地中海幻想の旅から
辻邦生 著
第三文明社 発行
レグルス文庫187
1990年5月30日 初版第1刷発行
地中海沿岸国やパリを中心とするフランスなどへの旅のエッセイ集です。
Ⅰ 地中海幻想の旅から
世界で最も美しい街としてシエナをあげる人が意外に多い。深く谷の入りこんだ丘の背に黄褐色の壁と、乾いた赤屋根が層々として重なって城塞のような町の景観を作り上げ、その家々の上に、空中に浮かぶ白い船のように、美しいドゥオモ(司教座教会・カテドラル)が姿を現している。
アルジェリアの奥地にある古代ローマのティムガドを歩いているとき、図書館だったという半円形の遺構を見たが、私はその瞬間、数本の円柱のほか、何もないその空間に、無数の本がひしめいている様を見るように思った。そこにプラトンもあれば、ギリシャ悲劇もあり、ローマ盛時の文人たちの著作がぎっしりと並んでいて、机の前では白い寛衣を着た人々が、時間を忘れたように、そうした本に読みふけっていた。
信仰であれ、思想であれ、それが〈この世〉で存在権を得るためには、〈党派性〉を必要とする。しかし信仰なり思想なりは、各人の自由な参加によって初めてそれが光となる。本来、信仰や思想には強制はあってはならず、したがって〈党派性〉はありえないはずなのだ。この矛盾は現在まで続いていて、なお、なまなましい傷痕をさらしていはいないか。信仰、思想の〈自由〉と〈党派性〉は永遠に解決しない問題なのか。
『背教者ユリアヌス』の中で、何度か北アフリカのことを「ローマ帝国の穀倉」と書いたが、北アフリカが古代には豊穣な土地だったが、次第に砂漠化したのだろうと思っていた。
しかし私が旅を続けて、アルジェからセティフにゆき、セティフから美しいジェミラの遺跡を経てコンスタンティーヌにゆくにつれて、こうした考えがいかに間違っていたかを理解した。
穀倉は野を越え、丘を越えて、なお遥かに連なっていたのだ。
パリで北杜夫に5回あっている著者。
Ⅱ フランスの旅から
1957年、マルセイユからパリへの急行列車
自分が乗り、車窓の外を走ってゆくフランスの田園風景を見ていると、私は、何度も夢を見ているような気持になった。広い耕地と、明るい森と、ゆったりとした川と、ポプラの並木、赤い屋根の並ぶ村落、どこにも人間が見当たらなかった。印象派の絵にあるような雲が、のどかに森の向こうに浮かんでいた。
「この世に、こんな幸福な瞬間があるのだろうか」わたしはフランスの山野を汽車の窓から眺めながら、真実そう思った。
一瞬のうちに愛の真実を生きた人にとって、その結果がどうであろうと、ともかく生きるに価した生があったのである。p68
打ちひしがれたアルジェリア人や、眉と眉の間に深い皺を刻んだ女が、そのどうにもならぬ宿命の重さを。形にくっきりと表し、足を引きずるようにして、魚屋や八百屋の呼び声でにぎわうルピック街をのぼってゆくのを見たとき、彼らを待っているのは、いったいどんな部屋だろうか、と思ったものだった。
そこには一つのドラマがあり、ひとつの詩があった。そしてこうした生が描き出す深い感動に比べると、セーヌ河の向こうの、カルチェ・ラタンの知的スノビズムなどは、色あせた、退屈な、虚栄と自尊心の混淆のように見えてきて、本を買いに行く外は、あまり近づく気にはならなかった。
パリの女性的な伝統に対して、世界でも珍しい革命の伝統をもっている。中世にもしばしば領主と争った自由市だったが、ルイ王朝の治世で最大の叛乱だったフロンドの乱もパリ市民の蜂起がきっかけとなっている。1789年のフランス大革命から19世紀の三大革命(七月革命、二月革命、パリ・コミューン)までいずれも主体はパリ市民だ。
1968年の夏の終わりのパリ。
カルティエ・ラタンでは、パリ名物の石畳の道の上を、アスファルトで厚く覆う工事が進んでいた。五月事件の激しさを物語っている。
この都市は『ハドリアヌス帝の回想』で日本でも読者のあるユルスナル(ユルスナール)女史が『黒の過程』で全員一致の票を得てフェミナ賞に推された。
パリに残る12世紀フィリップ・オーギュストが建てた城壁の一部
現在、城壁の裏手の通りはカルディナル・ルモワーヌ通りと街と呼ばれているが、これは昔の聖ヴィクトール堀(フォッセ)である。
城壁に沿って堀が続いてきたわけで、その堀を埋め立てたあとを道にして、何々堀通りと呼んでいるのである。
ゴシックの観念を象徴する、天にそそり立つ大尖塔や、尖塔形の窓などは、神へ近づこうとする人間の意志を表していると説明されるが、単にそれだけでなく、超地上的な世界の壮麗さ、永遠の厳しい相貌、最後の審判に到る時間を収斂した劇的空間性といったイデーを、全体的に象徴している。
Ⅲ 北の旅 南の旅から
ロシア、ハドリアヌスの城壁、インドなどの旅
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