岐阜県図書館に5月6日に行ったとき、エッセイの棚でとても面白い本と出会った。もちろんその時中味は読んでいないので、その面白さはわからなくて、本のタイトルと表紙のマンガに惹かれただけだが。その本とは、上野誠著「万葉学者、墓をしまい母を送る」。何が面白いと思ったのかというと、おじさんが経験してきた葬式と比較することができたからだ。そして、これから経験することになる肉親の送り(もちろんおじさんが先に「行く」こともあり得るが)を考えるからだ。
少し、脱線すると、ラジオ英語会話で火曜日「We all have to go sometime」という慣用句があることを学んだ。これは「みんないつかは亡くなります」という意味で、「go」は自分のいるところから離れていくときの表現である。日本語では丁寧表現として「逝く」というのがある。両者ともいなくなるということだろう。
おじさんはかねて、冠婚葬祭はその地域の伝統や慣習によって大きく違っているのを感じていた。妹の嫁ぎ先の葬儀に出たとき、式場の前面に飾られていたのは造花の花輪(かつてパチンコ屋の開店時によく見た)だった。おじさんの地元では生花が用いられていた。これは小さな違いに過ぎないのだが、紹介した本を読むと共通点と大きく違う点の双方がある。ここから本の内容に立ち入りながら紹介する。著者(1960年生まれ)は福岡県甘木市(現在朝倉市甘木、私の山ともEさんの出身地)の出身で、13歳のときに祖父の葬儀に立ち会っている。個人病院に入院していた祖父は、最期は病院から追い出され(当時はこれが普通。家族が家での看取りを強く求めていたのかもしれない。)、自宅に帰ってきた。著者は祖父が亡くなる4週間ばかりを両親(福岡市在住)とともに過ごすことになった。祖父が亡くなると、医師が死亡を確認し、その後親類や隣家の男衆が次々とやってくる。そして、夕方になると今度は女衆が集まってきて、買物をし、集まった者たちの食事を作る。この時女衆は白い割烹着を着てくることがならわしなのだが、そのことを知らない若い住民がエプロンで来て、ひんしゅくをかったと書かれている。その住民は新しく割烹着を買い求めかければならなかった。女衆の中で采配をふるうのは年長者か慣習に詳しい者ということになる(近所の集まりではこのような人が出てくるし、また必要である。しかし、時に厄介な存在であることは言うまでもない。)
男衆はというと、葬儀の予算、香典の額等をめぐり、話し合いを延々と続けるのである。その家の家格(こんなものは勝手に作っているだけなのだが、親類や近所などと比べて決める)に応じた葬儀が良いとされているからである。延々と続く話し合いを著者は、「寄り合いの民主主義」と言っているが、これは民俗学者の宮本常一が描く話し合いそのものである(九州のある地域で宮本が地域の古文書を借りたいと申し入れたことに対して、地域住民の話し合いが何日にもわたり行われた)。長くなる理由は、勝者も敗者も作らない、皆がしぶしぶ同意したという形を必ずとらなければならない、こうすれば失敗しても誰も責任をとらずに済むからである。また、焼香の順も極めて神経を使うところである。自分の方が先だと思っている人にとって、後になるということはとても腹立たしく、親戚の集まりの機会などに蒸し返される(「取り込んでいて」という言い訳は通用しない。)。
この本のハイライトは「湯灌」の場面である。この地域では湯灌は女たちの仕事で妻と娘が行う。著者は男だがまだ13歳であったためにこの湯灌を手伝うことになったのである。この少年が祖母と母親(実の娘)の助けで祖父を背負い、風呂まで往復した。さらに祖父の着ていた寝間着を水洗いし、バケツに入れ、水を注ぎ込む。それは四十九日の法事が済むまでそのままの状態にされる。その理由はあの世に行くとき熱い熱い火焰地獄を通るからだそうだ。そして、男衆がなぜ湯灌をしないのかの理由が実に興味深い。男は怖がるから(女だって怖い)というのは嘘で、女たちはまるで赤ん坊をあやすかのように、祖父に声をかけていた、女たち特に妻にとって愛する人の身体を愛おしむ最期の時間であり、そういう愛の行為を他の男に見られたくないと心の奥で思っていたのではないかとと推測している。
