英霊を訪ねる旅です。
今回は講演会になります。
今回最大の目的はこれです。
沖縄講演会への参加です。
当初、参加人数が少なくてどうなることか?と危ぶまれもしましたが蓋を開けると超満員。
定員500を上回る盛況でした。
本当の日本
今回の講演会のメインの話しは「硫黄島の戦い」です。
それを沖縄講演会でやると。
ここに意味があるのです。
硫黄島の戦いとは何だったのか?
硫黄島から繋がる沖縄戦の真実とは何か?
それを考える講演会です。
会場ユインチホテル
沖縄県民すら本当の沖縄戦を知らない。
そして、敗戦後教育にドップリ浸かりバイアスのかかった見せかけの平和を享受して生きて来た我々も知らない。
更に一番恐ろしいのは我々日本人は日本人とは何であるのか?を知らない。
日本人とは、どう生きるのか?
どういう振る舞いをすべきか?
これを全く教えられずに生きています。
これを硫黄島や沖縄戦から知ろうとするものです。
講演会
皆さんは、青山さんが話す硫黄島の話しは例えば青山さん自身の著書でもご存知ですね。
しかし、自分も青山さんの講演会には何度も参加していますが直接伺った事はありません。
自分の中では青山さんの著書「ぼくらの祖国」や広島での講演会動画を見てしか知りません。
もちろん硫黄島の戦いなどは自分自身で調べはしていますが、「硫黄島」に上陸した事がない。
硫黄島の生き残りの方の話しを直接聞いた事もない。
ただ書物やネットなどを駆使して調べ、知識を得たに過ぎません。
つまり、青山さんの講演会に参加し、その話しを聞く事の意味は実際にその場所に行き、直接話しを聞いた人からその真実を聞き自分も追体験をすると言う意味があるのです。
講演会での様子
話しの内容は、その著書や動画と基本的には変わりません。
時間は2時間の予定が、延長されて結局4時間となってしまいました。
敗戦後70年間経ってしまった話しが、たかが2時間で収まるはずはありませんね。
そこに至るまでに時間を遡らねばなりません。
その遡る時間が経てば経つ程に話しは長くなってしまいます。
ましてや敗戦後教育で全くそれらを教えられていない我々は更に時間がかかるのです。
硫黄島の戦い
では、講演会の内容を自分流で話してみたいと思います。
硫黄島の戦いは1945年2月19日にアメリカ海兵隊の強襲と艦載機、艦艇の砲撃と共に始まりました。
同年3月17日ほぼアメリカ軍は制圧しました。
日本大本営も21日に「硫黄島守備隊玉砕」と発表していました。
しかし、残存日本兵は散発的ながら遊撃戦を展開していました。
1945年3月26日
栗林忠道中将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅。
事実上の戦闘終結となりました。
米軍をして「最悪の戦闘」とか「地獄の中の地獄」と言わしめる激戦となりました。
守備隊への支援も増援もない、正に死ぬ事以外の選択肢はなかった戦いでした。
守備隊20933名のうち96%、20129名が戦死、或いは戦闘中に行方不明となりました。
米軍の戦死者は6821名、戦傷者28686名。
実質損害が戦争末期にあって米軍が日本軍を上回る最悪の損害を出したました。
硫黄島上陸僅か3日でノルマンディー上陸作戦を上回る損害を出したました。
硫黄島、手前が摺鉢山
硫黄島は東京都小笠原村硫黄島。
硫黄島は長年「いおうじま」と、我々は言って来ました。
しかし、実際には「いおうとう」です。
小笠原の方々は長年これを訴えてこられました。
何故「いおうじま」と呼ぶ様になったのか?
