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「パンズ・ラビリンス」

 先週土曜の夜に、TV朝日系「SmaSTATION」の1コーナー、稲垣吾郎が香取慎吾の選んだ5本の映画にランクをつける「月イチゴロー」で、稲垣が「パンズ・ラビリンス」というメキシコ・スペイン・アメリカの合作映画を1位にした。「十年に一本の名作」と稲垣が絶賛するのを見ていた妻が、「私も見たいと思っていた」と俄かに言い出した。そんなに面白いならそのうち見に行こうか、と私もつい乗せられてしまった。ところが、家に一番近いシネコンでの上映は今週限りだというのを妻が見つけて、昨日あわてて出かけた。「SmaSTATION」で流れた映像は、ラビリンス(迷宮)に迷い込んだ女の子を描いたファンタジー物語のような印象を受けたし、「主演の女の子がすばらしい」という稲垣の評価を鵜呑みにして、久しぶりの映画を楽しもうと思った。ならば、これ以上の先入観を持たずに映画そのものを味わった方がいいだろうと、ストーリーなど一切調べずに映画館の椅子座った。
 それがよかったのか悪かったのか・・。物語は私が予想していたのとまったく違っていた。確かにファンタジーの要素はたぶんにある。はるか昔に地下の国から地上に迷い込んだ王女の生まれ変わりかもしれない少女・オフェリアが、自らの生まれた王国へ戻るために、王国の牧神「パン」から3つの試練を与えられ、つらい思いをしながら試練を乗り越えていく・・、というファンジーの王道のようなストーリーが前半部では展開される。しかし、この映画は1944年スペイン内乱時を背景としているため、フランコ独裁政権とそれに反抗する民衆ゲリラとの戦いが次第にクローズアップされてくる。少女の母親の再婚相手の政府軍の大尉の残虐さが執拗に映し出され、目をふさぎたくなるシーンが繰り返されるようになって、次第にファンタジー映画とはかけ離れた戦争映画を見ているような気になってしまった。
 最後にこの少女は大尉によって射殺されてしまう。ファンタジー物で主人公が殺されてしまうことなどありえないが、それが自らの命を犠牲にして新しい命を守ったということになり、無事に王宮に戻れたというファンタジー的な結末は一応付けられてはいる。だが、それも、マッチ売りの少女が死ぬ間際に思い描いた夢物語のようなもので、現実には冷たい屍となった少女が横たわっているのだから、ただただ救いようのない結末としか私には思えなかった。見ている途中から、次第に募ってきた疲労感が映画の終わりと同時に一気に襲ってきて、心がやたら重くなってしまい、「稲垣吾郎にだまされた・・」そればかり思っていた。
 一緒に行った妻も、同じような感想だった。こんな映画だと知っていたら見に行かなかっただろう。なぜスペイン内乱の凄惨さをバックボーンにして、少女の夢想を描かなければならなかったのだろう。あまりに暴力に満ちた世界をストレートに描いては観客に受け入れられないと恐れたのだろうか。夢想の世界がいくら甘美なものであっても、圧倒的な力を持つ現実の前では無力に過ぎない、それを少女の死によって描こうとしたのか・・。などと帰りの車中であれこれ話してきたのだが、結論はやはり、「ゴローちゃんにだまされた」となってしまう。稲垣吾郎はいったいこの映画の何を見たんだろう。今まで「月イチゴロー」は何度も見て、それなりに納得できることを言っていた稲垣だけに、この映画の彼の評価もそれなりに尊重していた。たしかに映画そのものは一定の評価に値するものだと思う。だが、稲垣に歴史的知識が欠けていたことは否めないだろう。軍事独裁政権の暴虐さに対する批判が込められているのは明らかなのに、ひょっとするとそれがメインテーマかもしれないのに、まったくそれに触れなかったのは、芸能人・稲垣の限界なのかもしれない。
 家に帰って、HPを見たり、映画評をのぞいたりしてみたところ、「ダーク・ファンタジー」という言葉が散見された。現実と夢想の狭間の迷宮にはまり込んだ少女の物語としてこの映画をとらえるならば、そんな言葉を使ってもいいかもしれないが、内乱の犠牲になった哀れな少女の物語と考えるなら、ふさわしくないような気がする。
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