ここでおじさんの経験を話す。おじさんの地域(?)では甥っ子(男)が行うことになっていた。おじさんの父親は自宅で看取ったので、家族以外の男たち(甥っ子プラスアルファ)が湯灌(風呂には行ってない)をした。その際、彼らは浴衣に着替え、お湯をガーゼに浸して、身体を拭いた。その後、浴衣を脱ぎ、お風呂に入った。その浴衣は故人が使っていた布団なんかと同様に焼却された。伯父、叔父さんのときには形だけガーゼで拭いた。会うといつも亡くなったたら甥である私に湯灌をしてもらうと言っていた叔母さんだったが、時の流れか死去ぶれもなく旅立った(後日亡くなったという連絡があり、お参りはした。)この時我が町には財産区所有の火葬場しかなく、それを行うのは近所の人という体制だったので、大垣市の火葬場へ運んだ。
本に戻ると、著者の祖父は商売で成功し、1930年に二階建ての墓を作った。一階が5、6人が入れるような納骨堂、二階へは階段をあがり、そこに墓標が建てられていた。著者はいつもうちの墓はどうしてこんなに大きいのかと思っていたそうである。それに対する祖母の答えがまた面白い。昔は家と家との縁組みをしたり、嫁をとったり、養子をとったりするときには、相手の家の墓を見に行ったもんばいと。この墓も著者により、福岡市内の墓の団地に移された。
いいかげん話が長くなっているのでそろそろ終わらなければいけない。著者は、著者の兄がなくなったので、福岡にいた母親を引き取ることになった。いやがる母親を奈良市まで連れてきたのだが、誤嚥性肺炎やら大腿骨骨折などで入退院、転院を繰り返した。母親が亡くなって、再び湯灌の話が出てくる。最初は著者自身で行うことも考えていたのだが、かつての記憶が蘇り、結局葬儀社に任せることになった。ゴム手袋をしたプロのチームによる湯灌(部屋に湯船をつくり、そこで行った)が行われ、最後に著者が湯をかける真似をして終了となった。もちろん、葬式は家族葬で行われた。
葬儀は地域によって大きく違っていたのだが、今や葬儀社による葬儀、さらには家族葬が主流となったことにより、全国均一化しているのかもしれない。おじさんの母は、この3月特別養護老親ホームに入居した。その際看取りもお願いし、「エンゼルケア」(かつての湯灌に相当?)もお願いした。かつてのような湯灌はもう見ることもないし、葬儀自体が大きく変わってしまったと思う。
少し、脱線すると、ラジオ英語会話で火曜日「We all have to go sometime」という慣用句があることを学んだ。これは「みんないつかは亡くなります」という意味で、「go」は自分のいるところから離れていくときの表現である。日本語では丁寧表現として「逝く」というのがある。両者ともいなくなるということだろう。
おじさんはかねて、冠婚葬祭はその地域の伝統や慣習によって大きく違っているのを感じていた。妹の嫁ぎ先の葬儀に出たとき、式場の前面に飾られていたのは造花の花輪(かつてパチンコ屋の開店時によく見た)だった。おじさんの地元では生花が用いられていた。これは小さな違いに過ぎないのだが、紹介した本を読むと共通点と大きく違う点の双方がある。ここから本の内容に立ち入りながら紹介する。著者(1960年生まれ)は福岡県甘木市(現在朝倉市甘木、私の山ともEさんの出身地)の出身で、13歳のときに祖父の葬儀に立ち会っている。個人病院に入院していた祖父は、最期は病院から追い出され(当時はこれが普通。家族が家での看取りを強く求めていたのかもしれない。)、自宅に帰ってきた。著者は祖父が亡くなる4週間ばかりを両親(福岡市在住)とともに過ごすことになった。祖父が亡くなると、医師が死亡を確認し、その後親類や隣家の男衆が次々とやってくる。そして、夕方になると今度は女衆が集まってきて、買物をし、集まった者たちの食事を作る。この時女衆は白い割烹着を着てくることがならわしなのだが、そのことを知らない若い住民がエプロンで来て、ひんしゅくをかったと書かれている。その住民は新しく割烹着を買い求めかければならなかった。女衆の中で采配をふるうのは年長者か慣習に詳しい者ということになる(近所の集まりではこのような人が出てくるし、また必要である。しかし、時に厄介な存在であることは言うまでもない。)