それは上陸した米軍の日系人通訳が「いおうじま」と訳してしまったからです。
ここにも敗戦後の間違った刷り込みがあるのです。
「負けた国は勝った国に全て従わねばならない」
こんな間違った刷り込みが自分達の領土の名称すら変えてしまう。
硫黄島と書いて「いおうじま」と呼ぶ島は鹿児島にありますが小笠原の島は「いおうとう」です。
硫黄島はグアムと東京都の丁度真ん中にあります。
なんと言う天の差配でしょうか…
当時、日本本土爆撃を効率良く行う為にはアメリカにとって、この島は魅力的です。
アメリカはマリアナ諸島攻略により、それまで中国大陸から行なっていたB-29の爆撃をマリアナ諸島から開始しました。
しかし、マリアナ諸島からの爆撃では片道2000kmを超えます。これでは護衛の戦闘機の随伴が出来ない。
更に、日本上空で損傷を受けたり故障したり、航法ミスにより海上に墜落する事態も多発していました。
そして、しばしば日本軍の飛龍や銀河という爆撃機や一式陸攻の攻撃が硫黄島経由でされており、多大な損害を出していました。
アメリカにとって硫黄島は日本本土爆撃を効率良く行う為に絶対でした。
更に日本軍はこの硫黄島に早期警戒システムを置いており、監視拠点としていました。
この硫黄島からの情報は特に重要で、この情報により本土爆撃に向かうB-29の迎撃に戦闘機を向かわせることが出来ました。
被弾による損傷、故障、燃料不足によりマリアナ諸島まで帰着出来ない機体の中間着陸。
護衛機の基地確保。
日本軍航空機の攻撃基地の撃滅。
日本軍の早期警戒システムの破壊。
硫黄島を避ける事による爆撃機の航法上のロスの解消。
これらの目的を以って硫黄島を占領を決めました。
レイテの戦いが終わりに近づくと「沖縄侵攻までの2カ月間に行う作戦」計画として硫黄島攻略が決定されました。
先達の思い
栗林忠道中将はペリリュー島の戦いで日本陸軍守備隊が地下陣地を構築し長期の抵抗に成功した事を良く学んでいました。
それを更に発展させた作戦を考案しました。
真ん中が栗林忠道中将
栗林忠道中将は持久戦に持ち込む作戦を計画しました。
栗林忠道中将は軍事研究員としてアメリカに留学経験がありました。
昭和3年3月から5年4月までの2年間です。
この経験からアメリカが日本本土爆撃の為に硫黄島を占領するだろうと解っていました。
ですから、硫黄島の住民を事前に父島や母島に疎開させていました。
余談ですが、この留学で家族に、特に長男太郎君に絵手紙を送っています。
まだ3歳と字も読めない太郎君に絵手紙を送って、それを義井夫人が読み聞かせていました。
米国留学時代の絵手紙
自動車や電車を見れば太郎に見せてやりたいとか、キレイな景色を見れば太郎に見せてやりたいと書いてあり本当にどこにでもいる普通の父親と同じように家族を大切に思っていたことが伝わります。
また、家族と離れて暮らす淋しさも隠さぬ人間味溢れる人物で「猫だけは日本と同じ、こんなものが非常に懐かしい。猫が本当に味方の様な気がする程、外国は淋しいことがある」と手紙に書いてあります。
本当に家族思いの優しい夫、優しい父親。
誰よりも家族を、国を愛した男なのです。
あなたのお父さんも、あなたの友達のお父さんも、お隣や向かいのお父さんも同じです。
どこにでもいる父親が家族を守る為、国を守るために鬼神哭かしむる戦いをするのです。
それは栗林忠道中将だけではありません。
硫黄島にいた全ての人がそうだったのです。
大戦末期ですから職業軍人は少ない、多くは本当に普通の人々です。
職業も様々、教師、八百屋、大工、事務員、行員など現在の我々と同じ普通の人々です。
栗林忠道中将だけではない、妻や子供を残し、両親を残し或いは恋人と別れて硫黄島に来た。
愛する人を守る為に硫黄島に来た。
未来の日本人を守る為に硫黄島に来たのです。
この硫黄島を足がかりに、アメリカは日本本土を爆撃し女や子供を殺すつもりです。
女や子供を殺す事は我々日本人を根絶やしにし、我々日本人の未来を奪う事です。
ですから栗林忠道中将は穴を掘り、その穴に篭りゲリラ戦を選択しました。
一人でも多く生きて、出来るだけ戦いを長引かせ米軍を苦しめる。
戦いを1日でも長引かせ米軍による本土爆撃を遅らせる。
戦いが1日長引けば1日分の女と子供が生き延びる。生き延びた女子供がまた日本民族を受け継ぎ、そうやってまた日本は繁栄する。
もう日本はこの戦争に勝てない。
負けても民族が生き延び、いずれまた再起する。
それを願って自分達の命と引き換えに女子供を守る。
家族を守る為に自分達はここで死ぬ!
自分達の未来を守る為に死ぬ!
