我が家では大晦日の夕食前に仏壇の前に一家が集合し、お念仏を唱えるのが慣わしとなっている。今回は息子夫婦も帰省中であったので、私たち夫婦と4人が仏壇の前に並んだ。おじさんが導師の役で正信偈を唱えたのだが、最近御取越(おとりこし、親鸞の忌日である11月28日に行われる親鸞忌を繰り上げ、陰暦10月に各自の家で行う報恩講で「ごえんさん(住職)」が檀家の家をめぐる)とこの年末の行事くらいしか、正信偈を唱えることがないため、もともと上手でなかったお経がつまりつまりの少し調子外れとなってしまった。かつては随分前になくなった伯父さんの唱える正信偈を録音し、それをお手本に少し練習したこともあったが、今や家内から「下手になったね」と言われる始末である。そしてここのところの葬式さらには法事などの簡素化による激減によって、ますますお経を読む機会は減ってきているのである。
今月12日に父親の27回忌の法事を予定している。我が家は、二つのお寺の檀家となっており、男と女でお寺が違うのである。おまけにお墓は宗旨の違う別のお寺にある。記録を見ると、祖父は50回忌(取り上げ)、祖母は37回忌で最後とした。親戚の誰かがなくなっても、死去ぶれそのものが来ずに、後から知ることが多くなり、当然葬儀にも出席しないし、まして法事に出ることはない。かつて、葬式や法事では知らない顔が多くあったことを思い出す(遠い親戚でも死去ぶれが来た)。そこは祭りとともに親族交流の場であったわけである。話がそれたが、我が家の課題はこの二つのお寺をどうするかである。子どもたちが東京に住み続けるならば、現在の関係を続けることは物理的に難しいが、お墓が別の寺にあることは、檀家を辞めるうえで有利に働くかもしれない(お墓があると担保をとられている感じがする)。
揖斐の街の中に国道303号線に沿って3つのお寺が近接している 一つは浄土真宗本願寺派、残りは浄土真宗大谷派、揖斐は古い町のせいかお寺が多い
ながながと家の事情を書いたが、我が家に限らずお寺と今までどおりの関係を続けていくことは困難となってきている。橋本秀樹著「お坊さんが明かすあなたの町からお寺が消える理由」をここで紹介する。著者は曹洞宗の現役の住職で、檀家が400軒ばかりあったと書いてある。檀家制度は江戸時代に徳川幕府が始めた宗旨人別帳(これは現在で言えば戸籍でお寺は支配制度の末端となっていた)制度に基づくもので、これにより各家はいずれかのお寺の檀家となる必要があった。そしてここから信心を持った庶民等がお寺の信徒となっていた形から、葬式等を行うお寺という関係に変わっていった。いわゆる葬式仏教の成立である。そして、明治時代となって妻帯を許されていなかった浄土真宗以外の宗派も妻帯を許され、お寺は家業となったのである。さらに、戦前までのお寺は農地などの地主でもあり、そこから上がる地代はお寺の重要な収入源となっていた。これが農地解放により、所有していた農地は小作人に解放され、収入源は今や葬式関係のみとなってきたのである。
かつてお寺は地域やコミュニティの中心でもあり、お寺が催す行事に年寄りを中心に参加してきた。お寺を重要だと考える信心深い人たちが多くいたし、お寺への寄付も喜んでしてきたのである(ある意味家よりもお寺を重視した)。しかし、時代は変わり、お寺への気持ちも醒めたものに変わってきている。そこで橋本住職は、まずこの檀家制度(毎年定額を納めるほかに行事の際の寄付を求められる。特に高額になるのはお寺の新築、大規模修繕)をやめることを決断し、各個人との間で自由な信徒関係を結んだ。また、檀家に限定していた墓地や新しく作った永代供養墓に違う宗旨の人も受け入れた。また、葬祭業者に任されていた葬式を寺自ら行い、本堂を使った葬儀を行うようにした。不明瞭であった住職への金銭的支払い(戒名、お布施等)も明示、定額化した。
檀家制度ををやめた結果、新しく信徒となったのは約900軒。個人が信仰を通じてお寺と自由につながる関係、本来の関係に立ち戻った。檀家制度に伴う寄付や維持会費、お墓の管理料を徴収することをやめ、さらに葬儀のお布施(通夜、葬儀、初七日、火葬、戒名授与)を従来の50万円から20万円に値下げし、法事のお布施も3万円とした結果、お寺の収入は激減した。しかし、信徒の数の大幅増加(=頼まれる葬儀の数の増加)、葬祭の直接運営、お墓の新規増設などにより収支は改善した。宗教上の行事の他に週二回の座禅会、月二回のそばうち教室、写経、週一回の詠讃歌教室なども定例化した。非常に面白いと思ったのは「ゆうパック」を利用した「送骨サービス」、永代供養墓の入居申込みをネットでも受付ける(これがほとんどだそうだ)。合同納骨なら3万円、個別納骨なら10万円(ただし、10年間のみでその後は合同納骨となる)、供養墓の地下に1000骨、個別に130骨が納められている。奥さんが旦那の家の墓に入りたくないという話を良く聞く。この送骨サービスなどはこうした人にまさにぴったりのしくみではないか。「僧侶の心得十箇条」も面白い。中でも高級車に乗らないというのは思わず笑ってしまう。
