中小企業のための「社員が辞めない」会社作り

社員99人以下の会社の人材育成に役立つ情報を発信しています。

適正数

2014年07月30日 | コンサルティング

「8頭もいる!」

知床が世界遺産に登録された数年後に訪れたウトロの旅館の窓から見える範囲にいたエゾシカを数えたところ、何と8頭もいました。近所の犬や猫よりも多いのではと思われる数にびっくりすると同時に、少々興ざめもしてしまいました。

今、北海道ではエゾシカの生息数が増えすぎ、様々な問題が顕在化しています。2013年にエゾシカが関係した交通事故は1,818件で、10年前の約3倍です。交通事故以外にも列車との事故や高山植物などの食害などをあわせると、被害額はおよそ64億円にもなるそうですから、エゾシカによる影響が甚大であることがわかります。

私はその昔、学生時代の夏休みにも知床を尋ねているのですが、当時の知床ではエゾシカを見かけることは極めて稀で、たまに出会えたとすればそれは幸運なことと考えられていました。

旅行途中に出会った学生同士で、「今日はエゾシカに何頭出会った、キタキツネを何匹見かけた」とその数を自慢し合ったことが今となっては大変に懐かしく感じられると同時に、この20数年の間の変化に改めて驚いてしまいます。

エゾシカがここまで増えた理由は、狼の絶滅、狩猟者の減少による捕獲数の減少、温暖化、さらに人間が食用にすることが減ったなど様々あるようです。環境や人間とうまく共存できる、適正な数を大幅に超えてしまった結果の被害の大きさを考えると、このまま静観しているわけにもいかない事態だと思います。

さて、話は大きく変わりますが、先日の朝日新聞に現在弁護士や税理士など、難関と言われる試験を突破した「士業」の人たちが厳しい環境下にあるという記事が掲載されていました。

かつては、試験は難関だけれども合格すれば高額な報酬を得られるとして大変人気だった公認会計士や税理士、弁護士といった「士業」ですが、今は資格を取っても弁護士事務所に就職できず、独立して事務所を開いても会費を払うことができずに、弁護士の道を諦めてしまう人もいるそうです。花形に思える「士業」も実は大変に厳しい状況にあるのですね。

なぜ、こうした事態になってしまったのか?原因の一つには、資格保有者が増加して供給が需要を大きく上回っている、いわば適正な数を大きく超えている状況があるようです。

こうしことから、政府も「司法試験の合格者数が多すぎる」ということで、合格者数を「年3,000人程度」とした目標の撤廃や法科大学院の統廃合など、是正に向けた検討に入っています。

難関の「士業」の話と冒頭のエゾシカの話を同じ土俵で考えるのは失礼だとも思いますが、どちらもいわば適正な数を越えてしまった結果、思わぬ形で影響が出てしまっているという意味では同じと言ってもいいのではないでしょうか。

需要と供給のバランスが大切である。これは自然の世界の話だけでなく、我々のビジネスの世界においても言えることです。

いずれにしても競争に勝って生存し続けることは簡単ではないということですが、私も決して他人事ではありません。資格のない研修講師は比較的参入しやすいと考えられており、どうしても供給過剰になりやすいので、この世界でも厳しい競争を生き抜くことはなかなかに大変なことなのです。

  (人材育成社)


天国の食事、地獄の食事

2014年07月27日 | コンサルティング

「天国も地獄も、食事のときはまったく同じです。美味しそうな料理がたくさん載っている円いテーブルをみんなで囲んで食事をします。」

「ただし、私たちの食事の仕方と違うところが1つだけあります。天国も地獄も、片手はテーブルの上に、もう一方の手には1メートル以上もある長いお箸がくくりつけられています。」

「いざ食事となると、地獄ではお箸が長すぎるために、思うように食べ物を口まで運ぶことができません。必死で自分の口まで食べ物を運ぼうとするのですが、何度やっても食べ物はポロポロと下に落ちるばかりです。地獄にいる人達はいつまでたってもおなかが一杯にならず、空腹で苦しんでいました。」

