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中世イタリア商人の世界 ルネサンス前夜の年代記

2023-07-24 20:11:00 | ヨーロッパあれこれ

 

中世イタリア商人の世界

ルネサンス前夜の年代記

清水廣一郎 著

平凡社ライブラリー

1993年6月30日 初版第1刷

 

フィレンツェの商人、ジョヴァンニ・ヴィッラーニの年代記をもとに書かれた本です。

 

Ⅰ めでたし聖年

1300年2月、教皇ボニファティウス8世は、この年を最初の聖年とするむねの宣言を行う。

この年、20歳くらいにヴィッラーニはローマで巡礼の様子を見ている。

 

Ⅱ 読み書き算盤

アラビア数字は、古代末期の哲学者ボエティウス(480-524)によりヨーロッパに伝えられたという伝説がある。

しかし実際は中世地中海の発展とともに、つまり十、十一世紀ごろから少しずつヨーロッパに入ってきた。

それが、ピサのレオナルド・フィボナッチ(レオナルド・ピサーノ)によって、『算盤の書』(1202)として集大成された。p33

 

Ⅲ フランドルへ 二つのヨーロッパの対立

イタリア商人がアルプスを越えて北西ヨーロッパに進出するようになったのは、十字軍に際して騎士や諸侯に用立てた貸付金を取り立てるためだったと言われている。p44

 

十二、三世紀のヨーロッパ商業地図を描くとすると、その中心は

北のフランドル、南のイタリアになる。

前者は北海・バルト海商業圏に、後者は地中海商業圏に面した商工業の中心地だった。

つまりこの二つの地域は、西ヨーロッパが外の世界と接触する二つの玄関口だった。

この

二つの都市地帯がフランスを中心とする農業地帯を挟んでいる。十三世紀に反映したシャンパーニュの市は、こうした北と南からやってくる商人が落ち合う場所だった。p45

 

イタリア商人の活動の場は、教皇庁財政と結びつくことで急速に拡大した。教会の収入を集め、それを指定の場所に送金する業務を彼らに委任した。p46

 

イタリア商人は一般にロンバルディア人といわれ、怖れられた商人でもあった。

 

Ⅳ 敏腕の商社員 遍歴商人から定住商人へ

十三世紀後半に、それまで遍歴商人として君侯の宮廷や教会を回り歩き、シャンパーニュの市でお互い取引を行っていた商人たちは、各地の主要都市に定住し、それを拠点として商業活動を営むようになった。p64

 

1303年ボニファティウス教皇は捕らえられ、侮辱される。

これをきっかけにアヴィニョン教皇庁の時代を開くことになる。フランスの勢力がこれ以後教皇庁をおおいつくすことになる。p78

 

Ⅴ ブオナッコルシ商社の成功 商人と家

中世人の世界の中に分け入っていこうとするとき、まず注意しなければならないのは、彼らにおいて「家」が占めている重要性のことだろう。p87

 

Ⅵ 妻と子

ジョヴァンニ・ヴィッラーニの偉大な年代記を受け継いだのは、彼の子供ではなく、終生彼に忠実だった弟のマッテオとその子フィリッポだった。p126

 

Ⅶ 市民ヴィッラーニの栄光

中世市民の都市国家では、上層市民たちは、商人や土地所有者であるとともに、都市国家の官吏であり政治家であった。

都市国家には書記局に属する若干の書記=公証人を別とすれば、専任の官吏は存在しなかったので、あらゆる役職は、市民が自由営業者である公証人の援助を求めつつ遂行しなければならなかったのである。p127

 

パリオは今ではシエナしか残っていないが、かつては他の都市でも盛大に行われていた。

シエナの場合、パリオは都市内の地区団体に結び付き、地区団体相互の競争として今日まで生き残ってきた。

しかし、本来パリオは騎士による馬の訓練に由来するものであって、騎士的要素を含んだ都市貴族のものだったと思われ、必ずしも地区団体に結集している庶民が主体だったわけではないらしい。p141

 

敵の面前でのパリオは、軍事的な優位を誇示し、挑戦することを意味していたのであろう。

あと敵に挑戦し、侮辱を与える方法として、敵の見えるところで自国の金貨を製造することだった。p143

 

Ⅷ 危機の時代

十四世紀のヨーロッパは、百年戦争の勃発(1339)と黒死病(1348-49)による人口の急減に象徴される困難な時代だった。p145

1339年以降は、ヴィッラーニの年代記もペシミスティックな影が濃くなってくる。p152

 

1342年、フィレンツェはアテネ公を「終身の君主」に推挙する。

アテネ公は、わずか10か月の生命しかなく、そのシニョーリア制は一つのエピソードに留まったように見える。

シニョーリア制は、上層市民の社会的地位の維持に力を貸してくれるが、かれらの「自由」は必然的に削減される。

そして十五世紀には都市国家体制の維持か君主制かという論争を起こす。

そしてこの論争のはるか延長線上には、近代政治学の開拓者マキャヴェッリの『君主論』が屹立している。

 

Ⅸ 破産

1348年からの黒死病により、ジョヴァンニ・ヴィッラーニの命も奪う。p184

 

Ⅹ 記録への執念

中世におけるイタリア商人の生活を跡付けてみようとすると、彼らにとって「記録する」という行為がいかに重要な意味を持っているか、改めて感じさせられる。p186

 

中世において成分法を重視する地域は、ローマ法の伝統が直接的に残っているイタリアや南フランスの地中海地域であり、

ロワール川以北の北フランスやドイツ、イングランドなどは慣習法の伝統が強固な地域である。p187

 

Ⅺ 死後の裁判

ヴィッラーニらの国際的商人が生きる都市の世界と、プロヴァンスの片田舎の農民の住む世界の違い

 

Ⅻ 歴史を書くこと

初期フィレンツェの歴史はフィエーゾレとの対抗の歴史として捉えられている。p235

 

フィレンツェとフィエーゾレは本来、全く異なった伝統を持つ都市だった。

フィレンツェは紀元前一世紀に建設されたローマの植民都市であったのに対し

フィエーゾレはエトルスク起源の都市で、はるかに古い歴史を持っていた。

 

ⅩⅢ ホーエンシュタウフェン家の運命

 

ⅩⅣ ダンテと年代記作者

ダンテ(1265-1321)はヴィッラーニのよりもおよそ15歳の年長である。

ヴィッラーニの記述がダンテ文献の第一号だった。

フィレンツェの政治的亡命者だったダンテを都市政府が公式に詩人の名誉を認めるには長い年月がかかった。

ボッカッチョが神曲の公開講座の担当者に任命されたのは1373年だった。

しかし市民の間では、かなり早くからダンテの作品が愛読されていた。p280

 

神曲の舞台もちょうど一三〇〇年に設定されている。

ヴィッラーニが一三〇〇年の巡礼から帰ってきてから年代記を書き始めたという記述は、神曲との関連から理解されるべきではないだろうか。p283

 

 

 



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