我が家の様に高齢者のみの世帯、単身世帯の増加、そして人口減は大部分のお寺が檀家制度を維持できなくなることは確実である。しかし、人間に特有な死者を弔うという行為がなくなることはない。しかし、その行為をお寺や僧侶が行わなければならないかというと必ずしもそうではないだろう。寺や僧侶を介在させない弔いもあっても不思議でない。やはり葬式ばかりを偏重するお寺のあり方の再考を促す必要がある。
今月12日に父親の27回忌の法事を予定している。我が家は、二つのお寺の檀家となっており、男と女でお寺が違うのである。おまけにお墓は宗旨の違う別のお寺にある。記録を見ると、祖父は50回忌(取り上げ)、祖母は37回忌で最後とした。親戚の誰かがなくなっても、死去ぶれそのものが来ずに、後から知ることが多くなり、当然葬儀にも出席しないし、まして法事に出ることはない。かつて、葬式や法事では知らない顔が多くあったことを思い出す(遠い親戚でも死去ぶれが来た)。そこは祭りとともに親族交流の場であったわけである。話がそれたが、我が家の課題はこの二つのお寺をどうするかである。子どもたちが東京に住み続けるならば、現在の関係を続けることは物理的に難しいが、お墓が別の寺にあることは、檀家を辞めるうえで有利に働くかもしれない(お墓があると担保をとられている感じがする)。
揖斐の街の中に国道303号線に沿って3つのお寺が近接している 一つは浄土真宗本願寺派、残りは浄土真宗大谷派、揖斐は古い町のせいかお寺が多い
ながながと家の事情を書いたが、我が家に限らずお寺と今までどおりの関係を続けていくことは困難となってきている。橋本秀樹著「お坊さんが明かすあなたの町からお寺が消える理由」をここで紹介する。著者は曹洞宗の現役の住職で、檀家が400軒ばかりあったと書いてある。檀家制度は江戸時代に徳川幕府が始めた宗旨人別帳(これは現在で言えば戸籍でお寺は支配制度の末端となっていた)制度に基づくもので、これにより各家はいずれかのお寺の檀家となる必要があった。そしてここから信心を持った庶民等がお寺の信徒となっていた形から、葬式等を行うお寺という関係に変わっていった。いわゆる葬式仏教の成立である。そして、明治時代となって妻帯を許されていなかった浄土真宗以外の宗派も妻帯を許され、お寺は家業となったのである。さらに、戦前までのお寺は農地などの地主でもあり、そこから上がる地代はお寺の重要な収入源となっていた。これが農地解放により、所有していた農地は小作人に解放され、収入源は今や葬式関係のみとなってきたのである。
かつてお寺は地域やコミュニティの中心でもあり、お寺が催す行事に年寄りを中心に参加してきた。お寺を重要だと考える信心深い人たちが多くいたし、お寺への寄付も喜んでしてきたのである(ある意味家よりもお寺を重視した)。しかし、時代は変わり、お寺への気持ちも醒めたものに変わってきている。そこで橋本住職は、まずこの檀家制度(毎年定額を納めるほかに行事の際の寄付を求められる。特に高額になるのはお寺の新築、大規模修繕)をやめることを決断し、各個人との間で自由な信徒関係を結んだ。また、檀家に限定していた墓地や新しく作った永代供養墓に違う宗旨の人も受け入れた。また、葬祭業者に任されていた葬式を寺自ら行い、本堂を使った葬儀を行うようにした。不明瞭であった住職への金銭的支払い(戒名、お布施等)も明示、定額化した。
檀家制度ををやめた結果、新しく信徒となったのは約900軒。個人が信仰を通じてお寺と自由につながる関係、本来の関係に立ち戻った。檀家制度に伴う寄付や維持会費、お墓の管理料を徴収することをやめ、さらに葬儀のお布施(通夜、葬儀、初七日、火葬、戒名授与)を従来の50万円から20万円に値下げし、法事のお布施も3万円とした結果、お寺の収入は激減した。しかし、信徒の数の大幅増加(=頼まれる葬儀の数の増加)、葬祭の直接運営、お墓の新規増設などにより収支は改善した。宗教上の行事の他に週二回の座禅会、月二回のそばうち教室、写経、週一回の詠讃歌教室なども定例化した。非常に面白いと思ったのは「ゆうパック」を利用した「送骨サービス」、永代供養墓の入居申込みをネットでも受付ける(これがほとんどだそうだ)。合同納骨なら3万円、個別納骨なら10万円(ただし、10年間のみでその後は合同納骨となる)、供養墓の地下に1000骨、個別に130骨が納められている。奥さんが旦那の家の墓に入りたくないという話を良く聞く。この送骨サービスなどはこうした人にまさにぴったりのしくみではないか。「僧侶の心得十箇条」も面白い。中でも高級車に乗らないというのは思わず笑ってしまう。
我が家の様に高齢者のみの世帯、単身世帯の増加、そして人口減は大部分のお寺が檀家制度を維持できなくなることは確実である。しかし、人間に特有な死者を弔うという行為がなくなることはない。しかし、その行為をお寺や僧侶が行わなければならないかというと必ずしもそうではないだろう。寺や僧侶を介在させない弔いもあっても不思議でない。やはり葬式ばかりを偏重するお寺のあり方の再考を促す必要がある。
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