死ぬ為に硫黄島に来たのです。
3.2へ続く…
3.2へリンク
今回は講演会になります。
今回最大の目的はこれです。
沖縄講演会への参加です。
当初、参加人数が少なくてどうなることか?と危ぶまれもしましたが蓋を開けると超満員。
定員500を上回る盛況でした。
本当の日本
今回の講演会のメインの話しは「硫黄島の戦い」です。
それを沖縄講演会でやると。
ここに意味があるのです。
硫黄島の戦いとは何だったのか?
硫黄島から繋がる沖縄戦の真実とは何か?
それを考える講演会です。
会場ユインチホテル
沖縄県民すら本当の沖縄戦を知らない。
そして、敗戦後教育にドップリ浸かりバイアスのかかった見せかけの平和を享受して生きて来た我々も知らない。
更に一番恐ろしいのは我々日本人は日本人とは何であるのか?を知らない。
日本人とは、どう生きるのか?
どういう振る舞いをすべきか?
これを全く教えられずに生きています。
これを硫黄島や沖縄戦から知ろうとするものです。
講演会
皆さんは、青山さんが話す硫黄島の話しは例えば青山さん自身の著書でもご存知ですね。
しかし、自分も青山さんの講演会には何度も参加していますが直接伺った事はありません。
自分の中では青山さんの著書「ぼくらの祖国」や広島での講演会動画を見てしか知りません。
もちろん硫黄島の戦いなどは自分自身で調べはしていますが、「硫黄島」に上陸した事がない。
硫黄島の生き残りの方の話しを直接聞いた事もない。
ただ書物やネットなどを駆使して調べ、知識を得たに過ぎません。
つまり、青山さんの講演会に参加し、その話しを聞く事の意味は実際にその場所に行き、直接話しを聞いた人からその真実を聞き自分も追体験をすると言う意味があるのです。
講演会での様子
話しの内容は、その著書や動画と基本的には変わりません。
時間は2時間の予定が、延長されて結局4時間となってしまいました。
敗戦後70年間経ってしまった話しが、たかが2時間で収まるはずはありませんね。
そこに至るまでに時間を遡らねばなりません。
その遡る時間が経てば経つ程に話しは長くなってしまいます。
ましてや敗戦後教育で全くそれらを教えられていない我々は更に時間がかかるのです。
硫黄島の戦い
では、講演会の内容を自分流で話してみたいと思います。
硫黄島の戦いは1945年2月19日にアメリカ海兵隊の強襲と艦載機、艦艇の砲撃と共に始まりました。
同年3月17日ほぼアメリカ軍は制圧しました。
日本大本営も21日に「硫黄島守備隊玉砕」と発表していました。
しかし、残存日本兵は散発的ながら遊撃戦を展開していました。
1945年3月26日
栗林忠道中将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅。
事実上の戦闘終結となりました。
米軍をして「最悪の戦闘」とか「地獄の中の地獄」と言わしめる激戦となりました。
守備隊への支援も増援もない、正に死ぬ事以外の選択肢はなかった戦いでした。
守備隊20933名のうち96%、20129名が戦死、或いは戦闘中に行方不明となりました。
米軍の戦死者は6821名、戦傷者28686名。
実質損害が戦争末期にあって米軍が日本軍を上回る最悪の損害を出したました。
硫黄島上陸僅か3日でノルマンディー上陸作戦を上回る損害を出したました。
硫黄島、手前が摺鉢山
硫黄島は東京都小笠原村硫黄島。
硫黄島は長年「いおうじま」と、我々は言って来ました。
しかし、実際には「いおうとう」です。
小笠原の方々は長年これを訴えてこられました。
何故「いおうじま」と呼ぶ様になったのか?
