犬神スケキヨ~さざれ石

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義解

2022-07-04 11:55:00 | 草莽崛起
さて前回はあのダグラス・マッカーサーの発言について記載いたしました。

憲法改正について考える材料になればと思います。
ロシアによるウクライナ侵攻により我々日本人の危機意識が高まる事になったのではないでしょうか。

マッカーサーは我が国敗戦後、僅か5年8か月で自らの行為を否定したと言っていいでしょう。だから大統領候補であったマッカーサーはあの議会での発言以降、急速に求心力を失って事実上失脚するのです。

敗戦後の我が国は理念など持つな、国家観など持つな!持てば戦争になる!などと過ごして来ました。
しかし、マッカーサーの発言を見るに歴史は糺されたのに我々は未だに知らずに過ごしているのではないでしょうか?

今なお、東京裁判を土台に世界を見ているのではないか?
世界はあれからすっかり変わってしまった。
ならば東京裁判史観はもはや時代遅れではないでしょうか?

未だ刷り込まれた戦後教育の中、戦前を否定し戦後の理念を持たない世界こそが正しいと生きている間に同胞は拉致され、長い年月努力して蓄積した技術は盗まれ、神々が宿る我々の神州すら盗まれようとしています。

黒船来航からあっという間に明治維新を果たし、西欧列強の植民地支配を撃ち返し。
あっと言う間に列強と肩を並べる国になった。
その功績は限りなく大きな評価をされるべき我が国の出来事でしょう。

しかし、それは同時に西欧列強の無理な、我が国に合わぬものまで取り入れる結果を招く事にもなりました。

人の生き方を説くものが我が国の憲法と言えるはずだったのに、例えば十七条憲法や五箇条の御誓文のように。
それをしっかりと見つめる憲法であったなら良かったのです。
しかし結果は『西洋式』を取り込み、生煮えの憲法が出来てしまった。
昭和のはじめには植民地支配への抵抗と西洋式武力支配が混ざり合い、己の理念を忘れ、忘れたが故に無残な敗戦となりました。

西欧の様に、我が儘勝手に民を支配する王様を縛る為に出来た立憲主義を取り込み道を誤ったのです。

我が国の理念は君主は民の為にあると言う理念を忘れた西欧型『憲法』が招いた結果です。

仁徳天皇『民の竈』で示された我々の君主は臣民が食べれないとわかると自らの衣食住よりも民の生活を第一に想う、他者の為に存在する、他者の為に真っ先に自らを捨てる。
そう言う御存在であって、民から搾取する存在ではない。
よって現在、世に良く言う憲法は権力を縛ると言う話は甚だ的外れなのです。

我が国の君主は民の為に質素倹約に尽くされ、宮殿の屋根は穴が空いて雨漏りがしても、衣服がつぎはぎでボロボロでも、民の竈から煙が上がり皆が食える姿を見て
『朕は既に富んだ』
と仰るわけです。

『天が君主を立てるのは百姓の為なり、百姓富めるは朕富める事』

臣民が富むことは君主が富めることで、屋根に穴が開いても、ボロを着ても民が富めるならば自分自身が富めることで、君主は民の為に存在していると言う理念です。

仁徳天皇は『民がいて天皇が存在する』と仰るわけです。
民が真っ先にあってこそ天皇の存在に意味があるわけです。

その理念を忘れて、敗戦の理由も全く整理もせず『とにかく国家の理念』を考えないと自己否定するだけ。

だからマッカーサーの発言も、誰も知らない。
間違いを指摘すれば『歴史修正主義者』とレッテル貼りをするのです。
しかし、対日戦争を指揮し、日本の占領政策をやり、東京裁判をやったダグラス・マッカーサー自身が『歴史を修正』したのです。

東京裁判史観に立脚し、憲法改正反対を宣う人々の論理性は1951年に失われているのです。

大日本帝国憲法に遡っても『天皇主権』だと世に良く言われるのですが、そもそもこの草案を考えた天才井上毅は古事記や日本書紀を読み込み日本の根幹や統治はなんなのかを考えに考えて第一条を
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
と記したのです。

先に記述した仁徳天皇『民の竈』を考えれば
百姓の富こそが天皇の富であり、民の存在があって天皇の存在があると言う事ですから、天皇の大御心とは『一般国民の総意』であると理解できます。

ですから、旧憲法の『主権』なるものは一体誰にあるのかなど考える事すらなかったでしょう。

つまりは天皇は国民の為にこれをしなさいと書いてある。
国民は国家の為にこれをしなさいと書いてあり、これは『君臣共治』と言う事です。
天皇と国民が一体となって国家を運営する。
それが下地となっているのです。
生煮えの憲法でもそこだけは決して外す事なく明記されているのです。

旧・新憲法で『天皇主権から国民主権に変わった』と例えば東京大学宮澤俊義などは主張し『だから革命だ』と、これが今の法曹界の常識になっていますが、では国家統治の権限のどこが国民に移されたのか?
だれも具体的に答えた人間はいません。

現憲法を改正しない論理的理由は全くありません。
神ならざる人が作ったものは、時代にも合わなくなるし何より『間違い』を犯すものです。だから現憲法にも改正条項が明記されているのです。

また現憲法破棄し大日本帝国憲法こそが正当な憲法で、旧憲法にもどせと言うのも論理性がありません。

そもそも旧憲法に戻す法的根拠がないのです。
更に現憲法には天皇の御名御璽が書き込まれてもいる。
これをどう考えるのか?

勿論、敗戦国の法を変える事は国際条約違反です。その上で我が国はその国際条約違反を受け入れてしまった。
その過ちを修正する作業は現憲法破棄ではありません。
何故なら天皇の御名御璽があるからです。
我々日本人は国際条約を理解していなかったのです。
その反省もせず天皇の御名御璽を否定するのか?
御名御璽をお願いしたのは、我々日本国民です。

そして当時の日本人の苦労を考えれば、やはり時間をかけても我々の憲法とは何なのか?
これを理解せずに単純に破棄だ護憲だと宣う事の無知蒙昧さを痛感するだけです。

現憲法一条〜八条を見れば、國體を如何に断絶させないかを考えて考えて耐え難き屈辱に耐え、後世に我が国を残そうと血を流した先達の苦労が目に浮かびます。

我が国に必要な憲法は、生煮えの西欧列強式の憲法などではなく、人の生き方を示した理念であるべきです。

憲法など二十条も有れば良い。
後は基本法をぶら下げておけば良い。

生き方として例えば和を以て貴し成すとあれば、それは何なのかを考え、それを実現する為の基本法をぶら下げておけば、例えば憲法改正などせずとも、時代や情勢に合わせて基本法だけを改正すれば良いだけです。
そうであれば現憲法のどこにも、一字もない『国民をどう守るのか』が書き込まれ我々国民は13歳の少女が下校中に拉致され、40年以上も取り返せないと言う心配をしなくてよくなるのです。

そしてマスコミが言う『盛り上がりに欠ける参議院選挙』に意味を見出す事が出来るのです。





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