男衆はというと、葬儀の予算、香典の額等をめぐり、話し合いを延々と続けるのである。その家の家格(こんなものは勝手に作っているだけなのだが、親類や近所などと比べて決める)に応じた葬儀が良いとされているからである。延々と続く話し合いを著者は、「寄り合いの民主主義」と言っているが、これは民俗学者の宮本常一が描く話し合いそのものである(九州のある地域で宮本が地域の古文書を借りたいと申し入れたことに対して、地域住民の話し合いが何日にもわたり行われた)。長くなる理由は、勝者も敗者も作らない、皆がしぶしぶ同意したという形を必ずとらなければならない、こうすれば失敗しても誰も責任をとらずに済むからである。また、焼香の順も極めて神経を使うところである。自分の方が先だと思っている人にとって、後になるということはとても腹立たしく、親戚の集まりの機会などに蒸し返される(「取り込んでいて」という言い訳は通用しない。)。
この本のハイライトは「湯灌」の場面である。この地域では湯灌は女たちの仕事で妻と娘が行う。著者は男だがまだ13歳であったためにこの湯灌を手伝うことになったのである。この少年が祖母と母親(実の娘)の助けで祖父を背負い、風呂まで往復した。さらに祖父の着ていた寝間着を水洗いし、バケツに入れ、水を注ぎ込む。それは四十九日の法事が済むまでそのままの状態にされる。その理由はあの世に行くとき熱い熱い火焰地獄を通るからだそうだ。そして、男衆がなぜ湯灌をしないのかの理由が実に興味深い。男は怖がるから(女だって怖い)というのは嘘で、女たちはまるで赤ん坊をあやすかのように、祖父に声をかけていた、女たち特に妻にとって愛する人の身体を愛おしむ最期の時間であり、そういう愛の行為を他の男に見られたくないと心の奥で思っていたのではないかとと推測している。
ここでおじさんの経験を話す。おじさんの地域(?)では甥っ子(男)が行うことになっていた。おじさんの父親は自宅で看取ったので、家族以外の男たち(甥っ子プラスアルファ)が湯灌(風呂には行ってない)をした。その際、彼らは浴衣に着替え、お湯をガーゼに浸して、身体を拭いた。その後、浴衣を脱ぎ、お風呂に入った。その浴衣は故人が使っていた布団なんかと同様に焼却された。伯父、叔父さんのときには形だけガーゼで拭いた。会うといつも亡くなったたら甥である私に湯灌をしてもらうと言っていた叔母さんだったが、時の流れか死去ぶれもなく旅立った(後日亡くなったという連絡があり、お参りはした。)この時我が町には財産区所有の火葬場しかなく、それを行うのは近所の人という体制だったので、大垣市の火葬場へ運んだ。
本に戻ると、著者の祖父は商売で成功し、1930年に二階建ての墓を作った。一階が5、6人が入れるような納骨堂、二階へは階段をあがり、そこに墓標が建てられていた。著者はいつもうちの墓はどうしてこんなに大きいのかと思っていたそうである。それに対する祖母の答えがまた面白い。昔は家と家との縁組みをしたり、嫁をとったり、養子をとったりするときには、相手の家の墓を見に行ったもんばいと。この墓も著者により、福岡市内の墓の団地に移された。
いいかげん話が長くなっているのでそろそろ終わらなければいけない。著者は、著者の兄がなくなったので、福岡にいた母親を引き取ることになった。いやがる母親を奈良市まで連れてきたのだが、誤嚥性肺炎やら大腿骨骨折などで入退院、転院を繰り返した。母親が亡くなって、再び湯灌の話が出てくる。最初は著者自身で行うことも考えていたのだが、かつての記憶が蘇り、結局葬儀社に任せることになった。ゴム手袋をしたプロのチームによる湯灌(部屋に湯船をつくり、そこで行った)が行われ、最後に著者が湯をかける真似をして終了となった。もちろん、葬式は家族葬で行われた。
葬儀は地域によって大きく違っていたのだが、今や葬儀社による葬儀、さらには家族葬が主流となったことにより、全国均一化しているのかもしれない。おじさんの母は、この3月特別養護老親ホームに入居した。その際看取りもお願いし、「エンゼルケア」(かつての湯灌に相当?)もお願いした。かつてのような湯灌はもう見ることもないし、葬儀自体が大きく変わってしまったと思う。
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