ノア

　クローン技術の誕生は世界に衝撃を与えた。映画スターウォーズに出てくる白い甲冑のようなヘルメットと装甲服の帝国軍兵士はみんな、ひとりの賞金稼ぎの遺伝子から作られたクローンであるという設定らしい。アニメ新世紀エヴァンゲリオンに登場する綾波レイもどことなくシンジ君の母親のクローンであるように見える設定になっている。これらの作品が作られた当時は、クローン技術こそ人の域を超えた神の領域の技術だったのである。
　
　ところが、今やクローン技術をはるかに凌ぐiPS細胞を作り出す技術が開発され、その発見に対しノーベル賞が贈られるまでになった。役割を与えられ何らかの仕事を専門にこなす大人になった細胞を「初期化」して、何にでもなれる赤ん坊のような未分化の状態に戻すことができる技術が開発された。
　
　クローンといえば基本的に、ある生命体のコピーであるようなイメージだが、iPS細胞を基に作った細胞を使って作り上げた新しい個性を持った個体を、これから何と呼ぶことになるのだろう。
　例えば、ある男性の細胞を初期化して作ったiPS細胞に手を加えて、精子と卵子を育成したとする。この精子と卵子を受精させて生まれた子供は一体何と呼べばいいのだろうか。こうして生まれた女の子や男の子が成人して恋に落ち、また子供を作ったとしたら、その子は何と呼べばいいのだろう。もちろん、倫理的に、ここで言っているようなことが起きることはありえない。しかし、技術的にはすでに可能な状況にあろう。現時点では創りだした受精卵を育成するためには健康な大人の女性の体を借りる以外ないが、人工的に受精卵を培養できる装置が開発されれば、男だけでも子供を授かることが出来る。
　
　研究が進めば、細胞のサンプルを基に絶滅した種の復活なども技術的には可能になるだろう。その同じ技術を使うと、ノアの方舟を作るのにもかなりコンパクトなサイズで済む。ノアの時代にはあらゆる種の動物をオスメスつがいで、しかも餌も一緒に運ぶスペースが必要だったが、運ぶのはその種の細胞サンプルだけでいい。培養をロボットに託すのであれば人間の生活するスペースさえ不要だ。おそらくそのような計画が進む場合は、方舟自体が一定の判断を行えるレベルの知能を持ったものになるだろう。送り出す人類が残っているなら、その船にはきっとノアと名前を付けるだろう。知能を持った方舟ノアは、育成する人の子に、人類の全てを教育する任務を与えられることになるだろう。
　
　次に期待されている神の領域の発見は、記憶のメカニズムに関する発見だろう。人が一生の間に積み上げてきた様々な経験を、その人の死とともに消失させること無く、何らかの形で取り出しプールしておき、再度iPS細胞を基に創りだした新しい無垢の脳に注ぎ込むことができれば、ある意味その人は死なない。新しい体を手に入れて生まれ変わることができる。メカニズムが記号化されデジタル化されるまで研究が進むことになれば、人の記憶は記録媒体に記録できるところまで進むかもしれない。
　
　恒星間飛行には時間がかかる。隣のアルファ・ケンタウリでも4.2光年の距離だ。光の早さで4年以上かかるということだ。光の速度は秒速30万キロ。現在のロケット技術で飛ばした最高速記録がボイジャーの秒速70キロ。この最速ボイジャーの速度で飛んで、アルファ・ケンタウリまで単純計算で1万8000年はかかってしまう。ロケット技術の進歩で大幅に期間短縮されると考えても人の寿命以内の期間で到達するのはなかなか難しいだろう。細胞サンプルと記憶の記録媒体から人を再生できるのなら、恒星間飛行には肉体が伴うことはないかもしれない。ロボット宇宙船だけで飛んで行き、到着の何年か前から肉体を再生培養して記憶を復活させる。帰りは記憶媒体だけでいい。肉体は到着した恒星系にも出発した地球にも生き続けている。
　
　iPS技術の進化は、とてつもない未来を予感させる。（三）
　
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