goo

意志

 このところよく見聞きする言葉、「生かされている命」。私はこの言葉がよく理解できない。
 例えばこの私が「生かされている」と教えられたなら、すぐに「誰、または何によって?」と訊き返したくなる。
 「目に見ない大きな存在(意志)」などと答えられても、そんな抽象的なものに己が生かされているなどと思いたくない。第一、「目に見えない大きな存在」って何?
 震災に遭い、九死に一生を得た人なら、心の奥底から感じ取れるものかもしれないが、それなら、震災で亡くなった人たちは、その大きな存在によって「生かされなかった」のだろうか?大きな存在とは、人の生き死にを支配しているものなのか・・。
 
 吉野弘の「I was born」という詩に次の一節がある。

  確か 英語を習い始めて間もない頃だ。
  或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと、青い夕靄(ゆうもや)の奥から浮き出るように、白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。
  女は身重らしかった。父に気兼ねしながらも僕は女の腹から目を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
  女はゆき過ぎた。 
  少年の思いは突飛しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと 諒解した。僕は興奮して父に話しかけた
 ---やっぱり I was born なんだね---
  父は怪訝(けげん)そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
 --I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意思ではないんだね--
   その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってはこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。


 確かに、人は己の意志とは関係なしに、この世に送り込まれる。まさしく受身だ。しかし、だからと言って、「自分は生まれてきたくなかった」などと拗ねていても詮ない。今己がこの世にあることをあるがままに受けとめ、己の意志で生きていこうとしなければ人生なんてあまりに詰まらない。「運命は己で切り拓くもの」、そう信じていなければ、生きている間に次々と襲ってくる苦しみや悲しみに押しつぶされてしまいそうだ。そういう意味において、私は「生かされている」とは思いたくない。どんな時でも、自分は「己の意志で生きている」のだと思いたい。
 もちろん、「生かされている」という言葉が、人は誰もが周りの人々や自然の力によって「生かされている」のだから、常に謙虚さと感謝の気持ちを忘れないようにしよう、というメッセージであると思えなくもないが、それでもやっぱり私は「己の意志で生きている」のだと思いたい。「感謝の心」や「謙虚さ」を持ちながら、生きていきたい。
 
 今こそ、強い気持ちが必要だと私は思う。つまり、受動的な思考より能動的な思考が必要な時期である、と。

 
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする