この事物の体制下では、私たち人間は、時と予見しえぬ時に、愛する家族や友人や知人を亡くし、誰もが悲しみや悲嘆を経験します。
大学1年生の時、社会科の教授が、人が経験する最大の悲しみは、親が子供に先立たれることである。よって病気などをして親より決して早く死ぬことがないように、健康に留意して生活するように、と話され、とても印象に残りました。親が年老いて老衰で死に、子も同じように年老いて死ぬのが順当なのだ、と、話された言葉を今も覚えています。
私は小学3年生の梅雨時だったと記憶していますが、わずか3歳の妹を病気で亡くしました。兄と妹が昼間は小雨の外で遊び、夕食後、夕刻から妹が高熱を出しました。両親はかかりつけの医師に来てもらい、医師は寝ないで治療をしてくださっていました。しかし、高熱は下がらず、3日目に妹は亡くなりました。私は亡くなった妹が可哀そうで、抱きしめて離しませんでした。母親に離して横にするように、と言われてもずーっと抱いたままでいました。しかし、妹は生き返ることなく、葬式が行われました。
当時は葬儀後は火葬ではなく、集落の良く見える里山のふもとにある、代々の墓に土葬をしました。地域の人たちが穴を掘り、棺を入れ、家族や地域の人たちが土で棺を埋める時の土の音が今でも耳に残っています。
埋葬後は、当時はお墓の灯篭にローソクを夕刻になると40日間灯しました。その役目を私が毎日行いました。実家から300m位の場所を毎日ローソクを灯しに行き、夜に妹が生き返っても道に迷わないよう、明かりを絶やさないように、と言われ、暗くなった夜道を走って帰っていたことも覚えています。
妹が亡くなった時からの両親の悲しみは、大変なものでした。特に母は毎日、棺を掘り起こしに行くと、言って、悲嘆に暮れていました。父が母親を慰め、いつも棺の掘り起こしに行くという、母を慰め、とどまらせていました。両親は自分の幼い娘を失い、人生最大の悲しみを背負ったのです。その姿を見るのは子供心にとても辛く、ずーっと心の中に残りました。後に聖書を学び、復活の福音を知り、少しずつ悲しみが和らぎ、復活の希望に立てるようになりましたが、それでも悲しみの心は残ります。
わずか3歳の妹は、特に母親思いで、母親が座ろうとすると、すぐに座布団を用意し、母親の座るところに座布団を敷く気配りをし、母親を喜ばせていました。その妹の姿が脳裏にはっきり残っています。
私の両親は私が28歳の時に、一番上の兄を事故で亡くし、人生の最大の悲しみを2度にわたって経験しました。私が聖書を学んだあと、帰省時に聖書を読んで差し上げ、復活の希望を伝えると、とても喜んでくださり、親孝行ができました。私が帰郷した秋に父は94歳、母は89歳で、続いて亡くなりましたが、この地上が間もなく楽園に回復され、そこに妹や兄や両親が復活し、再会できる日を楽しみにしています。
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真正面 ツバメ飛び来し 挨拶か 今日の一句
庭に咲いている「ホタル袋」