イザベラ・バードと日本の旅
金坂清則 著
平凡社新書754
2014年10月15日 初版第1刷発行
明治初期に日本を旅したヴィクトリア朝のイギリス女性イザベラ・バード。
彼女の一生と他の探検について、また日本旅行の背景について、きっちりまとめられています。
第一章 旅と旅行記を正しく理解するために
イザベラ・バードの日本の旅は日光から東北を経て北海道に達し、アイヌの村を訪問するものだった、と思われているが、関西や伊勢神宮も訪ねている。
原著に記された言葉をどう訳すか?
原文=直訳=実際の意味
hat=帽子=菅笠
glazed peaked hats=つやのある山形の帽子=陣笠
trousers=ズボン=モンペ
open shirt=前の開いたシャツ=襦袢
a red blanket=赤い毛布=赤い脚絆
short petticoat=短い下スカート=腰巻
地名の例
western Japan=西日本=本州西岸
Mountain Breeze=山風=山吹
Table=卓=台にちなむ地名
第二章 イザベラ・バード 旅の生涯
1 誕生からカナダ・アメリカの旅まで 第Ⅰ期の旅
1831年牧師の娘として誕生
1854年、22歳の時、アメリカとカナダの旅
健康回復のために大洋の航海を伴うたびに両親が医者から勧められた。当時このような療法があった。
2 オーストラリア、ハワイ諸島、ロッキー山脈そして日本の旅 第Ⅱ期、第Ⅲ期の旅
ニュージーランドからホノルルまでの途中、激しいハリケーンに見舞われるが、その危機がかえって心身の健康に役立つことを確信する。p50
ロッキー山脈における、ジム・ニュージェントとの出会いと旅の創造と愛
日本の旅は北海道方面や関西・伊勢神宮方面だけでなく、東京にも50日、総滞在日数の四分の一を過ごしていた。旅は三つから成っていた。p74
3 日本の旅以後の展開と晩年の活動 第Ⅲ期後半から第Ⅳ期の旅
帰路におけるマレー半島とシナイ半島
妹の死、『日本奥地紀行』の出版、結婚と夫の死
アイルランドの旅
小チベット、ペルシャ・クルディスタンの旅は英国という国家のロシアとの覇権争い、グレート・ゲームと結びつく
朝鮮、ロシア領満州、中国の旅はグレート・ゲームだけでなくキリスト教伝道の舞台としても重要
イザベラをフェミニストではなく、伝道擁護者の一人とみなす。p104
第三章 1878年の日本の旅の特質
バードの旅は、外国人が自由に旅=移動できる範囲が限られた時代にあって、地域的制限を受けない旅だったという点で、極めて特異だった。
通訳兼従者を従えた旅
18歳の少年と信じられていたが、18歳は満年齢をそのまま当てはめ、少年は(boy)従者を取り違えた誤訳
イトこと伊藤鶴吉はバードとの旅行の経験を糧として日本の通訳ガイドの先達として長く活躍した人物。当時数えで21歳、満でも19歳
事前にルートを設定
英国大使館を最重要拠点として行った旅
日本の旅はキリスト教(プロテスタント)の普及と伝道の可能性をさぐる旅だったのでは?
日本の旅行記は手紙形式で書かれていたが、実際に旅先から手紙を送ったわけではなかった。p155
バードの旅は、新聞という新しい伝達手段によって、当該府県の社会に伝えられていた。p159
詳しい日本地図など、用意万端整えられた旅
アイヌ社会の特質を明らかにし、伝道の可能性を探る旅
第四章 連携する支援と協力
1 パークス公使夫妻の支援
2 その他の支援と協力
日本語書記官サトウと三人の領事
キリスト教伝道に携わる組織と人々の支援
お雇い外国人、チェンバレンなどの支援
日本側の支援、外務省、開拓史、内務省
第五章 日本の旅と旅行記がもたらしたもの
1 バードと関連者にとっての意義
バードにとって、日本旅行は旅の人生における最大の転換点になり、これを礎に旅を重ね、旅の成果を出していった。p239
チェンバレンにとっては、特にアイヌに関する成果を知ったことが大きい。p242
伊藤鶴吉は、歴史の藻屑と消えたなどという関川夏央の見解があったが、実際はそうではなく、1913年に亡くなった時、「通訳の名人逝く」「ガイドの元祖、日本一の通弁」などの大きな訃報が出た人だった。
2 バードの旅と旅行記が欧米にもたらしたもの
3 蘇った旅行記を真に理解に、楽しむために
高梨本『日本奥地紀行』は画期的だったが、簡略本を底本としているため、真の姿が理解できず、歴史地理学的研究を踏まえずに翻訳したため、旅の本質の理解が不十分だった。
とがった形の奇妙な富士山の挿絵
ジム・ニュージェントと登攀したロングスピークの情景がもとになっているのでは?
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