goo

「アホの壁」

 筒井康隆「アホの壁」(新潮新書)を読んだ。養老孟司の「バカの壁」を読み終わってから、かなり時間がかかってしまったのは、妻が先に読み始めていたので、その合間を縫って読み進めるという窮屈な読書を余儀なくされたためだ。まあ、内容が思ったほど面白くなかった、という事情もあるにはあるのだが・・。
 
 『小生が考えた「アホの壁」とは、養老さんの「バカの壁」のような人と人との間のコミュニケーションを阻害する壁ではなく、人それぞれの、良識とアホとの間に立ちはだかる壁のことである。文化的であり文明人である筈の現代人が、なぜ簡単に壁を乗り越えてアホの側に行ってしまうのか。人に良識を忘れさせアホの壁を乗り越えさせるものは何か。小生はそれを考えてみようと思ったのだ』

と冒頭に本書を書いた意図を明らかにしているが、私の読んだところその目論見が十分果たされたとは言い難いように思う。筒井康隆の本を読み始める時、誰しも「抱腹絶倒」な内容を期待してしまうだろうし、その期待に見事応えてきたのが筒井康隆の筒井康隆たる所以だろう。私も本書にそれを期待した一人であるが、見事に肩透かしを食らってしまった。「こんなアホがいたよ」といくつものエピソードを語るものの、些か新鮮味に欠けた感は否めず、どれからもクスグリ程度の笑いしか浮かんでこなかった。意図して読者の期待を裏切り、真正面から論陣を張ろうとしたかもしれないが、フロイトを援用するなどというかなり古めかしい論説では、説得力に欠けているように思えて仕方なかった。「エロスとタナトス」「リビドー」などという語を散りばめられても、フロイトの説を有難く思ったことなどない私には、まさに「馬の耳に念仏」であった・・。
 やはり筒井康隆は小説家なのだろう。小説という舞台で想像力を縦横無尽に駆り立てながら一つの世界を創造する、そうしたことには類まれな才能を持った人物であろうが、コツコツと論証を積み重ねていく論文形式の著作には十分にその才能を発揮できていないように思う。「人に良識を忘れさせアホの壁を乗り越えさせるものは何か」などという問いに対する答えは、すでに彼のあまたの小説の中に表されているではないか。それを何故今さら、面白くもない新書形式で発表しようとしたのだろう、よく分からない。
 しかも、本書の末尾に、
 
 『人類はやがて滅亡するだろうが、そしてそれは最終戦争以外の理由であるからかもしれないが、その時はじめてわれわれはアホの存在理由に気づくだろう。アホがいてこそ人類の歴史は素晴らしかった、そして面白かったと。たとえ人類滅亡の理由がアホな行為にあったとしても、アホがいなければ人類の世界と歴史はまるで無味乾燥だったに違いなかったのだと。アホとはなんと素晴らしいものであろう。
 アホ万歳。』

などとあまりに予定調和な文言を吐かれてしまうと、最後まで何のために読み進んできたのか分からなくなってしまった。これでは、アホの壁を乗り越えてしまったところで、アホがいるからこそこの世は楽しいわけで、別にアホになったって構わないんじゃないか、という結論になってしまう。アホな行為や言動が、この世知辛い社会を少しでも暮らしやすくするための潤滑油の役割を果たしていると言いたいのなら、何もアホな奴らのアホさ加減を貶めるような筆致ではなく、最初から「アホ礼讃」といった趣旨で書いてくれた方がもっとずっとずっと面白かったように思う。まあ、そうやって読者を裏切ることが筒井康隆一流のギャグなのかもしれないが・・。
 しかし、いくつになっても筒井康隆は筒井康隆のままであるのはすごいことだ。このまま死ぬまで筒井康隆でい続けるのだろうから、やはり怪人物であることだけは間違いないであろう。
 
 
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )