私の育った地域は、当時はまだ「高光(たかみつ)村」で、私が中学を卒業した年に、高光村は宇和島市に合併しました。宇和島市に合併するまでは高光中学校で、小学1年生から中学を卒用するまでの9年間を同級と過ごし、家族のような感じで様々な思い出があります。今も高光小学校はありますが、宇和島市に合併すると高光中学校は廃止され、城北中学校に通学するようになりました。そのため私は高光中学校最後の卒業生になります。
当時中学生になると、人間の心の広がり、感性は真綿が水を吸い込むように広がるのを感じたものです。読み書きの能力や絵を描く能力、書道の能力も工作の能力や文学を理解する能力も急速に広がった時代だったと思います。中学生になるとクラブ活動もあり、とても楽しかったです。小学生なった時もそうでしたが、学ぶ楽しさを味わい知るようになった時代でした。
その中学1年生になった時の国語教師(女教師)に褒められた記憶があります。丁度田植えの時期だったと思いますが、作文の宿題がありました。私は田植えをする楽しさと、アメンボウが泳ぎ水紋の様子や田んぼに雨粒が落ちた時にどのように水紋が広がるかを作文に書いて提出しました。国語の教師は私の作文をとても褒めてくださり、当時教育員会が出版する文集に載せて頂きました。加えて絵を描くことの好きだった私に文集の表紙の絵も描くように依頼され、その絵も描きました。文集の表題は「出発」だったと記憶しています。
思いもかけず国語教師に私の作文を褒めて頂き、作文の時間がとても好きになりました。
後にエンジニアの道を歩むようになり、様々な文書を書き、まとめる必要がありましたが、私は中学1年生の時の国語教師に褒められ、作文が好きになったのが、身の助けになりました。エンジニアは技術説明書を内容によって、分かり易く数ページから250ページ位に書き、まとめる必要がありましたが、楽しく書くことが出来ました。電力会社殿に提出する技術説明書や取扱い説明書もとても分かり易いと褒めて頂きました。エンジニアの中には文書を書くのが苦手、という方もいましたが、私はそのような思いもなく、上記の通り仕事を遂行できたのは、中学1年生の時の国語教師の導きの賜物であった、と今でも感謝し思い起こします。
人生は思いがけない誉め言葉が、大きな礎になるものです。
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梅雨入りも 近いか空を 仰ぎ見る 今日の一句
市内の知人宅に残っている古い「つるべ井戸」