論語は孔子の言葉を弟子たちがまとめたものですが、孔子が没して二千五百年も過ぎた現代でも十分に通用する言葉で満たされています。
正直なところ私は、儒教というのは封建社会における秩序維持の思想だと思っていました。うさん臭い、古臭い、押しつけがましい(UFOですね!)という印象を持っていました。思えば「論語読まずの論語知らず」だったわけです。
あるきっかけから、何年か前に初めて論語と正式に(?)向き合いました。
そのときに思ったことは「当たり前のことしか書かれていない」、それも「言葉足らずなくらいシンプルな表現」というものでした。しばらくして読み返しても「当たり前のこと」、そしてまたしばらくして読んでみても「当たり前のこと」ばかりです。
やがて何となくわかってきたのは、人類が二千五百年かかっても「当たり前のこと」ができていないという事実です(私も鈍感ですね)。
論語の言わんとするところが実践されていれば、論語など誰も読まなくても問題はないはずです。ところが、現代に至っても仁(他人への思いやりの心。論語でいう最高の徳目)が世の中に定着している様子はありません。孔子先生も、まさか二千五百年後の未来がこの程度であるとは思いもしなかったでしょう。
さて、なんのかんの言いながら、私は論語をよく読むようになりました。まだ「論語読みの論語知らず」の域にすら達していませんが。
最近のお気に入りは次の言葉です。
曾子曰く 吾れ 日に三たび 吾が身を 省みる。
人の為に 謀りて 忠ならざるか、
朋友と 交わりて 信ならざるか、
習わざるを 伝うるか。
『論語』巻第一 学而
(訳文)
曾子(孔子の弟子)が言いました。
「私は日に3回自分の行ないを反省します。
1つは人のために真剣に物事を考えてあげただろうか
2つは友人と接するときに誠意を持っていられただろうか
そして3つはまだ自分がきちんと理解できていないことを、
受け売りで人に教えはしなかっただろうかということです。
研修講師にとって3つ目は特に肝に銘じておくべき言葉です。
そして、これは三省堂書店の名前の由来にもなっています。
(人材育成社)