それは上陸した米軍の日系人通訳が「いおうじま」と訳してしまったからです。
ここにも敗戦後の間違った刷り込みがあるのです。
「負けた国は勝った国に全て従わねばならない」
こんな間違った刷り込みが自分達の領土の名称すら変えてしまう。
硫黄島と書いて「いおうじま」と呼ぶ島は鹿児島にありますが小笠原の島は「いおうとう」です。
硫黄島はグアムと東京都の丁度真ん中にあります。
なんと言う天の差配でしょうか…
当時、日本本土爆撃を効率良く行う為にはアメリカにとって、この島は魅力的です。
アメリカはマリアナ諸島攻略により、それまで中国大陸から行なっていたB-29の爆撃をマリアナ諸島から開始しました。
しかし、マリアナ諸島からの爆撃では片道2000kmを超えます。これでは護衛の戦闘機の随伴が出来ない。
更に、日本上空で損傷を受けたり故障したり、航法ミスにより海上に墜落する事態も多発していました。
そして、しばしば日本軍の飛龍や銀河という爆撃機や一式陸攻の攻撃が硫黄島経由でされており、多大な損害を出していました。
アメリカにとって硫黄島は日本本土爆撃を効率良く行う為に絶対でした。
更に日本軍はこの硫黄島に早期警戒システムを置いており、監視拠点としていました。
この硫黄島からの情報は特に重要で、この情報により本土爆撃に向かうB-29の迎撃に戦闘機を向かわせることが出来ました。
被弾による損傷、故障、燃料不足によりマリアナ諸島まで帰着出来ない機体の中間着陸。
護衛機の基地確保。
日本軍航空機の攻撃基地の撃滅。
日本軍の早期警戒システムの破壊。
硫黄島を避ける事による爆撃機の航法上のロスの解消。
これらの目的を以って硫黄島を占領を決めました。
レイテの戦いが終わりに近づくと「沖縄侵攻までの2カ月間に行う作戦」計画として硫黄島攻略が決定されました。
先達の思い
栗林忠道中将はペリリュー島の戦いで日本陸軍守備隊が地下陣地を構築し長期の抵抗に成功した事を良く学んでいました。
それを更に発展させた作戦を考案しました。
真ん中が栗林忠道中将
栗林忠道中将は持久戦に持ち込む作戦を計画しました。
栗林忠道中将は軍事研究員としてアメリカに留学経験がありました。
昭和3年3月から5年4月までの2年間です。
この経験からアメリカが日本本土爆撃の為に硫黄島を占領するだろうと解っていました。
ですから、硫黄島の住民を事前に父島や母島に疎開させていました。
余談ですが、この留学で家族に、特に長男太郎君に絵手紙を送っています。
まだ3歳と字も読めない太郎君に絵手紙を送って、それを義井夫人が読み聞かせていました。
米国留学時代の絵手紙
自動車や電車を見れば太郎に見せてやりたいとか、キレイな景色を見れば太郎に見せてやりたいと書いてあり本当にどこにでもいる普通の父親と同じように家族を大切に思っていたことが伝わります。
また、家族と離れて暮らす淋しさも隠さぬ人間味溢れる人物で「猫だけは日本と同じ、こんなものが非常に懐かしい。猫が本当に味方の様な気がする程、外国は淋しいことがある」と手紙に書いてあります。
本当に家族思いの優しい夫、優しい父親。
誰よりも家族を、国を愛した男なのです。
あなたのお父さんも、あなたの友達のお父さんも、お隣や向かいのお父さんも同じです。
どこにでもいる父親が家族を守る為、国を守るために鬼神哭かしむる戦いをするのです。
それは栗林忠道中将だけではありません。
硫黄島にいた全ての人がそうだったのです。
大戦末期ですから職業軍人は少ない、多くは本当に普通の人々です。
職業も様々、教師、八百屋、大工、事務員、行員など現在の我々と同じ普通の人々です。
栗林忠道中将だけではない、妻や子供を残し、両親を残し或いは恋人と別れて硫黄島に来た。
愛する人を守る為に硫黄島に来た。
未来の日本人を守る為に硫黄島に来たのです。
この硫黄島を足がかりに、アメリカは日本本土を爆撃し女や子供を殺すつもりです。
女や子供を殺す事は我々日本人を根絶やしにし、我々日本人の未来を奪う事です。
ですから栗林忠道中将は穴を掘り、その穴に篭りゲリラ戦を選択しました。
一人でも多く生きて、出来るだけ戦いを長引かせ米軍を苦しめる。
戦いを1日でも長引かせ米軍による本土爆撃を遅らせる。
戦いが1日長引けば1日分の女と子供が生き延びる。生き延びた女子供がまた日本民族を受け継ぎ、そうやってまた日本は繁栄する。
もう日本はこの戦争に勝てない。
負けても民族が生き延び、いずれまた再起する。
それを願って自分達の命と引き換えに女子供を守る。
家族を守る為に自分達はここで死ぬ!
自分達の未来を守る為に死ぬ!
死ぬ為に硫黄島に来たのです。
3.2へ続く…
3.2へリンク