「一方、天国ではいつもおなか一杯、幸せを感じながら過ごしていました。天国では、自分が持っている長いお箸で遠くにある食べ物をつまむと、その正面に座っている相手に向かって差しだし、『あなたからどうぞ』と言って口元までを運ぶのでした。テーブルを囲むお互いがみんな同じように、『あなたからどうぞ』というお箸の使い方をしています。」

「長いお箸は、自分のために使うお箸ではなかったのです。」

少し長くなりましたが、こういうお話を聞かれた方もいらっしゃると思います。出典は不明ですが、仏教の法話から来ているようです。  

実は、最近これと似たような現実(?)を見たように感じたことがありました。

ある外資系の企業での話ですが、MBAのようなハイレベルのスキルを身に付けた人は、その知識やスキルを同僚や後輩に教えたがらないそうです。「自分が時間とお金をつぎ込んでようやく手に入れた『財産』をタダで他人に渡すなんてあり得ない!」といったところでしょうか。

また別の企業ですが、研修や自己啓発で仕事に役立つスキルを身に付けることは「他人より仕事ができるようになって、ライバルを蹴落とすことだ」と言う人もいました。

いずれも、「ビジネスとはそもそも競争だ。地獄で結構!」という考え方です。

しかし、単純な競争原理が本当に絶対的な真理なのでしょうか。

ゲーム理論(の応用編)を学んだことのある方は、「繰り返しゲーム」や「進化ゲーム」においては利他的な行動、すなわちお互いに信頼し合うことが、自分も含めた全体の利益を最大にするということを理解していらっしゃると思います。

ビジネスに限らず社会は利他的行動によって安定し、進化してきました。それは数学的にも証明されています(フォーク定理)。

社会で、職場で、私たちはいつでも長いお箸を持って生きているのかもしれません。

(人材育成社)


「犬は人に付き、猫は家に付く」?

2014年07月23日 | コンサルティング

夜帰宅すると、我が家の玄関の前に真っ黒な猫がいることがあります。帰ってきた私の姿を見ても逃げるでもなく、じっとこちらを見つめたままで私が玄関に入ろうとしても全く動じることもなく、そのまま座り続けているのです。

以前、一度だけ追い払うそぶりをしたところその時は逃げたのですが、玄関わきの車の下に身を潜めただけですぐにまた姿を現して、ちょこんと座ってしまいました。

今の家に引っ越してそろそろ3年になるのですが、これまでに何度もこうしたことがあったので私もこの光景にすっかり慣れてしまい、今では「ただいま、クロちゃん。またここにいたんだ!」と声をかけるまでになってしまいました。

そうすると、気のせいかクロちゃんから「ここは俺の家だ!」という返事が聞こえてくるような気がするのです。

よく「犬は人につき、猫は家に付く」と言いますが、これは犬と猫の性情を言い表したものです。飼い主が引越しをする時、犬は飼い主に忠実にどこまでもついていきますが、猫は飼い主にはついていかず住みついた家に残っている、猫は人よりも家の建物・場所になじむということを表している言葉です。

本当のところは、クロちゃんが元々ここに住んでいた猫なのか、あるいは近所で飼われている猫なのかはわかりませんが、クロちゃんを見かけるたびに「犬は人に付き、猫は家に付く」を思い出すのです。はたして真相はいかにといったところです。

組織においても、組織から独立しようとする人がいると一緒に職場を去る人がいます。先日お会いした人も、「新卒で入社した会社で一緒だった人が独立することになったので、その時に私も一緒にそこを出ました。気が付けばあれから10数年です」とおっしゃり、現状にとても満足されているとのことでした。

会社に残るか、独立する人と一緒に外に出るのか。どちらを選ぶとしてもそれぞれに一長一短があるでしょうから、これは実に悩ましい選択です。

しかし、同時に「一緒に外に出ようか」と迷うくらいの人と出会えたこと自体が、とても幸運なことだとも考えられるわけですから、どちらにしても後悔だけはしない選択をしたいものです。

ところで、冒頭のクロちゃん、近所の飼い猫なのかそれとも地域猫なのかわかっていないので、はたしてクロちゃんが飼い主についているのかそれとも我が家についているのか、どちらの選択をしたのかはよくわかりませんが、本人?はいつも毛並みがつやつやとして幸せそうにしていますから、クロちゃんにとってきっと良い選択をしたに違いないと思っています。

