本国郵便蒸気船会社です。

前島は、廃藩置県により没収された各藩所有の船を払い下げるなどの保護を行い『日本国郵便蒸気船会社』を外国の運輸会社に対抗出来る様に育成しようとしたのです。

明治7年(1874)には台湾出兵に伴い、兵員輸送の為に13隻(1万1974t)の汽船を購入。
これらの船舶は台湾出兵後に岩崎弥太郎の三菱商会に委託されています。

岩崎弥太郎とは、ご存知三菱財閥の創始者で元土佐藩の地下浪人。下級武士です。
下級武士ながら土佐藩の参政吉田東洋に見出され、幕末には土佐藩商務部『土佐商会』を任されます。
坂本龍馬とも親交のあった人物です。

政府は三菱商会に多額の援助金を出し後押しもしています。

政府の後ろ盾を得た三菱商会は日本沿岸の航路を瞬く間に占有してしまいます。

三菱商会が次の戦いの舞台に選んだのが『上海〜横浜』を結ぶ上海航路でした。

当時この上海航路はアジアの重要な海のルートで、海運業者にとってのドル箱航路です。
しかし、上海航路は外国の海運業者の独占状態でした。
米国の太平洋郵船です。

政府の支援を受けた三菱商会は明治8年に日本初の外国航路である上海航路を開拓すると、太平洋郵船に対して『運賃値下げ競争』で挑むのです。

激しい値下げ競争の末に、太平洋郵船は遂に撤退を決断するのです。

日本政府の交渉により、太平洋郵船の船舶と港湾施設を総額81万ドルで買収。
同社をこの航路から撤退させる事に成功するのです。

翌年には英国のP&O汽船が上海航路に参入してきます。
しかし、三菱商会は政府の支援で価格競争を仕掛け、同社を撃退してしまいました。

これらの保護政策により明治9年(1876)には、日本の開港間の航路は日本船が89.1%を占めるほどになりました。
日本沿岸の航路から外国の船会社をほぼ駆逐してしまったのです。

これは、そこまで外国の船会社から得ていた運賃収入を日本人が得るという直接的な利益もありましたが、軍事上でも大きな利点があったのです。

日本沿岸の海運を押さえておけば、戦争になった時、素早く兵員や軍事物資を輸送出来るのです。

『富国』だけでなく『強兵』も同時に実現しようとする明治新政府のしたたかさの表れと言えるでしょう。

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