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政治家とルポライター

 昨日の朝、TVをつけたら、民主党最高顧問・渡部恒三が予算委員会の質問者として発言していた。さすがにこれには驚いた。渡部恒三と言えば、福島原発を誘致した張本人であり、厚生大臣時代の1984年、原子力関係者との会合の席で「原発を作れば作るほど国民は長生きできる。日本のエネルギー問題の解決は原発だというのが私の政治哲学だ。」と失言し反原発グループから猛反発を受けたことで知られているだけに、いったいどんな顔をして原発事故について質問するのだろうと、注目していた。
 しかし、自身の責任には全く触れず、東京で使われる電力を賄うために設置された福島原発を「国策」であり、福島県民はそれに耐えてきた、今度の事故の責任はすべて東電にある、と言い放った時には、さすがに「黄門さん」などと持ち上げられることもあるこの人物の本質が見えたような気がして、開いた口がふさがらなかった。確かに原発事故で避難生活を余儀なくさせられている人たちの苦難や怒りを代弁する役割としてはそれなりに胸に迫るものがあったのも事実だが、奈何せん、そうした状況を招く基礎を作った者として見てしまうので、自分のしてきたことには一切触れず、東電のみを悪者にしてしまう彼の厚顔さには憤りを通り越して、呆れ果ててしまった・・。
 
それと比べると、その前日の毎日新聞夕刊に掲載された鎌田慧の言葉には胸にずしりと響く重みがあった。
 彼は「原発列島」(集英社新書)などで日本の原発に警告を発し続けてきた人である。そんな人が福島原発の事故に対して、「いったい何をやってきたのか。自家発電機で暮らすとか無人島に住むとか、僕自身、消極的な抵抗もしていない。すでにある存在として原発を認めていたのではなかったか」と、深く己に問いかけ、「原発反対と書き続けながら大事故を防げなかった。僕も切迫感が足りなかった」と、己を戒める。さらには、「私たちの繁栄は誰かを『踏み台』にして成り立っている。その想像力の欠如こそ原発体制の罪なんです」とも・・。

 この二人の違いはどこからくるのだろう。原発を推進した者は己の行動に何らの反省も加えず、他者に責任をなすりつけ、反対した者は自分の予想した災厄を防げなった咎を己の身に引き受ける・・。だが、考えも生き方も全く向きの違う二人が、今ともにこの国の将来を憂いている。どちらが正しく、どちらが誤っているかなど、今は問うべきことではないかもしれない。だが、どうしてこんなにも潔さが違うのだろう・・。
 権力に擦り寄り、権力を笠に着ようとする者と、権力から身を避け、権力を疑う者との違いなのか・・。要するに、政治家とルポライターの違い・・。
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