(人材育成社)


型にはまってこそ研修

2014年07月20日 | コンサルティング

教育というものは、多かれ少なかれ受講者を型にはめる行為です。特に研修という教育方法は、型を明確に示し、その型を短時間で身につけさせることが目的であると言っても過言ではありません。

研修のために用意された型は、わかりやすく、習得しやすい姿をしています。たとえば、論理思考(ロジカルシンキング)では、ロジックツリーやピラミッドストラクチャーといった見た目からしてシンプルな道具を使います。

たとえば、ロジックツリーは、問題を樹状(枝状)に細かく分解した図です。組織図や系統図を思い出してもらえればよいでしょう。その構造はきわめてシンプルです。それは包丁や鍋といった料理道具がシンプルな形をしているのと同じです。

包丁や鍋の使い方は難しくありません。それと同じように、ロジックツリーやピラミッドストラクチャーも、しっかり研修を受ければ簡単に使えるようになります。シンプルであることの大きなメリットです。

しかし、同じ料理道具を使っても料理の上手い人と下手な人はいます。上手くなるには練習も必要です。練習に練習を重ね、もっと上達すれば、人からお金を取れる料理を作ることができるようになるかもしれません。

経営コンサルタントは、論理思考の道具の使い方が抜群に上手な人たち、例えて言うならプロの料理人といったところでしょう。

言うまでもありませんが、プロの料理人は個性的です。型にはまっていません。型を完全に身につけ、それを脱して、自分なりの型を編み出したからです。それは、茶道や武道の守破離(しゅはり)に近いものかもしれません。

研修とは「守」であり、まずは型にはまる段階です。誰もがプロを目指す必要はありませんが職場で活用できる(美味しい家庭料理が作れる)くらいの腕を身につけていただきたいものです。

(人材育成社)


逃げ場がない

2014年07月16日 | コンサルティング

犬は体温調節をほぼ呼吸だけで行う特殊な動物で、夏場は熱中症になってしまう危険性が高いのだそうです。先日、親戚の家で飼っている犬に散歩をおねだりされ1時間くらいの散歩をしたところ、暑さが相当こたえたのか、家に戻ってからしばらくの間、庭の木陰で土の上に伏せていました。

これから訪れる盛夏は犬にとって受難の日々が続きますから、犬を飼っている方は暑さから逃げられるように、特に気を付けてあげなければいけませんね。

さて、ここ数年、今年は冷夏になるとの予報をあっさりと覆し、毎年暑い夏がやってきています。今年もはじめはエルニーニョが発生して冷夏になるのではと言われていましたが、結局普段どおりの暑い夏になっています。

私は暑さには滅法弱いので、毎年この時期はまるで修行僧のような気持ちになり、ただただ暑さに耐え忍ぶ日々を過ごしています。あまりにつらいと、とにかく高温から逃れたい一心で涼を求め、避暑地と言われる軽井沢や那須などに出かけることもありますが、タイミングが悪いのか、私がそれらの地を訪れてもなぜか涼しくないことが多いのです。

そうなると少々大げさですが、もはやどこにも逃げ場がないという絶望的な気持ちになってしまうのです。それくらい暑さが苦手な私ですので、この夏も一体どうなることやらと思っています。

話は変わりますが、ここ数年職場におけるパワーハラスメントが大きな問題になっています。問題が顕在化していても、被害者が自ら問題の解決を図ろうとしてもなかなか難しい現実があります。

先日も、数年にわたり職場でパワハラを受けていたという人から話を聞く機会がありました。その人は、「逃げ場がない」という切実な気持ちになり、しばらく仕事を休んだそうですが、彼を救ってくれたのは、別部署の上司だったとのことです。

職場で起こるパワハラに対して逃げ場、つまり相談できる人や駆け込むことができる人や場所、いわば「逃げ場」があれば被害を受けている人も救われることができます。

そして、この逃げ場ともなる人や場所を作るには、日頃から自らの職場以外にも社内の他部署や、場合によっては社外にもネットワークを築けているかどうかが大きいと改めて思いました。仕事以外での人間関係が、いざという時には助けになるということだと思います。

もちろん、新人や異動直後の人にとって自職場以外のネットワークを作るのは簡単なことではないかもしれませんが、それを意識して日々を過ごすのとそうでないのとでは、いざという時の結果は大きく違ってくることになると思います。

さて、暑さが厳しくなってきたので、私は今週末涼を求めて北海道に行ってきます。早くも暑さから逃げるわけですが、果たして北の大地で涼を味わえるでしょうか?

