私は日本派日本人です。
我が国の歴史や文化、そして何より國體と言うものに生かされていると日々感じるのです。
箸を使うことにすら日本人としての『血』を感じずにはいられません。
例えば、我が国以外にベトナム、支那、朝鮮が食事の際に『箸』を使います。
箸は大陸から日本に伝わって来たと言う歴史学者もいますが...
本当でしょうか?
箸を使う国は日本を含め4ヵ国あるのですが、箸だけで食事が完結出来るのは我が国だけです。
中華料理、朝鮮料理、ベトナム料理、みなさじやスプーンの様なものを使います。
和食にはその様な物は必要なく、また器も実は違うのです。
器を手にして食事をする文化もまた我が国特有のものです。
我が国の歴史や文化は実に長く、一体いつからあるのか、よくわかりません。
しかし昔から民主主義であったことは間違いありません。
初代神武天皇は祈る事で日本を知らす、つまり統治すると仰って、権力は臣民に預けると。
正に主権在民です。
この主権在民こそ原理原則で、我が国オリジナルの民主主義の実現であるのです。
世界では、例えば支那は『中国四千年』とか言い出しますが、そんな歴史はありません。現在の中華人民共和国が出来たのは1949年です。
とにかく2、3百年毎に王朝の交代を繰り返し、違う民族がこの地域を交代支配していただけで、一つの王朝が4千年続いたわけではありません。
しかも王朝の交代は戦に勝った者が新たに支配するので、全く理念も正統性もありません。
何故支配するのか?と言われたならば『ケンカに勝ったから』と言うだけ。
我が国日本はいつから日本をやっているのかよくわからない程古い国です。
初代神武天皇が即位され、大和朝廷が建国されました。
日本書紀を辿れは今年で2680年です。
この古事記や日本書紀のの部分を除いても、ゆうに2000年を超える歴史があります。
また大和朝廷建国に際して、大きな争いもなく、大小様々な『国』をいわば話し合いによって統合していき現在の日本が出来上がったのです。
つまりは日本国中が『天皇』と言う御存在を、正当な統治者と認めたからです。
これが我が国の原理原則であるわけです。
そうやって126代繋いで来たのは我々日本国民です。
支那などは、ケンカに勝った奴が国を支配するのですから、実は正当性はありません。
我々は御即位なさった初代神武天皇からずっとそれが正当で正統であると守り続けてきたなです。
何故でしょうか?答えは簡単です。
それは日本が良い国だから!
我が国は良い国だから、天皇が統治する国が良い国だから天皇と言う御存在を日本国民自身が守り続けて来たから今上陛下まで繋がっているのです。
何があっても皇統と國體を断絶させなかったのです。
国学者本居宣長をして『最後は天皇に帰一する』と言わしめる御存在。
ロジックの天才が最後には天皇に帰一すると言う御存在を我々日本人が守って来たと、それが我が国の原理原則です。
最後には帰一すると思われる存在になるなど、東大に合格するより難しい事で、それを2680年126代続けて来たのです。
私は日本派日本人であり、この原理原則こそ何があっても守らねばならんと考えるある種の『原理主義』思想の持ち主でもあるわけです。
先述の事柄を踏まえて、或いは此れらは事実である事を踏まえて日本と言う国の全てを考えてみなければならないと思います。
例えば、現憲法にしても天皇の御名御璽があります。
我々が守り続けた正統な御存在の名前と印が、その御身自ら書き記されています。
我が国は何をするにも『天皇の国事行為』により承認されなければ何も出来ません。
内閣の承認、国会の召集、法律。
そして二千年を超えて培って来たオリジナルの民主主義。
この民主主義の手続きにも天皇の国事行為が必要です。
つまり我々は天皇と臣民とが一体となり国政を行う『君臣共治』の国家なのです。
今般、例えば昨年の増税やコロナウィルスへの対策や対応には現政権は問題はあります。それは事実です。
しかし民主主義の手続きにより、出来た政権であり天皇の国事行為による承認を得たことを忘れてはいけません。
それは地獄の様な民主党政権であっても同じです。
民主主義の手続きによって生まれた法律や政権下での決定には意見が違うとも、従うのが『民主主義の大原則』であります。
憲法前文前半に
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し
と、この様に書かれているのです。
幾ら現政権の政策に文句があろうと、批判はしても『俺は意見が違うから』と無視した行動をするのは間違いなのです。
これが民主主義の原理原則です。
間違いならば糺せばよいのです。
それも民主主義の手続きに則り。
そして天皇の国事行為による承認を頂けば良いのです。
現憲法は敗戦により、戦勝国から押しつけられた問題のある憲法です。
しかし天皇の御名御璽があるのです。
私は『天皇に帰一する』。
だからこの憲法に従う。
私の遵法精神は天皇に帰一することにあります。
ルールを守ると言う当たり前の事も、この間違った憲法に対しては従う事は間違いではないか?
確かにそう思うけれど『君臣共治』を我々の先達が二千年を超えて守り続けた以上、何か正しい事があるのだと。
断絶しない國體を断絶させてしまわない様に私は天皇に帰一します。
民主主義国家に於いては法律も憲法も解釈を変更する事は構わないのです。
間違いならば選挙により変える事が出来るからです。
しかしそこにも天皇による承認があるのです。
憲法前文に書かれた文言も、天皇の御名御璽があるのです。
現政権が気に入らんと、法を無視して身勝手な解釈で行動する事は『國體』に逆らい、國體断絶を招く利敵行為に他ならないのではないでしょうか?
普段は尊皇を口にしながら、民主主義の大原則には逆らう様な言動はいかがなものかと。
憲法前文にある通り『正当な選挙により選ばれた代表者を通じて行動する』と言う事が明記されています。
これには天皇の御名御璽があるのです。
この憲法には我々日本人の理念な合わない事が多々あり、受け入れ難いけれど天皇の御名御璽がある以上、私の意見は違うけれど天皇に帰一すると言う一点。
これをどう考えるのか?
つまり何が言いたいかと言えば
自らの意見が違うからと、これに従わないのは天皇の御名御璽を否定する行為で
この天皇の御名御璽を否定するならば、天皇と言う御存在を否定するのか?
と言う事です。
国事行為による承認も否定するならば、天皇と言う御存在を否定し國體を否定せねばなりません。
しかし我が国は天皇と言う御存在が原理原則なのです。
憲法には憲法96条と言う改正条項があります、これにも御名御璽があるのです。
現憲法には従わないと言うならば先に天皇と言う御存在を否定しなければなりません。
私はこの原理原則に従うと言う意味に於いて『原理主義者』であると言う立場です。
例えば、原理主義者について
『原理原則に従い、多様性を認めず、排他的で外国人からの一切の口出しを認めぬ者』と言う頭の悪さ丸出しの人がいます。
本当にこの発言には頭が悪いとしか言い様がありません。
ま、この方外国人なんですがね。
原理主義に多様性や異なる価値観など一切必要ありません。
アメリカ建国の理念、その原理原則は『自由』です。
その自由は、キリスト教プロテスタントが宗教的弾圧を受け、信教の自由を求めてメイフラワー号に乗りアメリカ大陸にやって来た。
そして宗教の自由を守り、それが発展して全てにおいて自由な国を原理原則としてアメリカを建国したのです。
だから大統領は就任式で聖書に手を置き宣誓するのです。
ここに多様性や異なる価値観や外国からの意見など混える必要はありません。
我が国に於いても皇統は万世一系です。
これが原理原則です。
これに多様性を求めれば女系天皇や、或いは知らないおっさんが『ワシは天皇になりたい』と言う事を認めろ!と言う事になるのです。
また、クソ国連人権委員会から『男子しか天皇になれないなは女性蔑視だ!』と言うアホな意見を汲み取らねばならなくなります。
原理原則は排他的であるのは当たり前で、國體や我が国オリジナルの民主主義を包括的に考えるなどアホな話しです。
ならば朝鮮や支那の意見を取り入れて國體を変えるのか?
アメリカで建国理念の大原則に『排他的だ』と言ってみれば良いのです。
恐らくアメリカ国民に命を狙われてしまうでしょう。
アメリカの様に若い国であっても、理念や国がらは絶対であり、そこに外国の意見や多様性など一切必要なく排他的でなければならないのです。
原理原則に多様性や異なる価値観を持ち出す様な人間は自らの理念も何もない、根のない草の様な人間なのでしょう。
我々の原理原則は『君臣共治』です。
天皇の御名御璽、天皇の国事行為は原理原則なのです。
私が守り続けたいのはこの原理原則です。
私は自らを『原理主義者』と名乗ろうとも
排他主義と揶揄されようと
この大原則は未来永劫守るべき価値のあるものだと考えます。