毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「かたちだけの愛」
平野啓一郎の「かたちだけの愛」を買ったのは、3月の始めだった。今年になって読んだ本が「KAGEROU」だけとは、いくらなんでもひどすぎると思い、なんでもいいから読もうと書店に行ったところ、運よくこの本を見つけた。今の小説家の作品など読みたいと思わない私だが、平野啓一郎だけは何作か読んでいて、当代一と言わぬまでも、大きな才能を持った小説家だと認めている。
だが、少し読み進めた時に東日本大震災が起こり、とても読み続けることができなくなってしまった。小説世界よりも現実世界の方が有無を言わせぬ力で迫って来る時、現実に右往左往するばかりで、とても小説世界に耽溺するだけの心のゆとりがなくなってしまう。文学の力など自然の猛威の前には無力であることを思い知らされる日々が続き、1か月近くこの小説は閉じられたままになっていた。
だが、今週になって、妙に続きが読みたくなった。私の中で絶えそうになっていた文学への信頼を取り戻したいという思いが強まったのかもしれない、再びページを開いたら、一気に読み終えてしまった。
「自動車事故で、片足を切断する大怪我を負った女優の叶世久美子。偶然、現場に駆けつけたデザイナーの相良郁哉は、彼女の義足を作ることになる。しだいに心を通わせていく二人は、それぞれの人生の中で見失っていた「愛」を取り戻そうとするが・・」
と、帯には書いてある。物語りの概略はこれで十分だろうが、ストーリーの面白さよりも、この書の題名を「かたちだけの愛」とした理由が何なのか、それが知りたくて加速度的に読み進めて行った。
この小説は、相良の前妻が別れ際に「あなたにとって、愛って何なの?」とたずねる場面から始まる。それに対して彼は、「少なくとも、水や空気みたいに、無いと死ぬってほどのものでもないよ」と答える。こんなスカしたことをさらっと言える男であった相良が、次第次第に久美子にのめり込んでいく過程は、なんだか微笑ましい。中学生くらいの男の子が、初恋の相手に惚れ込んで周りが見えなくなっていく過程にも似て、幾つもの恋愛を遍歴してきた男とは思えないほどだ。斜に構えながらも純な部分が多く残っている都会人の心情が上手く描写されているように思うが、幾つもの障壁を乗り越えて辿りついた久美子への愛情は次のように表現されている。
『相良は一つ、気が付いたことがあった。彼はこれまで父でも母でもなく、自分という人間を愛したことがなかった。(中略)
彼は今、久美といる時の自分が好きだった。他の誰といる時の自分よりも好きで、この自分なら愛せるかもしれないという気が初めてしていた。
なぜ人は、ある人のことは愛し、別のある人のことは愛さないのか?-愛とは、相手の存在が、自らを愛させてくれることではあるまいか?彼は今、誰よりも久美を愛していた。そして、彼女の笑顔が、自らの傍らにある時にこそ、もっとも快活であって欲しかった。彼女にとっての自分が、そういう存在でありたかった』
これは巻末にある言葉だが、冒頭にある前妻の問いかけへの答えにもなっている。とすれば、「かたちだけの愛」という題名は、かたちだけの愛しか持たなかった男女が、真の愛へと昇華されたことを表象したものと受け取ることができるように思う。
ただ、一つだけ苦言を呈するならば、何故芸能界に住む女性を選んだのだろう。光と影の交錯する芸能界だからこそ、派手な舞台装置が可能であり、設定も容易であっただろう。しかし、そのために全体的に安っぽい雰囲気が漂ってしまった感は否めない。思えば私がこれまで読んできた「決壊」「ドーン」も大仕掛けな話だった。確かにあるテーマを追求するには、舞台は大きい方が迫力がある。しかし、テーマによってはしっとりと語ることも有効ではないだろうか・・。
だが、少し読み進めた時に東日本大震災が起こり、とても読み続けることができなくなってしまった。小説世界よりも現実世界の方が有無を言わせぬ力で迫って来る時、現実に右往左往するばかりで、とても小説世界に耽溺するだけの心のゆとりがなくなってしまう。文学の力など自然の猛威の前には無力であることを思い知らされる日々が続き、1か月近くこの小説は閉じられたままになっていた。
だが、今週になって、妙に続きが読みたくなった。私の中で絶えそうになっていた文学への信頼を取り戻したいという思いが強まったのかもしれない、再びページを開いたら、一気に読み終えてしまった。
「自動車事故で、片足を切断する大怪我を負った女優の叶世久美子。偶然、現場に駆けつけたデザイナーの相良郁哉は、彼女の義足を作ることになる。しだいに心を通わせていく二人は、それぞれの人生の中で見失っていた「愛」を取り戻そうとするが・・」
と、帯には書いてある。物語りの概略はこれで十分だろうが、ストーリーの面白さよりも、この書の題名を「かたちだけの愛」とした理由が何なのか、それが知りたくて加速度的に読み進めて行った。
この小説は、相良の前妻が別れ際に「あなたにとって、愛って何なの?」とたずねる場面から始まる。それに対して彼は、「少なくとも、水や空気みたいに、無いと死ぬってほどのものでもないよ」と答える。こんなスカしたことをさらっと言える男であった相良が、次第次第に久美子にのめり込んでいく過程は、なんだか微笑ましい。中学生くらいの男の子が、初恋の相手に惚れ込んで周りが見えなくなっていく過程にも似て、幾つもの恋愛を遍歴してきた男とは思えないほどだ。斜に構えながらも純な部分が多く残っている都会人の心情が上手く描写されているように思うが、幾つもの障壁を乗り越えて辿りついた久美子への愛情は次のように表現されている。
『相良は一つ、気が付いたことがあった。彼はこれまで父でも母でもなく、自分という人間を愛したことがなかった。(中略)
彼は今、久美といる時の自分が好きだった。他の誰といる時の自分よりも好きで、この自分なら愛せるかもしれないという気が初めてしていた。
なぜ人は、ある人のことは愛し、別のある人のことは愛さないのか?-愛とは、相手の存在が、自らを愛させてくれることではあるまいか?彼は今、誰よりも久美を愛していた。そして、彼女の笑顔が、自らの傍らにある時にこそ、もっとも快活であって欲しかった。彼女にとっての自分が、そういう存在でありたかった』
これは巻末にある言葉だが、冒頭にある前妻の問いかけへの答えにもなっている。とすれば、「かたちだけの愛」という題名は、かたちだけの愛しか持たなかった男女が、真の愛へと昇華されたことを表象したものと受け取ることができるように思う。
ただ、一つだけ苦言を呈するならば、何故芸能界に住む女性を選んだのだろう。光と影の交錯する芸能界だからこそ、派手な舞台装置が可能であり、設定も容易であっただろう。しかし、そのために全体的に安っぽい雰囲気が漂ってしまった感は否めない。思えば私がこれまで読んできた「決壊」「ドーン」も大仕掛けな話だった。確かにあるテーマを追求するには、舞台は大きい方が迫力がある。しかし、テーマによってはしっとりと語ることも有効ではないだろうか・・。
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