(人材育成社)


課長-係長ラインが会社を支える

2014年07月13日 | コンサルティング

日本の会社はミドルマネジメント(中間管理職層)が支えていると言われてきました。とりわけ課長の役割は重要で、トップダウンでもボトムアップでもなく、「ミドルアップダウン」であると言う人さえいます。

課長は、経営層の指示や意向を部下に伝えると同時に、部下から上がってくる様々な情報を経営層へ伝える役割を担っています。さらに、他部署との調整や社内外の組織との交渉窓口でもあります。

このように、課長は組織における「上・下・左・右」の関係を構築し維持する重要な連結点です。実際に、多くの課長は仕事の重圧の耐えつつ、残業代も出ないのに深夜まで仕事に没頭しています。その働きぶりはまさに超人のようです。

しかし、「課長職を命ず」という辞令を受け取った瞬間に、誰もが急に超人になれるわけではありません。いや、絶対になれません。ある仕組みが必要です。

係長、課長代理、課長補佐、主任、グループリーダー・・・呼称はともかく、課長を支えるポジションに優れた人材がいることが、超人的な活躍をする課長の必要条件です。

係長の役割は、実は課長以上に大変です。課長が意思決定しやすいように資料を作っておく、関係者を集めた会議を設定する、課長の手が回らなかった仕事をフォローする、そして課長のミスを尻拭いする!です。「課長が決め・係長が実務をこなす、課長が収め・係長が処理する」という体制が、課長を超人にしているのです。

大抵、すごい課長の陰にはすごい係長がいます。「A課長の陰に切れ者B係長あり」、「鉄壁のC課長・D係長ライン」などといった名コンビのうわさ話(・・・と言っても、本人が吹聴しているのですが)を以前はよく耳にしました。

また、係長も課長を助けることで実務に精通し、他部署とのパイプがつながり、少しずつ課長になる準備ができていきます。

しかし15年ほど前から、人員削減と組織のフラット化の影響もあって、こうした名コンビの話を聴くことが少なくなりました。

十分な係長経験もなく課長になり、しかも自分をサポートしてくれる係長もいないとなれば、かなりしんどいことは間違いありません。

組織が大きくなればなるほど、課長は係長のサポートを受けながら経営層の意思を係長に伝える、係長は課長の仕事の実務部分を引き受けることで課長から学ぶ、というプロセスが必要になってきます。

つまり、課長の元で係長を経験するということは、正統的な人材開発のルートなのです

そして、30代、40代という働き盛りの人材が通る「係長→課長」というハードな過程で選抜(あるいは自然淘汰)され、経営層にふさわしい人材が残っていきます。

こうしたことは、終身雇用(長期安定雇用)でなければ実現できませんし、毎年コンスタントに将来の係長候補者を採用していく必要もあります。

会社の根幹を支える人材を手に入れるには、手間と時間がかかるのです。

(人材育成社)



パワーハラスメントの歴史

2014年07月09日 | コンサルティング

「織田信長は究極の『サイコパス(PSYCHO-PASS)』だったのではないか」とは、脳科学者の中野信子氏の言葉です。「サイコパス」とは、他人への共感能力が欠如している人のことであり、人をモノのように道具として扱う人のことをいいます。

ご存知のとおり、織田信長は家臣の明智光秀が起こした謀反によって本能寺の変で「是非に及ばず」という言葉を残し自害しています。

現在放映中のNHK大河ドラマ「‎軍師官兵衛」も、次回13日はいよいよ「本能寺の変」が放送されます。

信長は徹底的な成果主義によって家臣に成果を求めたと言われています。光秀も当初は信長の期待に応えるべく、比叡山の焼き討ちをはじめ数々の虐殺などおぞましいことをやってのけていましたが、働きの悪い別の家臣が高野山に追放されるなどの厳しい仕打ちを見聞きし、いつかは自分も使い捨てにされることを恐れ、時期を待たずに謀反という策に出たのではないかと言われています。

さて、本能寺の変の原因?となった信長の所業ですが、これは現代で言うところの「パワーハラスメント」であり、織田家はさしずめ「ブラック企業」と言えるのかもしれません。極端な成果主義・実力主義によって疲れ果てて成果を出せなくなった人は、使い捨てにされたのです。

弊社では、この2~3年「パワーハラスメント」や「叱り方」をテーマとした研修の依頼を受けることが多くなりました。職場でのパワーハラスメントが顕在化しているにもかかわらず、全く手を打たない、打てない上司がいる一方で、パワーハラスメントと誤解されることを怖れるあまり、「叱る」ことができない上司の存在も問題になっているのです。

これらはどちらも表面には見えない、もっと深いところに根がある問題であり、一朝一夕に解決できるものではないのでしょう。

信長に忠実で非常に優秀であったと言われている光秀でさえついには翻意し、上司への反逆に出たわけですから、パワーハラスメントは一方がやり過ごすことで解決できるほど単純なものではありません。

ですから、研修を通じて問題の根はどこにあるのか、どうすれば解決できるのかをしっかり考えて実践することが必要なのです。

もし、あなたに部下がいて、現在自分のしていることは「もしかしたらパワハラか?」と少しでも思い当たる節のある方は、そうした状況はやがて破たんする可能性があることを自らの肝に銘じておかないと、いつか、目の前にいる部下が光秀のように反逆にでるかもしれません。

ところで、歴史上信長を反面教師としたと言われているのは信長の後継者の豊臣秀吉であり、直江兼続だそうです。秀吉は信長の政策をほとんど継承しましたが、ただひとつ、殺戮と恐怖政治だけは受け継がなかったようです。恐怖ではいつまでも人を従わせることは出来ないということを学んだのでしょう。

光秀が本能寺を襲わず、信長が生きていたらどうなったか?想像すると興味深いですが、歴史に「たられば」はありませんから、誰にもわかりませんね。

(人材育成社)


「失敗を恐れるな!」という言葉を口にしてはいけない

2014年07月06日 | コンサルティング

「いまどきの若者はチャレンジ精神が足りない。何をするにも失敗を恐れる。」新人研修の後で、経営者や管理職の方々と話しているときによく耳にする言葉です。

確かに、最近の新入社員は勉強熱心で、そつがなく、協調性もある人が多いようですが、チャレンジすることに対しては少し消極的かもしれません。

しかし、「失敗を恐れるな」という勇ましい掛け声を発している経営者や管理職は、「失敗」をどのようにとらえているのでしょうか。

ある大手企業の新人研修で、「先輩から贈る言葉」というお題で40代の課長さんに3分間のショートスピーチをお願いしたことがあります。その課長さんは会社の中でも出世頭、いわゆるエリートでした。

「君たちは色々なことにチャレンジしてほしい。失敗を恐れてはいけない。私は、若いうちにもっと失敗しておけばよかったと思っているくらいだ」とその課長さんは20名ほどの新人に向って熱く語りました。ところが聞いている新人の方は・・・ほとんどがしらけた表情をしていました。

その後、1時間ほどして研修が終わりました。そこで一気に気が緩んだのか、新人同士が雑談を始めました。

「XX課長、失敗を恐れるな!なんて言ってたけど、先輩にきいたらあの人、一度も失敗しなかったから出世したんだってよ。」「あー、やっぱりな。うちの会社減点主義だもんな。上司に逆らってまでチャレンジなんてあり得ないし。」・・・もちろん、脚色はしてありますが、大体こんな内容の会話をしていました。

どうやら経営者や管理職の方々が考える失敗とは、会社にとって何の影響もない、ちょっとした可愛らしいことのようです。ちょうど、小さな子供が転んで泣いていたら「立ち上がって歩いてほしい。転ぶことを恐れてはいけない。」という感じで励ますような・・・。

また、ある中小企業の社長に、若手社員のチャレンジを奨励しているかどうか聞いてみたことがあります。

「もちろん若手にはいつも、失敗を恐れずチャレンジしろと言っている。ただし、会社に大きな損害を与えるような失敗はダメだ。」とのことでした。私は、すかさず「では、そのときの損害とは、金額でいくら位が限度ですか?」と聞きました。

「うーん、10万円・・・くらいかな・・・」と言いました。その直後、しまった!という表情になって、「いや、いやいや、金額の問題じゃないですよ!」と言って笑っていました。10万円は、この社長が1回のゴルフで散財する金額とどっこいといったところです。

私見ではありますが、「失敗を恐れるな!」と口にする経営者や管理職が多い会社ほど「チャレンジ精神」のかけらも無いようです。失敗に対して×を付ける人事考課を平気で繰り返しているのですから、誰もチャレンジしようなどと思うわけがありません。「いまどきの若者はチャレンジ精神が足りない。何をするにも失敗を恐れる」・・・そりゃそうでしょう。

さて、失敗に関する名言を2つご紹介します。

「日本人は、失敗ということを恐れすぎるようである。どだい、失敗を恐れて何もしないなんて人間は、最低なのである。」

「失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければ、それは成功になる。」 

前者は本田宗一郎、後者は松下幸之助の言葉です。

「このお二人のように」とまでは言いません。せめて少しでも「失敗を許容する度量とチャレンジ精神」を持った経営者の方だけが口にしていただきたいものです。

(人材育成社)

 


実は意外に見ていない

2014年07月02日 | コンサルティング

一万円札に描かれていている人は福澤諭吉、五千円札は樋口一葉ですね。では千円札は誰ですか?

 毎日のように手にしているはずの千円札ですが、誰が描かれているかきちんとわかっている人は意外に少ないように感じています。

一万円札や五千円札はわかる人が多いのに千円札がわからないとは、皆さん普段から高額なお札以外はあまり手にすることはないということなのでしょうか?(笑)

さて、冒頭の質問の答えですが、夏目漱石?いやいや、野口英世でしょうか?

言うまでもありませんが、正解は野口英世です。

この例からは、普段私たちが目にしているはずのものであっても、ちゃんと意識をして見ていないと意外に認識できていないということが改めてわかります。

自分が興味のあるものであれば、意識する、しないに関わらず目に入った情報は自ずと認識できるのでしょうが、そうでないものは意識して見るようにしないと目に入ってもきちんと認識できないということなのでしょう。

そして、これは人間関係においても同じことのように思います。

相手が自分にとって興味のある人や気の合う人だと、その人にかかわる情報は受け身にしていても入ってきますが、あまり興味のない人であるのならこちらが能動的に見るようとしないと、情報をキャッチすることができません。

通常、私たちが何かを「みる」時に使う漢字は「見る」と書きますが、観察するという時の「みる」は「観る」という字を使います。さらに医者が患者を診断する時には「診る」という字を使います。

同じ「みる」という字であっても、「見る→観る→診る」ではそれぞれに見方の度合いが異なり、左から右に行くに従って「より深く」みるようになっていくように思います。

以前このブログでも書きましたが、「部下がなかなか育たない」と嘆いている管理者に頻繁にお会いします。

「それでは、あなたはその部下をきちんと観察することはありますか?」とお尋ねすると、大抵の場合「部下は大勢いますし、そもそも忙しくてそんな暇はありません」とおっしゃる人が多いのです。

もちろん、毎日毎日部下全員を丁寧に観察していたらそれだけで一日が終わってしまいますので、それは所詮無理な話です。

しかし、そうではなくて毎日10分でいいので、ある一人についてきちんと観察をしていただきたいと思うのです。その部下がどのような仕事の仕方をしているのか、何が問題なのかを意識しつつ観察をすることで、思いがけず部下を成長させるための新たな発見があるかもしれません。

一日に10分であればあまり負担にはならないでしょうし、仮に部下が10人いても2週間あれば一巡できるわけですから、嘆く前に是非取り組んでみることをお勧めします。

冒頭の千円札の例ように、身近であっても意外にわかないことはたくさんありますから、先ずは「意識的に見る」ことから始めていただくといいのではないでしょうか。

(人材育成社)